まだまだ寒い早春。
きん、と冷える空気に体を震わせながら、名前は階段をのぼっていた。かつんかつんと響く足音。
外出先からの帰り道、<何か>の気配を感じたとある廃ビル。興味を惹かれてやって来たのだ。
「?」
屋上に近づくにつれて周りの空気が張りつめていくのを感じる。それは次第にぴりぴりと肌を刺すようになり、心がざわめく。
―いったい<何>がいるの?
逸る気持ちを抑えきれずに、足を速めた。
かんかんかんかん―――
先程よりも大きな足音を立てながら階段をあがりきり、思いっきりドアを開け放った。
その瞬間、ぶわりと真正面から突風を受け、反射的に腕で顔を庇った。薄く開けた目で前方を見ると、淡い光を帯びた人影が一つ確認できる。
「落ち着け!私は何もしない!ただ見に来ただけだ!」
そう叫ぶと突風は止み、人影を視認出来るようになった。
壁際に立っているのは二十代半ば位の青年。灰色のつり目と顎髭が印象的な整った顔立ちをしていた。
『―ゼロ、じゃない…?』
青年は大きく両目を見開き、ぽつりと呟く。揺れていた燐光は落ち着きを徐々に取り戻していった。
それを黙って観察していた名前は、緊張していた全身から力を抜くように長く息をはいた。
「驚かせてごめんなさい。私は名字名前。<視える・聞こえる者>だよ」
名前が自己紹介をすると、続けて青年も名乗りあげた。
『……俺はスコッチ。ここに<囚われる者>だ』
冬の終わりを告げる梅の花が咲く季節に、二人は出会った。

あれから数週間がたった。
寒さが緩みだし、日差しが暖かい日が続いていた。
名前は背中にギターケースを背負い、右手に途中で購入した花を持ってとある場所へ足を運んでいた。
つい最近できたちょっと変わった友人。彼と会える場所はそこだけだと決まっているので、時々足をのばして遊びに来ているのだった。
双方ともベースが弾ひけることが判明し、名前はスコッチから彼がよく弾いていたという曲を習っていた。

「こんにちは、スコッチ」
屋上へ続く扉を開けて声をかける。
それに呼応するように、壁際の空気がゆらりと歪んだ。涌き出るように姿を現したのは、顎髭が似合うイケメンで、警察官だったという二十代半ば位の青年だ。
『やあ、名前。久しぶりだな。少しは上達したか?』
スコッチは人好きのする笑みを浮かべ、右手をひらひら振りながらいった。
「まぁね。もうばっちりだよ。ねえ、今日はいいもの持ってきたよ」
こつこつ足音をならしながらスコッチに近寄ると、右手に持っていたものを差し出した。
『これは…桃の花?』
紙に包まれていたのは、細い枝にたくさんの薄桃色の小さな花がついたものだった。
「当たり。今日は桃の節句なので買ってみました。あとこれも」
上着のポケットから小さなビンを取り出した。
「じゃーん白酒でーす」
にこりと笑いながら、花を壁に立てかけ、その前に白酒を置いた。
「ここから離れられないスコッチにプレゼント」
名前はケースからベースを取り出し、弦を弾(はじ)きながら『ひなまつり』を歌い、続けてスコッチから習った曲を弾(ひ)いた。
スコッチは目を閉じて耳を傾ける。脳裏に懐かしい面々が浮かんでくる。
―彼奴らは元気にやっているのだろうか…
思いにふけっていると、いつの間にかベースの音が消えていた。
「…スコッチ?」
訝しげに呼ばれて我に返った。
『っ、すまない、思わず聞き惚れちまったよ。これ、ありがとな。長くここにいるとこういうのに疎くなっていくから嬉しかった』
桃の花を見ながらそうしみじみというスコッチに、名前は悲しげに眉尻を下げたが、しんみりする空気を散らすようにぱん、と手を合わせた。
「ならば、私が教えてあげる。月末になれば、桜が咲き始めるはず。今度は桜を持ってくるから、ぱぁっとお花見しようよ!」
『ああ、楽しみにしているよ』
スコッチは、ぽっかりと穴があいた胸が温かくなるのを感じた。肉体がなくても感じられた温度に、全身を覆う燐光が震えた。
自分を気遣い、世間話をしたり、季節を感じさせるものを持ってきたりしてくれる。本当に心優しい女性だ。
『ありがとうな、名前』
口から溢れ出たのは、心からの感謝だった。

桜が盛りを終えて花弁を散らす頃、それをせっせと集めている若者があちこちで目撃された。その目撃者の中に、日本人離れした外見の青年が混じっていた。

「こんにちは、スコッチ」
名前が屋上へつながるドアを開けて挨拶をする。
それに呼応するように、壁際の空気がゆらりと歪み、涌き出るようにスコッチが姿を現す。もうお馴染みの流れだ。
『よう、いらっしゃい。随分と大きな袋だな。何が入っているんだ?』
肩に担がれている袋の大きさに、スコッチは目をまるくしてたずねた。
「これは桜の花弁が入っているの。――最後ぐらいは盛大にやろうかと思ってね」
袋を下ろしながら答えた名前の表情は少し暗かった。
『最後?お前、どこかに行くのか?』
訝しげに聞くスコッチに、名前はここ一帯の再開発が決まり、間もなく立ち入りが出来なくなることを伝えた。
「私も仕事が忙しくなるから、きっとこれが最後になる。だから、ぱーっとやりたくて頑張って集めてきたんだよ」
袋のくちを開けて両手に中身をすくい上げる。
「It's show time!」
そう叫ぶと、空に向かって放り投げる。
『!』
晴れ渡る青空に、薄紅色の花弁が乱舞する。
はらはらと落ちてゆく花弁を二人並んで眺める。
「短い間だったけど、スコッチと会えて、おしゃべりして、ベース弾いて、色々楽しかったよ」
『俺も、名前と会えて、季節を感じられて、ベースを聞けて、色々嬉しかった』
顔を見合せ、視線を交わす。互いの瞳に自分の姿が写った。
「『ありがとう』」
名前は再び袋に手を突っ込み、花弁をすくった。
「さぁ、派手にいくよ〜」
勢いよく腕を振り上げ、豪快に撒き散らす。
春風に花弁が巻き上げられて屋上からこぼれ落ちていった。
『見事な花吹雪だな』
ふわりふわり地上へ舞い降りるのを、スコッチは名前と過ごした日々を思い返しながら感慨深く見つめていた。

同時刻。地上では、廃ビルが取り壊されると知ってやって来た彼の幼なじみが、ビルの上から降ってくる桜の花弁に蒼い双眼を丸くして見上げていた。
「…まさか、あの時の――」
彼は薄紅色のそれを浴びながら、先日見かけた若者の姿を思い出していた。
目元を緩め、柔らかい笑みを浮かべる。
「どこの誰かはわからないけど、礼をいわせてもらうよ。彼奴に最高の手向けをありがとう」