平成天皇が退位し、新しい時代、令和が始まった。
平成は色んなことがあった。一番大きなことといえば、バスケとキセキの世代と海常高校のバスケ部の先輩たちとの出会いだろう。憧れ、その背中を追いかけたた存在。仲間と味わう喜びや楽しみ、そして悔しさ。曲がった根性を叩き直してくれた先輩たち。我ながら充実した青春を過ごしてきたと思っている。
社会に出て数年が経って令和を迎えた今年、後輩を指導する立場を初めて体験した。人を育てることの大変さを日々実感しながら過ごしている。

その日は梅雨の中休みで、雲ひとつない青空が広がっていた。
ふっと影が横切ったので、空を見上げると、白鷺が風にのって緩やかに翼を羽ばたかせ、飛び去っていくのが目に映った。空の天色(あまいろ)と鷺の白のコントラストがあまりにも見事で、思わず立ち止まり白が小さく見えなくなるまで見つめていた。
(こうして空を見上げるのは久しぶりだな……)
夏を感じさせる日射しの強さに目を細める。
大人になるにつれて心のゆとりというものがなくなっていき、常に時間に追われるように生きてきたように思う。ふっと肩の力を抜くように息をはき、空から顔を前方に戻して目的地へと歩みを再開させた。


彼女との出会いは、社会人一年目の桜の咲く時期だった。健康診断で来ていた病院に入院していたのだ。車イスに乗って中庭に植えられた桜を見上げていたのに気づいて声をかけたのが始まりだった。俺の声に振り向いた彼女はどこか儚く、桜の花弁を散らす春風に浚われてしまいそうな感じがした。だからなのか、
『中に入って、少しおしゃべりしないっすか?』
気づいたらそう言っていた。

『こうして見ると、海の中にいるような気分になるでしょ?』
梅雨入りしたある日、俺は再び病院を訪れた。あるものを買ってきて欲しいといわれたからだ。病室に入ると、彼女はベッドの上で上半身を起こしていた。相変わらず顔色は青白かった。頼まれたものを渡すと、いそいそと袋から中身のカラーシートを取り出して広げ、青色のやつを目の前にかざした。
何故、これを欲しいといったのか分からずその理由を聞いてみた。彼女は海を一度も見たことがなく、少しでも気分を味わいたくて俺にカラーシートを頼んだという。俺にも見てみろといってきたので、受け取り青色を選んで目の前にかざしてみた。視界がコバルトブルー一色に染まる。海の青を知っている自分としては、味気のない青に見えてしまう。確かに海の中にいるような感じはするのだが、色とりどりの魚もいなければ、珊瑚や海草もない。見えるのは青く染まった、何時もは白い室内と彼女だけだ。
『こんな『海』じゃなくて、本物を見に行こう。海の青はこんな薄っぺらいもんじゃあないっすよ』
そういうと、彼女は俺の提案に驚いたように目を少し見開いた後、嬉しそうに顔を綻ばせた。
『ありがとう。それじゃあ、今から体力つけなくちゃね。自分の足で砂浜を歩いてみたいし、海にも入りたい』
気分が高揚しているのか、青白い顔がうっすらと赤みをおびていた。
『楽しみにしておいてくださいっす』
海を見たことがないといった彼女。これは是が非でもとっておきの海に連れていってやろうではないか。頭の中で今まで行った海をつらつら思い浮かべながら候補地を探した。しかし、それは果たされることはなかった。彼女の体は長距離の移動には耐えられないとのことで、医者からの許可がおりなかったのだ。
それで海は諦めてその代わりにと、俺は水時計と海の写真集を渡した。写真集は本屋で買ってきたものだが、水時計は沖縄土産に姉から貰ったものだ。長さ20pの円柱形の入れ物に透明の液体が入っていて、引っくり返すと青いスライムのような塊が一定の間隔で螺旋状のスロープを滑り落ちていく。全て落ち終わる時間は3分だ。スライムを溜める部分の表面には跳ねるピンクのイルカのイラストが描かれていた。
『ありがとう、黄瀬くん。嬉しいな』
きゅうっと目を弓なりにして礼をいい、前回会った時よりも細くなってしまった腕で渡した紙袋を抱えた。
それから何度か病室を訪れる度に海の生き物の縫いぐるみやら貝がらやらを持っていった。気づけば『ふふっ、なんだか水族館みたいね』と彼女にいわれるくらいの量になっていた。
海が駄目なら近場の水族館ならば行けるのでは、と彼女の言葉から思い付いた。しかし、これもまた実現出来なかった。
しとしとと梅雨の雨が降る、肌寒いある日、彼女は息を引き取った。


墓参りを終え、自宅に戻ってきた。
個室に入り、どかりとデスクチェアに座る。机の上には、色褪せたピンクのイルカが描かれた水時計が置いてある。形見として手元に戻ってきたそれをひっくり返してみた。ぽとりとこぼれ落ちたスライムは、すっかり色が抜けてしまっていた。
これをあの子に渡したのは、随分前になるのだなあと染々と思い、滑り落ちていく透明なそれをぼんやりと眺めていた。ふと、あることを思い付き、机の引き出しからA5版のカラーシートの束を取り出した。これも水時計と一緒に譲り受けたものだ。ばらりと扇状に開いて青いものを水時計にかざした。透明だったスライムは何年かぶりに色を取り戻した。
――黄瀬くん……
朧気になっていたあの子の声がはっきりと蘇った。