平日の昼間

カタカタとキーボードを打つ音が響くオフィス。
私語をする人はなく、皆ディスプレイや手元の資料を見やっている。
わたしといえば資料のコピーを頼まれて、部屋の端に置かれたそれを操作しているところだ。

窓に引かれたブラインドで遮られてはいるが、降り注ぐ陽の光は室内の気温を高くする。
エアコンは作動しているけれどエコだか節電だかで設定温度は高めだから、ばたばた動けばすぐに汗をかいてしまう。

夏は、苦手だ。



「うちの子この間から夏休みなのよー。部活も引退したから毎日家にいてさあ…私が帰ったら開口一番に今日の飯は?って言うのよ。本当やめてほしい」


同じ部署の先輩とお昼ご飯を食べていると、彼女は唐突にそう言った。
確か、もう高校3年生になるお子さんがいたはずだ。

受験だってのに勉強もそこそこなのよね。
ため息混じりにそう続けるのに、相槌を打ちながらふと自分の学生時代を振り返る。



昔はわりとこの季節が好きだった。
まだ学生だった頃はプールだ、海だ、祭りだと、暑い中をより暑くなることをして騒いでいた記憶がある。
勉強なんてもちろん二の次で、大学受験は第4志望ぐらいのところに文字通りなんとか滑り込んだほどだ。
あんなふうにできた元気も時間も、自分が学生で夏休みがあって、時間を共有できる友人がいたからこそなんだなと実感する。

でも、楽しかった。

特に高校生のときは。

大学生活が楽しくなかったわけではない。
だけど、補習をなんとか回避して勝ち得た待望の休みに、女子も男子も混ざって本気のビーチバレー大会とか、トキメキもへったくれもない怖すぎる肝試しとか、祭りの出店でテキ屋さんが破産するぐらいの射的大会だとか…そんなことをしたのはあの時だけだ。
あの銀髪のゆるーい先生のもと、唯一無二のクラスメイトと過ごす時間は本当に楽しかった。


「あ、休憩時間終わっちゃう!」


誰かひとりの焦った声に我に返り、慌ててお弁当箱に蓋をする。
少し話しすぎた。
午後から取引先の営業の人が来る予定だから、お茶の準備をしないと。

少ない時間の中、洗面台で口をゆすぎ、化粧の崩れを確認する。

着飾らなくても輝いていたあの時。
性別なんか関係ないように見せかけて、なんやかんや優しかった男子たち。
彼らはみんな、レベルが高いと他のクラスから評判で、わたしもそのうちのひとりに恋してたなあ。

告白もせずに、淡い気持ちを胸に秘めたまま卒業してしまった。
それから今まで会っていない。
神楽やお妙とは何度か遊んだけど、みんな社会人になってからはそれもなくなりつつある。

…あのとき、何か行動に移していれば何か変わっていたのだろうか。
問いかけてみるも答えはわからない。


不意に失笑してしまった。
慌てて口元を引き締めるが、思い直す。

どうせ、目の前のこの扉を開けた中にいる面々に、とびきりの笑みを向けなければならないのだ。

コンコン、とノックをしてノブを回す。
手に持ったお盆の上、並べられた湯のみの中身が小さく跳ねた。


「失礼致します」


お茶をお持ちしました、
そう続けるはずだったけど、それも忘れ、ソファーに腰掛けた男性を思わず凝視する。


「…名字?」


ぴたりと動きを止めたわたしを変に思ったのか、黒髪のその人もちらりとこちらを見やる。
そうして、ぽつりと呟くようにわたしの名を確かに呼んだ。


「ひ、土方くん、だよね?」
「おう、びっくりした。ここで働いてたのかよ」


元々大人っぽかった彼だけど、歳を重ねたことで余裕のある、素敵な大人の男性になっていた。
ピシッとしたスーツがとてもよく似合う。
同い年なはずなのに、その姿が眩しい。

うちの営業マンが「知り合いですか?」と彼に問うた。
「高校の時の同級生で」と懐かしいテノールボイスが響く。

さっきまで思い出の中にいた彼が実際に目の前に…。その事実にかなり焦った。

息を小さく吐いたとき、自分の手に持たれたお盆のことを思い出す。
「お茶です」とようやく当初の目的を達成し、交わる土方くんの視線にドキドキしながら笑って見せる。


「…失礼致しました」


ああ、なんで今、仕事中なんだろう。



…………

就業後。制服から着替えて、会社の外に出ると太陽はまだ高く上がっていた。
今日は残業もなく定時に上がれた。
もとより残業なんてする気持ちにはなれないけれど…。


最寄りの駅へ向かいながら、思い出されるのは土方くんのこと。
冷えた湯呑みを下げに行った時にはもう、彼はいなかった。
いつもなら当たり前なその状況に、やけにショックを受けた。

またとない機会だったんだろうな、と思う。
だけどそれが仕事中なんて、世間話も許されないようなあんなタイミングなんて…間が悪すぎる。

また出会える可能性はもちろんある。
けれど営業が取引先に出向くなんて毎日あることじゃない。
それに毎回わたしがお茶をお持ちするとも限らない。
ならばさっきの出来事は、一期一会と表現しても差し支えないことだったんじゃなかろうか。


やけにぐだぐだと尾を引いて考えてしまって、気分が沈む。
傍から見れば、知り合いとのなんてない再会だ。
だけど彼は違う。土方くんはわたしの、…特別だった人なのだから。

久しぶりに出会えてラッキー。
そうなればよかったのに、気持ちがうまくコントロールできない。

高校3年間、ずっと好きだった。
最初はあの見た目に一目惚れだったけど、中身を知ってもっと惹かれて、だけど彼は遠い存在だった。
色々と理由をつけて関われるよう頑張ったけど、いつも空回りしていた自分。

高校最後のクラス替えで一緒になれたときは涙が出るぐらい嬉しかった。

お妙と神楽と仲良くなれて、近藤くんや沖田くんと話すようになった。
その流れで自然と土方くんと話せるようになって…1年間、友達としてそれなりに仲良くなれたと思う。

でも、そこから先へは踏み出せなかった。

彼に告白して玉砕した女の子達をたくさん見てきた。
もしああなってしまったら…?築き上げたこの関係はどうなるの?

その考えが「好き」の気持ちより先行して、そのまま卒業式を迎えてしまった。
最後は呆気なかった。じゃあね、と一言。それっきり。

消化不良を起こしたその感情をなんとか心の奥底に押し込めて、今までやってきた。

それが、こんな形で、掘り起こされようとはーーー、





「名字」


背後から自分を呼ぶ声がした。
ハッとして振り返る。

そこに立っていたのは、土方くんだった。

呆気にとられて言葉を失う。

なんで?どうして?
頭の中でその文字がぐるぐる回るのに、喉元から先へはちっとも出ない。

そんなわたしの心境に気づくことなく、ゆったりとした口調で「すげえ偶然」と言う彼。


「今帰りかよ」
「う、うん、今日はすぐに帰れて…ひ、土方くんは?」
「違う営業先からの帰り。なんか名字っぽい奴いるなって思ったら本当にお前だった」


本当に、すごい偶然。

乾く口の中、絞り出すように返事をしたらその後はなんとか続いた。
目眩を覚えながら、目の前に立つその男性を見上げる。

変わらない。あの時と何も。

そうなんだ、と相づちを打ちながら鼓動がどんどん早くなっていく。


「今日はびっくりした。あの会社で働いてたんだな」
「そう…新卒でとってもらえて…」
「ああ、なるほどな」


歩を進める土方くんに慌てて付いて行った。
肩を並べて歩くことに妙なむず痒さを感じる。



髪を少し揺らす程度の風が吹いて、隣からふんわりと煙草の香りがした。
ちらりと見上げると、変わらずきれいな横顔があった。
何気ない話題を振られて、緊張しながらも会話が続くよう言葉を選ぶ。

香りもそうだけど、昔と違うところはたくさんあるのだと思う。
だけどあのときに戻ったようだ。

声を聞いて、顔を見て、思い出される。


勉強を教えてくれたときの、近い横顔。
わたしは走るペン先を追うのに必死だった。

緊張しながらも参加したビーチバレー。
神楽のサーブを顔面キャッチしてしまったとき、いの一番に駆けつけてくれたその優しさに嬉しくてたまらなかった。

肝試しで、強引に引かれた腕の熱さはあれ以上を知らない。
土方くんを好きな人の中できっとわたしだけの秘密、彼の意外な一面はお化けが苦手だということ。

女子3人で行ったお祭りでたまたま出くわしたのはきっと、近藤くんがお妙に会うために画策した結果だ。
早々に砂利の上に沈んだ近藤くんに、神楽と射的大会を繰り広げる沖田くん、それをやれやれといった表情で見つめる土方くん。
わたしはただ笑った。
こんな楽しいことが、幸せなことがずっと続けばいいのにと思った。

…そう、思っただけ。


「…名字?」
「あ、ごめん、…なんか懐かしいこと思い出してて」
「懐かしいこと?」
「うん、高校3年生の夏休み」
「ああ、あんとき楽しかったな」
「…そうだよね、夏休みの中で一番覚えてる」


こんなタイミングが続くなんてまたとない。
また、ちらりと斜め上を見上げると彼もこちらへ視線をやっていた。

跳ねる心臓。うまく笑えているか自信がない。


「ひ、久しぶりだね…卒業式以来?」
「ああ、もう何年になるんだろうな」
「もうみんなと全然会ってないね」
「俺も、この前近藤さんに呼び出されたっきりだな。まだお妙の尻追っかけてんだぜあの人」
「懲りないねえ…近藤くんは…」


あはは、と笑ったあと、間が空いた。

それは一瞬だったけど、なんだかすごく怖かった。
切り出さなければ、もう次はないと覚悟した。


これは、ラストチャンスだ。


「ねえ、また…みんなで集まりたいね」
「ああ、同窓会ってことか」
「うん、お妙とか神楽とか声掛けてみるから、さ…また、連絡、してもいい?」


今度は上を見ることができない。

彼からの返事を聞きたくて仕方ないのに、そうしてしまうのが怖くて吐く息が震える。

次の言葉を待つ時間がとても長いもののように感じた。



「いいに決まってんだろ。連絡先変わってねえし」
「…ほんと?」


笑う口元が引きつる。
平静を装うのに必死だ。

わたしたちは友達だ。
断られることなんてそうそうないに決まっている。

だけど嬉しくてたまらなかった。

わたし、また、土方くんと連絡が取れるんだ。
また会うことが出来るんだ。
また、あの何にも変えがたい時間を過ごすことが出来るんだ。


「ありがとう。たまたまだったけど今日は会えてよかった」
「や、本当に偶然だったな。会社でもだが帰り道で会うなんてよ」


本当に、こんななんてない平日の昼間にひょっこり落ちてきた運を、決して離してはならないと強く思う。

短い時間の中で、どんどんと膨らんでいく気持ち。
もう枯れて、根まで腐りきっていたと思っていたそれはただ冬眠していただけだったのだろう。

何気ないタイミングで土方くんが柔らかく微笑む。

それを心の中で何度もシャッターを切りながら、瞬きする瞼の裏に焼き付ける。

ああ、わたし、こんなにも彼のことが好きだったんだ。


上がる口角をもう隠すこともせず、おもむろに手を後ろで組む。

左手の薬指からそっと指輪を抜き取り、手のひらの中に隠した。