憧れの海水浴
夏休み。いわゆるお盆休み。そんなものが聖徳太子の脳内にあるはずもない。彼は年中、働いていて、そんな彼に付き合わされている部下にも当然休む暇などないのだ。太子のもとで働き詰めの私と妹子は夏も毎日職場に通っている。通っているというか、住みついていると言った方が正しい。太子が用意した部下専用の仮眠室があり、私や妹子は職場で寝泊まりすることが多かった。
蒸し暑い真夏の深夜。私は、私専用の仮眠室で、気絶という名の眠りから目覚めた。先刻、太子から仮眠の許可を貰い、数時間だけ寝ていたのだ。
疲れているはずなのに、なぜか懐かしい夢を見た。眠っている私の瞼に浮かんだのは、昨年の夏、お盆を目の前にして疲労の度合いが頂点に達した私と妹子が必死で太子に休みを乞うた時の光景だ。あの時の太子の対応は今思い返しても相当酷かった。「そこにある書類仕事を終わらせたら休みをやらんでもない」と言って太子が指さした書類の山は、とてもじゃないがひと月かかっても終わらない分量だったのだ。あれ以来、私も妹子もすっかり休みを取るのを諦めてしまって、今年の夏は見事に毎日仕事が入っている。夏休みなんて魅惑的な言葉は、私たちにとって手の届かぬ幻想でしかない。
そんな絶望感でいっぱいになった胸を無理やり切り替え、やる気を振り絞って仕事場に戻る。すると、私が職場に帰ってきたことに気づいた妹子が物凄い笑顔で走り寄ってきた。
「おはよう!!いい知らせがあるんだよ!!」
深夜におはようという馬鹿げた挨拶をする時点で、彼も仮眠から戻ってきたばかりであることは明白だ。あるいは、仕事のしすぎで時間感覚が狂って今を朝だと勘違いしているのかもしれない。
妹子は目の下に不健康なクマを携えて、不気味なくらい明るく笑っている。仕事が終わらなすぎて笑えてくることは私もよくあるので、目の前の彼が笑っているのは終わりの見えない仕事の山に精神がイカれてしまったからだろう。そんなふうに失礼な推測をしている私に向かって、彼は満面の笑みを浮かべた。
「休みが取れたんだよ!夏休み!たった一日だけどね!」
「…………なんて?」
数秒間、私は驚きのあまり固まっていた。聞き間違いかと思い、もう一度問いかけてしまう。しばらく彼の言葉の意味が理解出来ず、頭の中で何度も「夏休み」の単語の意味を自問自答するが、意味がわかっても彼の発言内容が信じられない。夏休みって、夏に取れる休みのことだよな。でも私たちが休みを取れるはずがないし、妹子は何を言っているんだろう。
「夏休みだよ、夏休み!」
彼は嬉しそうに同じ単語を反芻する。はしゃいでいる彼の背後では、太子が鬼のように目をギラつかせてこちらを睨んでいた。それに気づいた妹子は私の手を掴むと、軽い足取りで職場を抜け出し、そのまま人のいない廊下まで私を引っ張っていく。
「俺、さっき太子に必死で交渉したんだよ。翌日に三倍働くから、一日だけ休みをくださいって」
「休み……?本気で言ってるの……?」
「うん!やっと俺たちにも夏休みが来るよ!」
夏休み。なんて甘美な響きだろう。休日なんて正月以来じゃないか?……と、思うやいなや、私は喜びのあまり妹子の手をガッシリ掴んでブンブン振り回していた。
「……ほんとに妹子ってやればできる男だね!よくやった!最高!大好き!神さま仏さま妹子さま!」
「きみが何言ってるのかちょっと良くわからないけど俺も最高な気分だよ!そしてきみのこと大好きだよ!」
二人とも寝てなさすぎて頭がおかしくなっているので、お互いに自分が何を口走っているのかよくわからないまま、私たちは笑顔で休日の計画を立て始める。
「太子に頼んで二人とも同じ日に休みを貰ったから、一緒に出かけよう!」
「いいね!どこに行く?」
「海!」
「なんで海!?」
妹子が凄まじい速さで行き先を決めたので、私もまた即座に尋ねた。すると、妹子は高まった気分を落ち着かせるように一つ深呼吸してから、冷静な口調で告げる。
「せっかく丸一日、きみと二人きりで休めるんだから、誰にも邪魔されず静かに過ごしたいんだ」
たしかに、太陽が昇らなくなってから、海と空はいつも真っ赤で趣がないし、波も荒くなったので、海岸に人が近づかなくなった。けれど、二人きりで過ごすなら別に海じゃなくても、街を離れた山の中でのんびり過ごすという手もあるだろうに。そんな私の思考を先読みしたかの如く、妹子はバツが悪そうに笑う。
「……っていうのは建前で、本音はきみの脱いだところが見たいというかなんというか……」
「うわぁ……素直に変態的なこと言うね。引くんだけど」
「しょうがないだろ!俺だって男なんだから。仕事ばっかりじゃなくて、たまにはきみを味わいたいんだよ」
必死で弁解する彼を見ながら、「ああ……妹子は相当疲れているんだな」と思った。だって、いつも紳士な彼がこんな下心まる見えの言葉を吐くわけがないのだ。
対する私もめちゃくちゃに疲れているので、さっきから妹子が物凄い爆弾発言を連発していることに今更気づいた。「二人きりで休日を過ごしたい」だなんて、まるで告白みたいだ。
……というか私たち、さっき互いに「大好き」とかなんとか叫ばなかったか?
「まぁいいや」
私は数分前の自分の発言から目を逸らすことにした。妹子がすかさず「何がまぁいいやなの?」と問いかけてくるが、「なんでもないよ」と答えておく。
仕事が忙しすぎて恋愛が二の次になっているため、ついつい自分でも自分の気持ちを忘れてしまうのだが、私はずっと前から同僚の妹子に恋しているのだ。この気持ちはきちんと冷静な状態で言葉にして伝えたい。寝不足で疲れている時の勢いとかじゃなくて。
……となると、これはいい機会だ。たった一日でも二人きりになれるのなら、その休日を使って私は彼にちゃんと告白しよう。そう思うと、久々の休日がいやましに待ち遠しく感ぜられ、思わず顔がニヤけた。目の前で、妹子も私と同じようにニヤけた顔をしている。最高の夏休みになりそうだ。