出版会社に勤める新人編集者の私が唯一担当していたノンフィクション作家、天倉螢が、ある日から失踪した。これについて色々な噂がある。誰かと駆け落ちしたとか、やばい事件に巻き込まれたとか、あるいは借金取りに追われて夜逃げしたとか。けれど、彼は誰にも連絡ひとつ入れずに消えたので、真相は謎のままである。

編集部の誰も気づいていなかったけれど、私は螢とほとんど恋人みたいな間柄だった。まだ告白していなかったものの、お互い気があることはわかっていたし、あと何回かデートしたらいい感じにお付き合いが始まる予感がしていた。それなのに螢は私にも連絡一つ寄越さずに韜晦したものだから、今の私はさしずめ弄ばれて捨てられた気分だ。

あのヘタレ男がほかの女と駆け落ちなんてするわけないし、彼は小心者だからやばい事件に巻き込まれるほどやんちゃでもない。ひょっとしたらそのうち「小説のネタ探しで旅に出ていた」とか言ってひょっこり帰ってくるかも。……などと自分に都合のいい願望を抱きながら、私は行住坐臥、螢の安否を心配していた。彼のせいでやきもきさせられるのにもほとほと疲れてきたので、そろそろいい加減に帰ってきてほしいものだ。



そんなことを思っていたお盆の休暇中のこと。
私は意図せず再び彼と相見えた。
死んだおばあちゃんでも来るか知らんと実家で迎え火を焚いているところに、ふらっと螢が姿を見せたのである。

私はあまりにも久々に見る螢の姿に心底驚いて、なぜ彼が私の実家の住所を知っているのかを尋ねるよりも先に、別の疑問が口から飛び出た。

「どこ行ってたの」
「……ちょっとね、いろいろあったんだ」
「いろいろって何」
「うーん、説明しづらいんだけど、変な屋敷に閉じ込められたり幽霊の女に追いかけ回されたりしたんだよ」

こんなにも久々の再会だというのに、意味のわからない冗談で場を濁そうとする螢を憎らしくすら感じた。なぜ私に本当の事情を打ち明けてくれないのか。まさか本当に他の女と駆け落ちでもしてたのか。もしそうなら私には憤慨する権利がある。
けれど私が食ってかかるより先に、螢が小さく呟いた。

「すぐ戻らなきゃいけないんだ」
「どこへ?」
「遠くへ」

すかさず問いかけた私に対し、螢も言下に答えた。
私はじっと螢を見つめる。彼は困ったように眉根を下げて、ともすれば泣きそうな笑顔を浮かべている。彼のゆらめく瞳に映った私もまた、怒りと悲しみと期待と失望が綯交ぜになったひどい相形だった。螢は私の視線から逃れるように顔を俯かせて喋った。

「そんな顔しないでくれ……連れていきたくなる」
「連れていけばいい!」
「それはできない」

なんでよ!と伸ばした腕は、螢のTシャツを掴むかのように見えた。しかし次の瞬間、私は驚愕して固まった。伸ばした腕が、螢の身体を突き破っているように見えたから。はっとして二回まばたきする。ぱちぱち目を閉じてから、恐る恐る瞼を開くと、そこには貫通する腕などなく、私の掌はちゃんと螢のTシャツの裾を掴んでいた。見間違いだったらしい。
螢は黙り込んでしまった。

「正直に答えて」

そんな彼に向かって、私は弱々しくもはっきりした声で話しかける。

「私を連れていかないのは……私のこと好きじゃないから?」
「……そうだよ」

答えた螢の声が揺れていた。はっとして螢の顔を見上げた私の頬に、落ちてくる雫。その涙を見てすぐ察した。彼が嘘をついていること、そして嘘をついてでも私を捨てねばならない事情があるのだということを。
私も黙り込んだ。もはや何も言えなかった。ただ、これが最後になるというのなら、せめて彼のぬくもりを記憶に残したい。腕を螢の背中にまわすと、彼もまた私を抱きしめ返した。

抱擁の最中、彼が耳元で何か言いたげに一つ息を吸ったのがわかった。
しかし、彼の口から漏れたのは愛の言葉でもなんでもない、ただの吐息だった。

「もう行かなきゃ」

彼は腕の力を抜き、抱擁を解きながら言った。一方の私は涙が滾滾と溢れて何も見えず、俯いてぐしぐしと目元を拭う。そのとき、つと螢が「さよなら」と言った気がして、はっと顔をあげたらそこにもう彼はいなかった。そして確信した。これはきっとながの別れだったと。どこからか漂う線香の煙が目に沁みて、痛い。