京都の梅雨は盆地であるためじっとりと蒸し暑いのが分かるが、それにしてもこれは夏であるかのように暑すぎる。額に滲む汗を袖で拭いながら辺りを窺うとすぐに獣の咆哮のような雄叫びが聞こえてきた。その雄叫びを今か今かと待っていた俺はすぐに声に向かって走る。板張りの廊下を駆け抜けやがて辿り着いた無残な形に散っている襖の向こうに飛び込んだ。すると禍々しい気配を纏った時間遡行軍がうじゃうじゃとそこにはおり、そいつらの目が俺とあう。俺は手に握りしめた短刀を構え直し時間遡行軍の群れに即座に斬り込みに行ったはずだった。

「来ちゃダメ!」

驚くべき声が耳に入り俺は思わず足を止めて声の主を探す。室内にうじゃうじゃと溢れている時間遡行軍の群れの先にいる人物に俺は当然目を見開いた。

「なんで、姫様がここに、」

俺の疑問が口から溢れるがそれは向かってきた時間遡行軍のせいで簡単に消されていく。構えた短刀で攻撃を受け流しながらすぐに反撃に出る。とにかく今はここにいる時間遡行軍の群れを殱滅しなければならない。襲いくる時間遡行軍を次々と倒し室内の最奥で護身刀を構える彼女の元へようやく辿り着く。見覚えのあるその護身刀はかつて俺の主だった男が気まぐれに彼女に贈ったものだった。

「怪我はないか?」

最後の一体を倒してから彼女に向き直ると彼女は大丈夫よと肯定の返事をする。夏物の着物姿である彼女をまじまじと見つめながら俺は今自分の身に何が起きているのか瞬時に考えた。俺は主の命により天正十年六月四日に送られたはずだったが、実際に辿り着いた時代が目的の日付より何日も前後するのは仕方がないのである。あの本能寺の変が起きた直後の京都の町を時間遡行軍が火の海に変えようとしている目論見を阻止するため俺はこの場所に来た。しかし、彼女の雰囲気や屋敷のあちらこちらから聞こえてくるヒグラシの鳴き声を考えるとおそらく俺が今いる日付は八月の終わりの頃だろう。もっとも、ヒグラシは秋の季語に使われるため晩夏を想像させるが実際には梅雨の終わりから鳴き出すので確実に今が八月の終わりとは言えない。それに、仮に今が八月の終わりだとしても、本来この季節に彼女は存在しないわけで。何故なら彼女もまたあの日、信長と共に京に来ていた。信長は本能寺に宿泊し、彼女は織田家の家臣の屋敷に宿泊し、そして本能寺の変が起きた。信長の死後、光秀が真っ先に向かったのが本能寺のすぐ側にある屋敷だったのだ。明智軍に屋敷を包囲された彼女は光秀に人質に捕られる前に織田家の女として自刃する道を選んだのである。その彼女が何故生きているのか。

「助けてくれてありがとう。あなたのおかげで助かったわ。それにしても、此奴らは一体何者なのかしら」

俺の気を知らない彼女は俺や時間遡行軍がいた場所を交互に見つめては表情をくるくる変化させている。俺は曖昧に返事をしながらもこんのすけの言葉を思い出していた。歴史に介入するたびに未来に影響がなくとも何かしらの小さな変化が起きてしまう場合がある、例えば、本来の死亡日と異なるなど。

「姫様は気にしなくても大丈夫だ。これからは俺が守るからな」

短刀を鞘にしまいながらそう言った。もしかしたら彼女の死亡日も本来と変わってしまったのだろう。彼女の場合、織田信長の側室という存在なので彼女が長生きしても未来に影響があるわけではなさそうだ。勝手に納得しながら俺は彼女に向き直る。

「ところで、ここにいた人間はどうしたんだ?」

俺の疑問に彼女の表情が曇る。ゆっくりと首を横に振る姿に俺は思わず眉根を寄せた。どうりで彼女の元へ誰も駆けつけてこないわけだ。

「あの鬼のような奴等がみんな殺してしまったの。辛うじて何人かの女子や子供は逃がすことができたけれど。だけど、私は殿のように誰かを守ることができたわけではないわ。それが、悔しいの」

信長は身内や家臣を表向きは大切にするような感じではなかったが、流石側室だけあって彼女はちゃんと信長の本質を見抜いていると思う。残念ながら信長に限らず全ての人間の本質などどうしたって分かるわけがないが、俺も信長にだって胸の内にあたたかい何かがあると感じている。

「それで俺に来るなと言ったわけか」

俺の言葉に彼女が悔しそうに唇を噛みながら俺から顔を背けた。俺は短く息を吸ってから吐き、とりあえずこれからのことを考える。それから彼女に声をかけた。

「屋敷に誰かいないか探してみよう。もしかしたら、誰か逃げ遅れているかもしれない。そいつを助けてやらないと」

濡れた彼女の瞳が俺に向けられる。彼女は少し考える素振りをみせたあと静かに目を伏せた。

「生きているかしら?」

「もしも屋敷に誰もいなくてもきっと逃げ延びたに違いない。大丈夫だ。俺を信じろ」

ゆっくりと瞼を震わせながら彼女の瞳が再び俺に向けられ、唇に薄らと弧を描く。眉を八の字にしてしまうその表情は俺がよく見てきたものだった。信長の無茶振りの要求に対して呆れているような、それでいて何処か楽しそうな気がしている、そんな彼女の微笑みと同じもの。

「すごい自信ね。まるで殿みたい」

眩しいものを見るように彼女は俺を見つめている。俺は緩く否定をしてから彼女にまた提案した。これ以上ここにいると時間遡行軍が再び現れる可能性がある。そうすれば、助かるものも助からなくなるのだ。

「さて、姫様。早くこの場所から逃げるぞ。大丈夫だ。姫様の道中は俺が守ってみせる。心配するな」

「頼もしいわね。分かったわ。あなたを信じる」

彼女の返事を聞いてから俺は頷き、すぐに周りの様子を伺う。荒れた室内から遠くへ耳をすませてみるがとりあえず物音は聞こえない。一つだけ聞こえるのはヒグラシの鳴き声だった。俺は彼女に目配せをしてから廊下に足を踏み出す。彼女も緊張した面持ちで俺のあとをついてくる。二人分の足音が板張りの廊下に響く。

「ねぇ、誰があなたに私を助けるよう命じたの?」

「おかしな質問をするんだな、姫様は。織田家の者に決まっているじゃないか」

屋敷の端から端まで周りながら俺は彼女のおかしな質問に答えてみせた。息をするように吐いた嘘に俺自身何も疑問に思うことはない。そのせいで俺は彼女の表情をきちんと見ようとしなかった。

「そうよね」

彼女もするりと嘘を吐いた。もっとも、これが嘘であることを知ったのは少し経ったあとだったわけだけど。


結局屋敷の中には誰もいなかった。とりあえず俺は彼女を連れて外に出る。ところが、本来なら賑やかなはずの京の町は誰一人としていなかった。まるで、この世界に始めから生きている者がいないかのように。俺は無意識に足を動かしては静かすぎる京の町を歩き回る。彼女は何も言わず俺の後ろをついてくるだけ。そうして無駄に時間だけが過ぎた頃、俺は焼け焦げたその場所の前で立ち尽くした。辺りはすっかり夕暮れ時。

「ありがとう。私をここまで連れてきてくれて」

不意にそれまで静かに口を噤んでいた彼女がそう言い、俺の横をすり抜けていった。焼け焦げた場所に足を踏み入れてから彼女が足を止める。彼女の肩が小さく震えていた。

「これで私も、やっと殿のお傍にいられるわ」

彼女が振り向いて俺と視線をあわせる。ほんのり濡れた瞳を細めて微笑んでいた。その瞬間、線香の香りが鼻を掠める。俺がハッとした時にはそこには何もなくなっていた。

「姫様?」

彼女を呼びながら辺りを探すが彼女からの返事はない。そこにあるのは信長が死んだとされる本能寺の焼け跡だけだった。俺は思わず踵を返して彼女と最初に出会った屋敷に向かって走る。不思議なことに先程まで誰もいなかった京の町は賑わいをみせていた。やがて、俺が屋敷に戻ると何もなくなっている。始めから屋敷など存在しないかのようにあるのはだだっ広い土地だけだった。再び線香の香りが俺の鼻を掠める。その香りに振り向くと京の人々が揃って何処かへ向かって歩いていった。

「そういえば、今日は送り盆だったな」

不意に俺の隣に現れた長谷部に俺は顔を向けることなく肯定の返事をした。だけど、無意識に出た肯定に俺は今頃になって違和感に気がついてしまう。

「今は六月じゃなかったか?」

「いや、それはない。先程主から連絡があったが、度重なる歴史介入が原因で俺達を本来の時代から少し時間が過ぎた場所に送り込んでしまったようだ」

別にこういったことは珍しくない。しかし、そうなると俺が見た彼女の姿は何だったのか。その答えは俺が聞く前に長谷部が教えてくれた。

「ここで、あの人は死んだのか」

長谷部がそっと手をあわせて目を閉じる。あの人とは彼女のことだ。織田家にいた長谷部もまた彼女の存在を知っている。

「天正十年六月四日、あの男と同じ日にあの人もまた死んでしまった」

再び目を開けながらぽつりと長谷部が言う。その瞬間、俺は歴史が変わっていないことを知った。そして、あの時俺と会った彼女が俺の嘘に気がついていたことに。本来この季節に織田家の人間などほとんど存在するわけがないのだから。

「一度本丸に戻るぞ。それから再度六月四日に送ると主からの言付けだ。他の連中も探さなければならない。まったく、あいつらは何処に行ったのやら」

ぶつぶつと文句を言いながら長谷部が踵を返す。あいつらとは同じ隊の刀達だ。ついでに言うとかつて伊達家の刀だった四振りのことである。俺も長谷部に続いてその場をあとにしようとした瞬間だった。真っ赤な花びらが俺の目の前で舞う。突然前触れもなく現れた異常なほど赤い花々が屋敷の跡を埋め尽くすように咲き誇っていた。花の種類は分からない。だけど、その光景はまるで燃え盛る本能寺を現しているように感じた。織田家はまだ滅んでいない、彼女がそう言っているかのように。