再会に惜しむ
杉田玄白|茜さすセカイでキミと詠う茜色の空は今日も相変わらず続いている。まだまだ太陽はこの世界に戻ってくることはない。旅の途中、綱吉さんの都合で私達は一度江の国に戻ってきた。徳川家の城で各々行きたい場所があった私達はそれぞれ何処かへ足を向ける。一方、仲間と別れた私が向かった先は町の診療所だった。入口の戸をコンコンと控えめに叩いてから引き戸を開ける。すると、中から消毒液や薬の独特の匂いが私の鼻を掠めた。懐かしい匂い。そう思いつつも私は室内に足を踏み入れる。
「玄白さん?いらっしゃらないんですか?」
呼びかけても彼からの返事はない。行灯の明かりがついたままなので彼がつい今まで近くにいたことは確かだ。無断で部屋にあがることに罪悪感を抱きながら履物を脱いで畳の上に座る。するとその瞬間、襖がスッと開かれたかと思ったら私の背中にずっしりとした重みが加わった。
「あー、ちょうどいいところに来た。このままおとなしくしていてくれ」
肩に額を置きさらに私との距離を詰める彼に私の頬が熱くなる、なんてことは残念ながらない。普通なら胸がドキドキと高鳴るものだけど、彼の今までの行動のせいで私からそれを奪ってしまった。例えば彼が私の頬に手を添えてぐっと顔の距離を詰めたかと思えば、いい頭蓋骨の形をしているなと私の頭の観察を始めたあの日のことは絶対に忘れられない。
「何か玄白さんの気に入る骨格でもありました?」
「骨格ではないが、抱き枕としてちょうどいい。これはなかなかの優れものだな」
今すぐにでもぶっ飛ばしてやりたいが我慢する。こんなことでいちいち腹を立てていれば彼の相手は務まらない。私の心の葛藤に全く気づいてない彼は気が済んだらしく私から離れていく。それから私の隣に座った。ようやく私の視界に映る彼の表情にはずいぶんと疲れが滲んでいる。昼夜問わず医者として国中を駆けずりまわる彼の性格も関係あると思うが、乱れた髪に煤で汚れた顔を見るとどうやらそれだけではなさそうだ。
「もしかして、今日は源内くんと一緒でした?」
「さっきまでな。だから私もおまえが来る少し前に戻ってきたばかりだ」
深々と溜息を吐く彼に対して私は苦笑いを浮かべる。江の国の天才二人は時折何やら悪巧みをしていることがあるので今回もそういうことだそうだ。悪巧みと言っても彼等には全くその気はない。ただ、凡人である第三者の私から見れば人体を解剖したり改造したいという欲求にはどう考えても悪巧みにしか思えないのだが。
「玄白さん達の実験はよく目立ちますから、ほどほどにしてくださいね」
「大丈夫だ。心配ない。今日は特に目立つこともなかったぞ」
彼が得意気に唇の端をあげるが、彼の酷い格好を見れば爆発の一つ二つあったことは明白だ。それにはあえて触れず私はその場から立ち上がってお茶の準備を始めた。
「それより名前、旅の途中ではなかったか?」
「綱吉さんの都合で一度江の国に戻って来たんです」
「では、すぐ戻るのか?」
「ええ。明日には出立します」
彼がそうかと呟くのと同時に私はお茶の入った湯のみを彼の前に置く。彼は当たり前のように湯のみに手を伸ばし口をつけた。
「次は何処へ向かうんだ?」
「幕の国です」
「幕の国は治安が悪いと聞いている。気をつけて行くんだぞ」
彼の気遣いに私は素直に返事する。頷きながらも脳裏に浮かぶのは維新派と佐幕派に別れる武士達のことだった。彼等はそれぞれ政治に対する思想と不満を抱いている。そのせいで争いが避けられないのは私の知る歴史と同じだった。違うのは、この世界は私の知る世界と違うこと。だから今のところは新政府軍によって徳川幕府が滅びることもない。何故ならこの世界の徳川家は幕の国を治めていないのだから。徳川家は江の国の主君であり、江の国のたくさんの民達に慕われている。徳川家の政治に不満を持つ者など江の国にはいないのだ。
「今日は久々に私の助手をしてもらおう。そうと決まれば出発だ」
突拍子もなくそう言ってから彼が湯のみをその場に置いて素早く立ち上がる。それから呆然と彼の顔を凝視する私に往診用の鞄を押しつけながら再び彼が私を急かすのだった。
茜色の空の下を私は往診用の鞄を抱えて彼の背中を追いかける。十月に入ってまもなくの今日の気温は肌寒いものだった。賑やかな通りには茶色に染まった葉が時折目につく。赤色や黄色に染める草木はまるで冬支度を始めているように思えた。
「玄白さん、今日はどちらまで往診に?」
「すぐそこだ。夜には帰してやるから心配するな」
「いや、まぁ、そういうことではないんですけど」
足取り軽やかなその姿に私はつい苦笑いを浮かべてしまう。どうせ彼のことだから往診先で重病人が出て解剖できると睨んでいるに違いない。というか、重病人と解剖を結びつけないでほしいのだけど。仮にあってもせめて手術くらいだ。残念ながら彼の叶わぬ思い込みは今に始まったわけではないので諦めるしかない。これは私が以前にも彼の助手をした時と全く変わることがないのでどうしようもないのだから。そんなこんなで辿り着いた往診先は彼の言う通り本当に近所だった。簡単な診察を済ませてから外に出ると通りの向こうから見慣れた影が二つやって来る。彼は一瞬だけ目を細めるとすぐに唇の端を不敵にあげた。
「なんだ源内。私の次の実験台は吉宗さんにしたのか」
今、明らかに実験台と彼は言っていた。私の冷たい視線を感じても彼は気にせず涼しい表情を浮かべている。一方源内くんは彼の言葉を華麗に流し隣にいる吉宗くんに同意を求めるように見上げた。
「十五夜の満月に備えてカラクリを作っている最中なんだ」
「うさぎ達が餅をついて、その餅を丸めて月見団子を作るカラクリなんだよ」
源内くんと吉宗くんが顔を見合わせ微笑みあう。やる気に満ち溢れている二人の横顔はやっぱり煤で汚れている。私は思わずこそっと彼に耳打ちした。
「二人の様子を見るとまだ成功していないようですわね」
「それもそうだろうな。私の時でさえ十羽ほどのうさぎの首が爆発していたからな」
彼からの返事にその光景を想像してぞっとする。いくらカラクリのうさぎとはいえどう考えても恐ろしい光景には違いない。うさぎの首が爆発するところを源内くんと吉宗くんの二人が目を輝かせて見つめていると思うと頭痛がした。もしもイナバがうさぎが無残な形になる瞬間を目撃したら良くて号泣悪くて失神するに至るだろう。
「そうだ名前!おまえも一緒に僕の実験に協力してよ!」
無意識に頬が引きつる。私が返事するよりも先に彼の言葉が遮ってしまった。
「悪いが、私達はまだ往診の途中だ。またの機会にしてくれ」
言うが早いか彼は足早にその場を去ってしまう。私も慌てて二人に挨拶してから彼の背中を追いかけたのだった。
彼の背中に追いつくと彼はちらりと私に視線を向けてから満足そうに微笑みを浮かべる。それから彼は私から鞄を取り自分で持ち始めた。再び前を向いて目的地へと足を進める彼の考えは私には分からない。今はただ彼について行くだけ。彼について歩きながら賑やかな通りにいる人々をなんとなく目で追う。何処も彼処も笑顔を浮かべる人の姿で溢れている。誰一人として国の将来を嘆く者はいなかった。幕の国と違って。
「着いたぞ」
町から離れて林に入った頃ようやく彼が足を止めるので私も止まる。木々に囲まれたせいで薄暗い林の中は少し不気味だった。
「私達は往診に向かっているんですよね?」
不安を抱いて彼を見つめると彼は何てことのないように喉をくつくつ鳴らせて笑う。それから穏やかな表情を浮かべたかと思えば私の背中をそっと押してくる。
「正確にはまだ着いていない。この先が目的地だ」
彼と肩を並べて歩くとそんなに時間もかからずに林を抜ける。先程まで薄暗かった景色は消え、拓けた場所に空から茜色が降り注ぐ。そこは小高い丘になっていて、少し離れた先には江の国の町が一望できた。遠く離れた場所に徳川家の城もある。見晴らしのいい眺めに私は無意識のうちに感嘆の声をあげていた。
「綺麗、ですね」
隣にいる彼を見上げると彼は町から目を離さないまま頷く。やんわりと目を細める仕草は何処となく優しさを感じさせた。
「私の好きな場所だ」
彼が私を見る。そっと伸ばされた手が私の頭をゆっくりと撫でていく。まるで泣いている子供をあやしているように思えた。
「病める時も健やかなる時もおまえは私の傍にいろ」
驚きにぽつりと声を溢す私に彼が少しだけ眉根を寄せる。だけどすぐに表情を和らげてまたぐりぐりと頭を撫でる手を動かした。今度は先程と違って少し乱暴。
「つまり、悩んでばかりいるなと言っているんだ。悩みは人の身体の健康を損なうものだからな」
すっと彼の手が離れていく。彼は私から視線を外して再び町に目を向けてしまった。私はゆっくりと瞬きを繰り返す。彼に言われた意味を考えながら空を見上げた。
「そんなことを言われてしまったら、勘違いしそうです」
見上げた先にある茜色の空を見るたびに私の役目を思い出す。太陽を取り戻す、そのために私はこの世界へやって来た。聖徳太子は国の統治を行い、安倍晴明は天文道で貴族達から絶大な支持を仰ぎ、森蘭丸は戦国乱世で命を落とし、徳川綱吉は徳川の世を終わらせるきっかけを作り、高杉晋作は維新の最中病に伏し、夏目漱石は数々の作品を世に出し後世へと残した。これらは私の世界の歴史であり、この世界には存在しない話となっている。彼等はそれぞれ太陽を取り戻すために協力しあう大切な仲間達だ。彼の言葉に私は日本の歴史が変わるあの二条城での出来事を知らなくていいと解釈してしまう。そうすれば、十月十四日に起きた政権を朝廷に返す大政奉還なんぞ。
「勘違いすればいいじゃないか」
私の視界に茜色の空ではなく彼の微笑みが映り込む。自信に満ち溢れている不敵な微笑みは彼がいつも私や周りの皆に見せるもの。
「この世界におまえはなくてはならない存在だ。そのおまえが信じるものが真実となる。それならば、おまえが望む結末を信じさえすればいい。私も、おまえと同じものを望み、信じよう」
つまり、勘違いではない。彼は周りくどい言い方で私の全てを受け入れてくれると言ったのだ。私一人で抱えるには大きすぎる痛みを。
「私がそれを望んだら元の世界の歴史を変えてしまうかもしれない」
「おまえが望んだ結果なら、それで仕方あるまい」
「だけど、それが原因で今の歴史が変わってしまったらと思うと」
「名前、」
私の言葉を遮るように彼の長い腕が私の身体を包む。彼の胸から響く心臓の音が優しく私の鼓膜を揺らした。
「そんなことはどうだっていい。おまえはもう、元の世界に戻ることはない。言っただろう、おまえは私の傍にいろ、と。だから何も、心配することはない。何故ならこの世界に影響するものなど始めからないからな」
彼の言葉が私を穏やかな眠りへと誘う薬のようなものに思えてくる。全てを許し、甘やかし、ダメにする、私は誘われるように彼の胸に擦り寄った。
「玄白さんが言うなら、そうかもしれません」
私は太陽の巫女、それが事実。江の国はいつまでも平和で徳川家が滅ぶこともない。政権返上など最初からないこの世界に、私の知る教科書通りの歴史なんぞ訪れるわけがないのだから。
「いい子だ」
彼の手がそっと私の頭を撫でる。私は頬を緩ませてからゆっくりと目を閉じていくのだった。
翌日、徳川家の城を出た私達は江の国を出立する。鳥居に向かいながら相変わらず平和な江の国の町と賑やかで愉快な仲間達を眺めた。やがて、人里から離れた場所にひっそりと佇む鳥居に辿り着く。仲間達が幕の国を目指してそれぞれ鳥居を潜る中、私は一度町のある方へ振り向いた。
「玄白さん、これでいいんですよね」
彼からの返事はないが、当たり前だと言われたような気がした。私は再び鳥居に向き直る。私が望み信じた結果が元の世界の歴史に大きく影響するなど気づかぬまま歩みを進めた。
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