ここは、博多駅近くにある馬場探偵事務所。その名の通り馬場という男が営む事務所だが、栄えているかどうかはあやしい。だから、自ら仕事を探しに行くことがしばしばある。といっても、それらすべては世間でいう『堅気』ではないので自慢できない。しかし、一度足を踏み入れてしまったが最後、洗うにはもうだいぶ黒く染まってしまっていた。

 大晦日。駅も近いとなれば、年末といえど大勢の人が行き交っている。事務所に住む男女三人は、近くの寺から聞こえる除夜の鐘を耳にしながら各々と過ごしていた。が、新年を迎える手前、女の叫ぶ声が響く。

「あーーー!なにこれ、信じらんない!」

 事務所に居候している女――名字名前だ。とある事情で、馬場の世話になっている。殺し屋としての技術はないが、この業界で女が生き残るために一般的な護身術は身につけている。もっとも、名前が得意とするのは頭脳戦なのでそうした格闘術は本来必要としない。ドンパチするのは名前の仕事ではないのだ。

 このあと、豚骨メンバーと初詣に行くことになっていた名前はその仕度をしていた。部屋着から着替え、化粧をするために洗面所へ向かったはいいが、鏡で自分の姿を確認した途端驚愕した。

「うっせーなー新年早々に騒ぐなよ」

 叫び声を聞きつけた同居人であるストレートロングの女――ではなく男が顔を出して迷惑そうに言う。趣味で女の格好をしているというのだが、似合いすぎているがゆえに違和感はない。言葉遣いが荒いのと殺し屋というのを除けば。そんな彼は名を林憲明(リンシェンミン)といい、同じく居候だった。華九会という多国籍マフィアの集団に雇われていたが、馬場との接触により華九会が消滅した今は諸々の経緯でここに住んでいる。

 気づけばテレビでカウントダウンが終わり、めでたく新年を迎えていた。しかし、名前にとって今それどころではなかった。

「ちょっと林くん、これどういうことなの!?」

 凄味をきかせて林の前に立ちはだかる名前は、自分の着ているお気に入りのブラウスを見ろと言わんばかりにある一点を指さした。花の模様をあしらった白い綺麗なブラウスに薄っすら茶色いシミがうかがえる。

 事情を察した林はしかし「知らない」と首を横に振った。

「名前ちゃん?どげんしたと?」

 同じように騒ぎを聞きつけてやってきたのは、事務所の責任者である馬場善治だ。ぼさぼさした髪に首回りのよれた白いカットソーとジーンズが彼のお決まりの格好である。探偵としての迫力というかオーラは感じないが、仕事ぶりは目を見張るものがある。言うまでもなく馬場も殺し屋だ。探偵は表向きの肩書きである。

 名前が林を睨みつけているところに、馬場の柔らかい笑みが視界に入る。その顔に若干落ち着きを取り戻した#名前は#ふう、と一息ついて説明を始めた。

「この前買ったブラウスが変なシミで汚れてるの。私が洗濯に出したときはこんな汚れなかったし、それから一回も着てないんだから林くんしかいないじゃん。めっちゃお気に入りだったのに、買ってから一ヵ月も経ってないのに……このシミ落ちなかったらどうしてくれんのよー!」

「だから、俺じゃねーっつってんだろ」

「でも女子の服を着るのは私以外に林くんだけでしょ?それともなに、馬場さんが汚したとでもいうの」

「え?いや…………知らんばい」

「なにその間、まさか本当に馬場さんなの!?」

 突っかかる先を今度は馬場に変える。その勢いに少しだけたじろいだ馬場は、名前が相当気に入っている服をまじまじと見つめた。こんな可愛らしいいかにも女の子ですと主張する服を、彼女は本気で男の馬場が着るとでも思っているのだろうか、と馬場は不思議に思いながら慌てて否定する。

「そげなわけなか!それに、コート着とったらわからんと思うけど……」

「そ……そういう問題じゃない!」

 堪忍袋の緒が切れたのか、名前は再び大声をあげ憤慨した。

*

 櫛田神社は博多駅から近い神社の中でも人気のある場所だ。夏に行われる博多祇園山笠のクライマックスを飾る「追い山」としても有名である。当然初詣に来る客も多い。

 あれから結局、ぶつぶつ文句を垂れながらも別の服に着替えた名前はなんとか気を取り直して事務所を後にした(機嫌はイマイチだが)。馬場と林はその後ろを歩く。どちらも思いだす限りでは、身に覚えがないのでどうすることもできない。

 神社の前まで来ると、見知った顔を見つけて手を振った。他のメンバーはどうやらまだ来ていないようだ。

「あけおめー」

「あけおめ。……なんかテンション低くない?気味悪いなあ」

 限りなく白に近い金髪の榎田は名前たちの仕事仲間である情報屋だ。榎田という名前はそのヘアがエノキダケに似ているからであり、彼の本名ではない。名前と同じで実戦には不向きだが、情報屋としての能力とハッキングの技術に関しては福岡市内で右に出る者はいないといっていい。しかし気味悪いとは心外である。

「あーまあちょっとな、いろいろあって」と林が横からきまり悪そうに答える。

「ふーん。よくわからないけど、せっかくの初詣なんだからもう少し楽しそうにしなよ」

 榎田がじろりと名前を鋭くとらえた。もっともなのだが、胸の内は本来着るはずだったブラウスのことだ。ひとまずもみ洗いをしてきたものの、シミができてからどのくらいの時間が経過したのかわからないためにきちんと落ちるのか不明だった。

 馬場にも林にも自分じゃないと言われてしまった以上、怒りの矛先の向ける場所を失いモヤモヤしている。やはり納得がいかず、鬱憤を晴らすように榎田にも事情を説明した。

「へえ。……でもそういえばボクもそんなことあったかも。洗濯したあとにさ、畳んだまましばらく放置しててその近くで作業してたら、ジュースをこぼしちゃったんだよね。その時は気づかなかったけど、いざそれを着ようとしたら自分がしでかしたことに思い至ったってわけ。洗っても落ちなかったから、クリーニングに出したよ」

 本当はその時に気づけたらよかったんだけどねえ。と苦笑いする榎田の隣で、林の表情がどんどん青ざめていくのを名前は見逃さなかった。なにか思い当たる節があるようだ。

「林くん、もしかしなくても――」

「あー思いだしたわ。洗濯もの畳んだあと、馬場にコーヒーいれてくれって頼まれて持ってったら途中で躓いたんだよ。その拍子にもしかしたら、お前のブラウスにかかったかもしれない……悪い」

 名前の言葉を遮って、咎める前に謝った林はばつの悪そうな顔をした。

 しばし沈黙。その間も林が必死に弁解した。いつものごとく馬場と言い合いをしていたから気づかなかったらしい。榎田の話を聞いて、ふと思いだしたのだそうだ。林もまさかその時のことが原因だとは思わなかったのだろう。だが、そんなことは名前の知ったことではない。

「林くんのバカヤロー!知らないとか言っておきながら自分が汚したんじゃん。ひどい!ひどすぎる!」

「わ、悪かったって……なんか、奢るから」

「……」

 口を尖らせてなにも言わない名前に「ほんとわりぃ」ともう一度謝罪を述べる。それでもしばらく黙っていたが何か思いついたように、

「……甘酒に大判焼きといか焼きとじゃがバタとイチゴ飴……たい焼きもいいな。それから――」

「おい、いくつ買うつもりだ!調子に乗んなっ」

 後ろで二人のやり取りを見守っていた馬場が「リンちゃんと名前ちゃんは仲がよかねぇ」と微笑んだ。榎田もそれに同調する。しばらくしてやって来た他のメンバーが次々にあの二人はどうしたと同じことを口にするので、馬場と榎田は「さあ」と含みのある笑みでやり過ごした。