「あ、こんにちは」

 重々しい鉄の扉を開けた先で、少女が目を真ん丸にしながらも礼儀正しく挨拶をする。そんな応対をされると思っていなかった土方は一瞬呆気に取られたものの、すぐに冷静さを取り戻して彼女に問う。

「何やってんだ、こんなとこで」
「雨のにおいを嗅ぎたくて」

 土方が、はて、と首を傾げてしまうのも仕方のないことだった。晴天とまではいかなくとも空は青い。雨雲も見えない。それでも少女は続ける。

「もうすぐ降ると思うんです。…たぶん」

 パッと破顔したのを見やりながら、懐から取り出した煙草を一本、口に咥えて、慣れた手付きで火をつける。ひと吸い、またひと吸いして白煙を吐き出しながら、土方は思う。夏の太陽に似た、眩しくて見ていられないような笑顔だな、と。



 ーーーざあざあと降りしきる雨。窓を濡らし、景色をぼやけさせるそれを土方はじっと眺めた。
 白を基調とした病室内にて。汚れひとつないシーツの上であぐらをかく彼は、自分の膝の上に置いた手のひら、その先の人差し指でトントンとリズムを刻んでいる。浮かんでいる表情を見れば、土方がどうしてそのような行動をとっているか一目瞭然だろう。
 土方がかなりのヘビースモーカーであることは周知の事実だが、どうしても吸うことを許されない場面がある。それが今だ。つまり彼は苛立っているのだ。
 "館内は全面禁煙です"ーーそんな張り紙を目の前に貼られるほど、この病院の婦長…と言えば聞こえは良いが…実際は病棟を取り仕切る鬼に目を付けられている。

「いいですか土方さん! あなたは患者なんですからね!? 絶対安静であるにも関わらず歩く、ましてや煙草を吸いに行くなんて言語道断に決まってるでしょ!」

 攘夷浪士にうっかり横腹を、ばっさりと斬られてしまったために緊急入院することになった土方は、本人こそもう仕事を始めて大丈夫だと感じていた。だが医者の判断は絶対安静。
 確かに腹は痛むが、動けないほどではない。俺は早く屯所に戻らなければならないのだ。自分がこうやってベッドの上であぐらをかいている時間が長ければ長いほど、書類がビルのように高く机に積まれ、総悟の見回りが破壊活動に変わり、求婚の仕方を間違えている近藤さんが屍になる可能性が高くなる。
 土方は頭を抱えた。胃がきりきりする。横腹の傷よりよっぽど重症に思えた。

 ハァ、と溜め息をつきながら顔を上げる頃には、土方の表情は苛立ちから悲壮なものへと変わっている。彼はちらりと、未だ止まない雨へ視線をやった。
 "もうすぐ降ると思うんです"ーー少女の言うとおりになった空模様は鬱蒼としており、灰色の雲から大粒の雫が降り注いでいる。

 雨のニオイ。少女はそれを嗅ぎたいと言っていた。太陽のような、弾けんばかりの笑みを浮かべた彼女が何故こんな鬱陶しいもののニオイを嗅ぎたいなんぞ思ったのか知らねえが、病室を抜け出してまで体験したくなるようなものだろうか、と土方は思わず首を捻った。



「あ、こんにちは」

 性懲りもなく煙草を吸う場所を探していた土方は、婦長に見つからぬようコソコソとエントランスホールを抜けようとした矢先、背後から声を掛けられた。彼は病院に知り合いがおらず、さらに真選組では聞こえることのない高さの声に肩を震わせて振り返ると、つい先ほど屋上で出会った少女が立っていた。彼女は自分が着ているパジャマのポケットを漁っている。

「館内は禁煙ですよ!」

 目くじらを立てて怒る様は先ほどの婦長にそっくりだ。数秒後、パッと笑顔になった少女は小さな手で土方に何かを手渡す。

「似てました?」

 受け取った土方は固まってしまう。それは棒付きの飴だった。こんな可愛らしいものを食べる歳ではない…と少女を見やると、彼女は肩をすくめておどけながら言った。土方は思わず口角が緩んだのを手で隠して、自分の肩ほどしか身長のない少女と向かい合う。

「口が寂しいんですか? アメ舐めるとマシになりませんか?」

 質問を投げかけながら、壁に沿うように設置された硬い椅子に座る少女の姿を見、飴を貰ってしまった手前、無視もできねえ…と真選組一と言っても過言ではない常識さを持ち合わせた土方も、同じようにそうする。
 彼女は土方に渡したものの味違いを、包装を破いて口に入れていた。足をブラブラさせているのが幼さを加速させている。その隣でガタイのいい、いかつい顔した男がぺろぺろキャンディーを舐める…、…これはセーフか? アウトか? 妙なことを考えながら、土方は口寂しさに負けて飴を口内に放り込んだ。

 何年ぶりだろう。こんなものを舐めるのは。ーーー懐かしさより恥ずかしさを覚えたのは、土方が中途半端な歳だったからかもしれない。いっそのこと高齢者であれば、お嬢さんと飴を食べるというシチュエーションは孫と過ごすような既視感を覚えて、心地良さに浸れただろう。

「わたしも、あのあと怒られちゃって」

 あのあとと言われて土方は安易に想像がついた。自分が煙草の吸える場所を求めて向かった先で、先客だった少女の横で一服していたら後ろのドアが勢いよく開いた、あの事件のあとに違いない。
 婦長は土方ではなく少女を探していた。「名前ちゃん! また病室抜け出して!」と怒りながら開け放たれたドアは、男性の負傷していた腰にクリティカルヒットした。不測の事態に激痛を伴われては、大の男もさすがに短く叫んだ。土方が呻いていると最初こそ謝罪し、心配の声を掛けていた婦長が患者の顔に気づいた瞬間、般若となり、煙草を奪い取り、彼はみっちりと叱られたのである。

「もう6月だから梅雨だなあって思って雨のにおいを嗅ぎたかったんですけど、いつもあの場所に抜け出してたからすぐにバレちゃって」

 そりゃあそうだろう、と土方は心の中で思ったが口に出すことはない。代わりに疑問を投げ掛けた。

「雨のニオイってなんだ?」

 すぐに返答は来ず、少女は思案しているようだった。

「昔は土とか、草や木が濡れたようなにおいだったと思うんですけど…最近は、そうですね、アスファルトが湿った、甘いような不思議なにおいするんです」

 その言葉の中に時代の流れがあるように感じて、土方は頷くことしかできない。

「でも、たぶん、わたしがずっとここにいるからっていうのもあるとは思うんです」

 声こそ、明るかった。弾んでいた。言葉に詰まった土方が隣を見るも、浮かんでいる表情はあの、夏の弾けるような明るさを連想するような笑顔だった。

「土なんかずいぶんと踏んでないなあ」

 少女は前を向いており、目は合わない。それを良いことに土方は彼女を見るのをやめた。
 薄くなってきた砂糖の塊をガリ、と噛んでしまったのは妙な力が入ってしまったせいだと土方は思う。自分よりずいぶんと年下だろう少女が笑みを絶やさないまま、発した言葉が頭の中で反芻した。

「ねえ、ヒジカタさんって相合傘したことありますか?」

 曇った表情なんか微塵も見せない少女は、相変わらずにこにこしながら土方へ向き直る。なんの脈絡もなく切り出された話題に、彼は一瞬頭がついていかなかった。

「ナオミちゃんがね、…あ、婦長さんのことなんですけど、この時期は彼氏が相合傘してくれるから好きってよく言ってて」
「そうか」
「傘って基本ひとり用じゃないですか。そんな狭い空間で好きな人と、肩がぶつかるぐらいの近さで並んで歩くのがたまらなくって、男の人の外側の肩が濡れてるのを見る瞬間が胸がギュンギュンするほど大好きなんだって」
「…そうか」
「そうそう、でも最近は少女漫画なんかじゃときめかないってレディコミ貸してくれるんですけど」
「なんだよそれ」
「あ、今度貸しましょうか?」
「…まあ、気が向いたらな」

 自分の返事を最後に会話が途切れたので、土方はそろりと少女のほうを見やる。ーーー瞳が濡れていた。ドキリと心臓が鳴ってしまったのは、仕方のないことだった。表情こそ笑みと表せられるものだったが、それと対比する眼差しが際立っていたからだ。

「ありがとうございます。話し相手になってくれて」

 土方は、立ち上がる少女の姿を目で追う。

「明日もいますか?」

 退院はまだ先の予定だった土方が頷いたのを見、少女は手を振る。同じようには返せず、ただ手を挙げるだけになった返事でも彼女は嬉しそうに微笑んだ。



 そして、次の日。また次の日と、土方がいくらエントランスホールをうろつこうとも少女は姿を現さなかった。

 屋上で煙草を吸いながら、土方はぼんやりと空を見上げた。横腹の痛みはずいぶんとマシである。明日、退院予定で、もうここから去らねばなるまい。
 紫煙を吐き出しながら土方が目を伏せた瞬間、後ろのドアが勢い良く開いた。ドカ! と遠慮なく腰にぶつかった鉄の扉に短く呻きながら、彼が後ろを振り返ると目を真っ赤に腫らした婦長が立っていた。

「ああ! また煙草吸って!」

 咎めるような口調こそ、ここ数日聞いていた通りだったが次の瞬間にはボロボロと雫を目尻から零している。それを拭うような器用さを持ち合わせていない土方は、動揺しながら婦長を見下ろしていた。

「ごめんなさい…ちょっと取り乱しちゃって」

 指先で、涙の溜まる目尻を拭ってから、彼女は紙袋を土方に差し出した。

「これ、名前ちゃんから…あ、この前屋上で一緒だった子から預かったの。いつの間に仲良くなったんですか?」

 仕事中にも関わらず涙を見せる婦長。"また明日"と言いながら姿を見せない少女。そしてこの預かり物。…嫌な予感がした。
 茶色い袋を受け取りながら、その中身をなんとなく見たくないなと土方が思ってしまったのは、彼があの日の濡れた瞳を覚えていたからだ。

 袋の中身を覗く。中に入っているのは書籍のようだった。婦長が嗚咽を漏らす。土方も胸の苦しさを覚えた。
 否応なしに人の死というものに携わる職に就いている。…だが、これは慣れていないほうだ。これだから病院には長居したくない。土方はそう感じながら書籍を紙袋から引き抜く。

「本当によかった…! 名前ちゃんが退院できて…!」
「…は?」

 土方は素っ頓狂な声を上げた。そして姿を現した表紙に釘付けになる。
 涙でぼやけるであろう視界で、婦長は土方の手に持たれたコミックスに見つめる。そして表紙にデカデカと書かれた謳い文句を見た瞬間にカッと目を見開いた。

「ア、アタシのレディコミィィイ!!」

 ものすごい勢いと速さで土方の手の中からレディコミを奪い取り、婦長は屋上から飛び出していった。


 ーーー今日も今日とて、雨は降り止まない。そろそろ7月になろうかというのに梅雨は明けないのだ。
 傘をさしていても足元を濡らす雨に、どうしようもない鬱陶しさを覚えながら土方は道を行く。地面を踏みながら、人に言われてようやく知った雨のニオイを感じていた。これは彼女が言っていたニオイのどちらだろう。その答えを知りたく思いながら先を急ぐ。

 向かう先は職権濫用してまで見つけた長屋だ。古くなったその家には少女と、彼女の家族しか住んでいないらしい。
 あの日、濡らした瞳の理由はなんとなく理解した。でもどうにも忘れられなくて、本当に彼女に明日が来たのか信じられなくて、あえて雨の日を選んできた。病室を抜け出してまで彼女が嗅ぎたくて堪らなかったニオイのする日なら、こんな鬱蒼とした天気を吹き飛ばしてしまいそうだった笑顔を見れるような気がしたのだ。

 土方はある一室の前で足を止める。きっとここにアイツがいる。ごくりと唾を飲みながら潰れてそうなインターホンを押した。案の定、潰れていた。彼は思わず舌打ちしてしまいながら、湿気った煙草を指でつまむ。

 その瞬間、目の前の扉が開く。中から顔を覗かせた少女は、初めて会った日のように目を真ん丸にしながら土方の顔を見つめる。

「あ、こんにちは」

 そして土方がどうしても見たかった笑みを浮かべながら言うのだ。

「…レディコミ読んだ感想でも言いに来てくれたんですか?」
「っあ、あんなもん読めるかァ!」 

 土方が思わず大きな声を上げてしまったのは仕方ない。
 "イケない密会〜雨に濡れたふたり〜"…婦長の趣味が出まくりのあんなコミックス読めるわけがない。むしろ婦長に一瞬で奪い取られたのに、と土方は溜め息をつく。

「ごめんなさい。あの日、退院が午後からだと思ってたら午前中だったんです。わざわざ文句言いに来てくれたんですか?」
「いや…」
「…じゃあ、どうして来てくれたんですか?」

 土方の服装を上から下まで眺めた少女は、心底不思議そうな表情でそう問う。真っ黒の隊服は説明せずとも彼の職業を告げている。余計な言い訳をせずとも、彼女は自分の家がわかった理由を察していた。でも家を訪ねられたところまでは理解しかねていた。それが表情に浮かんでおり、土方は返事をしようと口を開きかけたがすぐに閉ざす。
 なんと説明をすべきだろう。本当に少女が元気になったのか気になった。笑顔が見たかった。…そんなもん言えるか、と土方は頭を抱えそうになる。

 無言が続き、しとしとと雨粒が地面に落ちる音だけが響く。ーーーそんな柔らかい音を聞きながら土方は思い出していた。少女との数少ない会話の内容を、その中から適当な言い訳を探していた。ずっと静寂に包まれているわけにもいかず、意を決して口を開く。

「…お前は相合傘が好きなんだろ」
「…はい?」
「男の外側の肩が濡れてたら胸がギュンギュンするらしいじゃねえか」
「それ婦長さんです」
「…帰る」

 くるりと踵を返した土方の袖を、くすくす笑う少女が掴む。

「わたしは相合傘したことないんです。婦長さんが言うほどときめくのか、ぜひ試させてください」

 参ったな。土方はそう感じながら振り返る。やはり、こんな天気なんか吹き飛ばしそうなほど明るい表情がそこにあった。
 傘を傾けて、彼女を迎え入れる。自分の肩ほどの位置で小さい頭が揺れた。

「…そういやあ、なんで雨のニオイ嗅ぎたかったんだよ」
「うーん、におい自体が好きなんですけど…あとは、ほら」
「あ?」
「春を洗い流して、夏を連れてきてくれるにおいなんですよねえ。わたし夏が好きなんです。エネルギッシュで楽しいこと多いから」
「…ああ、なんかお前に似合ってる」

 するとまた、ぱっと花が咲く。

「あ、すごい。確かにときめきますねえ」
「サラッと何言ってんだ未成年」
「え? わたし成人してますよ?」
「は、ハァ?」
「幼いってよく言われるんですよね。じゃないとレディコミ貸してもらえませんって」

 くすくすくす。土方を振り回す笑い声はしばらく止むことなく、雨音に紛れて消えていく。ーーー彼はずっと考えていた。
 退院後の忙しい日々に無理やり非番をねじ込むほど彼女の笑顔を確認したくなった理由を。そして、ふと思い当たった感情に動揺し、やはり外側の肩を濡らしたのだった。