足音は雨に紛れて聞こえない。だだっ広い造りの本丸には雨の音だけが響き渡る。板張りの廊下を歩けばギシリギシリと古びた振動を感じ、畳の上に足を滑らせればイグサの香りが鼻を掠めた。ふと、私が足を止めた場所は大広間。誰もいない上座へ静かに腰を下ろした。

「何しゆーが?」

大広間を覗き込んだ彼は私を見つけて首を傾げる。別にと曖昧に言葉を濁す私に対して彼は朗らかな笑顔を浮かべてから大広間の中に入り私より一段下がった畳の上で胡座をかいた。

「懐かしいのう」

「何が?」

「あの日と同じぜよ」

あの日、その言葉に私はゆっくりと瞼を閉じる。忘れもしない、彼と初めて出会った日。そして、一人と一振りから始まった最初の日。

「そうだね。懐かしい」

瞼を開けるとそこには自信に満ち溢れた彼がいる。胸に込み上げる何かを感じながら私は口を開いた。

「今まで、ありがとう」


 遡ること雨ばかり降る梅雨の時期、私はこの本丸へ初めてやって来た。最初の一振りである初期刀は彼、陸奥守吉行。彼と私の顔合わせに立ち会ったこんのすけは新たに着任した審神者である私のことを報告するため一度政府の元へ戻っていった。そのため、大広間には一人と一振りだけが残っている。上座に私、下座に彼。

「この屋敷には雨の音がよく響くのう」

「古い造りですから。気になりますか?」

「気にはならないが、興味深い」

彼は首を左右に動かしてはきょろきょろと周りの様子を観察している。一方私は彼にどう接していいか分からずその場でただじっとしていることしかできなかった。しかし、好奇心旺盛な彼はそうは行かず、突然立ち上がったかと思えば私を呼んだ。

「探検に行くぜよ」

「探検、ですか?」

「何をそんな驚いた顔をしちゅう?新しい物はちゃんと観察せんと行けんものだ」

そう言い切った彼は我先に大広間を飛び出していく。私は躊躇いつつもせっかく彼が探検に誘ってくれたこともあり後ろから着いて行くことにした。

「ここは厠か。お!こっちは大浴場じゃ。広いのう」

先頭を歩く彼の後ろから部屋の様子を伺う。板張りの廊下を歩く音が二つ分のため外の雨の音より響く。

「厨も広いぜよ。今夜はワシが晩飯作るき」

本丸の隅々まで歩いては彼はあまり反応の少ない私に丁寧に話かけてくれる。申し訳ないと思うけれど、正直、人の形をしている物をどう扱えばいいのか分からない。心ないことを言って彼を傷つけてしまったらと思うと積極的に会話をしようという気になれなかった。

「さて、到着」

本丸中を回り、やがて、再び大広間に戻ってきた私と彼は最初と同じ位置に座った。雨の音がまた耳につく。

「雨、止まないのう」

不満そうに唇を尖らせながら彼はちらりと外に視線を向けた。開けっ放しの襖の向こうにはザァザァと降りしきる雨の景色が広がっている。

「これじゃあ、今日は庭の探検はできないぜよ」

彼は外から私に視線を戻す。それから朗らかな笑顔を浮かべて何てことないよう言ってのけた。

「雨が止んだら、一緒に探索しよう」

突然のことに驚きに目を丸くする私の顔を見た彼は不思議そうに首を傾げてしまう。

「そんなに驚くことじゃろうか?」

私の心配は無用だった。彼はこんなにも自分とは違う私に手を差し伸べようとしてくれる。それに応えないのは失礼だ。

「ありがとう。明日、一緒に庭を散策しようね」

飛びっきりの笑顔を返してみせると彼も弾けるような笑顔を浮かべた。翌日、庭を散策した彼が子供みたいにはしゃいでいたのは言うまでもない。


 あれから何十年と時を過ごした。一人と一振りから始まったこの本丸は、今日、消滅する。歴史修正主義者との戦もようやく終結、時を経て賑やかったになった本丸には何処にも刀剣男士の存在はなかった。目の前にいる彼を除いて。

「不思議じゃのう。この本丸は梅雨に始まり、梅雨に終わりを迎える。そして、あの日と同じでここにいるのは今、ワシとおまんだけ」

「不満ですか?」

「まさか」

下座に座る彼はあっけらかんと笑う。我が初期刀は本当に明るい刀だ。

「さて、もう時間だよ」

他の刀剣男士は先に刀解を済まし、彼等の霊力は全て政府へ返還済みである。しかし、政府より直接賜った初期刀は顕現した姿のまま政府へ返すようこんのすけから言付かっていた。初期刀とはそれほどまでに特別な存在らしい。

「その前に、一つ、頼みがある」

上座から立ち上がった私につられるように彼も立ち上がる。それからあの日と同じように突拍子もなく言ってのけた。

「探検に行くぜよ」

言い出したら聞かないのは彼の悪い癖。さっさと大広間を出て行ってしまう彼の背中を私は苦笑いを浮かべながら追いかけた。
 誰もいない本丸の中を彼を先頭に見て回る。ここは粟田口の短刀の部屋だった、あれは三日月宗近が勝手に別邸を増築しただとか、厨は燭台切光忠の庭だったなど。彼と一緒に思い出話に花を咲かせた。やがて、玄関の扉を開けた彼は傘を手に庭に出る。広げた傘の下に私を誘ってくれた。

「先に行ってて。私は後から歩くから」

「ワシはおまんと一緒に歩きたいき」

「困った刀だこと」

渋々傘の下に入ると彼は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。小さい傘のせいで彼の肩が濡れている。いや、正しくは彼はわざと濡れていた。それに気がつかないふりをして私は庭の散策に集中しようと試みる。だけど、畑も花壇も木々も雨に濡れてはいるが彼を始めとするたくさんの刀剣男士との思い出が詰まっているので涙腺が緩むばかりだ。

「おまんは変わらんのう」

「何言ってるの。すっかりおばあちゃんになっちゃったよ」

「違ごう。一人で抱えて行こうとするところがじゃ」

彼が足を止める。私も足を止める。その瞬間、雨は止み、空から太陽の柔らかい光が溢れてきた。

「ワシは何でも知ってるぜよ。おまんの、初期刀じゃき」

彼の声が涙で濡れている。私は緩く首を横に振ってから微笑んでみせた。そっか、と。ふと、遠くから車のクラクションの音が聞こえてくる。政府からの迎えがやって来た。


 本丸が消滅してから一年ほど経った梅雨。私は杖を片手に近所の庭を散歩していた。不満なのは一度審神者を経験してしまった私は普通の生活には戻れない決まりのようで、私の住まいは政府の敷地内にある。ちなみに、広大な敷地のおかげでかつての審神者同士会うことはない。ただ穏やかに一人朽ちていくのが私に与えられた生活だった。

「主様!そろそろお腹が空きました!」

残念ながら、私の残り少ない時間に何故かこんのすけがついてきてしまったせいで穏やかの文字から少し遠ざかってしまっている気がするのだが。

「分かった。だけど、ちょっと待ってね」

近くにあったベンチに腰掛けて深く息を吐く。年を重ねると若い頃と比べて反応が鈍く疲れやすくて困る。審神者として本丸にいた頃が懐かしい。

「主様?お加減良くないんですか?」

「大丈夫だよ。ありがとう」

こんのすけがベンチに飛び乗り不安そうに私を見つめてくるので私はにっこりと笑う。大丈夫、まだ。内心そう自分に言い聞かせた時だった。遠くから傘を一つ持って歩いてくる人物が目に入る。鮮やかな色彩の和装が懐かしく感じた時、足音が目の前で止まった。

「間に合ったぜよ」

心底安堵したように笑った人物は私に傘を差し出す。今日は雨が降っていないのに傘で相手の顔を見えなくされるのは彼なりの照れ隠しなのだろう。

「政府に駄々こねてやったき。ワシはおまんが死ぬまで一緒におる」

こんのすけが私の隣で感動したように声をあげる。一方私は、足元にできた水たまりから彼と空を見つめた。彼は相変わらず泣きそう。それに気がつかないふりをして私は口を開いた

「ありがとう。あと少し、よろしくね」