悪いうわさ


 それは、本当に何気ない一言だった。
 図書室の書棚整理をするかたわら、最近出会った時雨先輩という人がちょっと変わってて面白いのだと、そう言った俺に早河はやかわは楽しそうにしていた表情を真顔に変えて俺の肩をガシリと掴んできたのだ。

「え、時雨先輩ってまさか紺野時雨じゃないよな?」
「そうだけど」
「まじか……」

 すると同じ図書委員のそいつが途端に表情を歪めた。切れ長の瞳を覆う細いフレームの眼鏡をくいっと上げて、深刻な声音で「長月」と俺の名前を呼ぶ。

「いや、こんなこと言ったらお節介になるのかもしれないけど、紺野時雨と関わるのはやめておいた方がいいと思うよ」
「何で?」
「あまりいい噂を聴かないから、あの先輩は」

 早河は見た目通りの真面目な奴で、同じクラスではないけれど生徒や先生達の間では優秀な生徒として結構人脈が広いらしく、そういった学校内の噂なんかには詳しい。その早河が言うことだから何かしら理由があるんだろうけど、あまり話したくはなさそうだった。

「気にしすぎじゃないか?別に怖くもなかったし……」
「そういうことじゃないんだ、あの人と一緒にいたら長月が上級生に目をつけられる……俺はそれが心配なんだよ」

 早河が一歩詰め寄り珍しくムキになったような強い口調で言ってきた。その様子に気圧され押し黙った俺に、早河がハッとして気まずそうに距離を置いた。

「……長月も言ってたけど、あの先輩はちょっとどころかかなり変わった人でさ、一年の頃に悪い噂が広まってたんだ」
「悪い噂……?」
「紺野時雨はヤバい奴だって」
「どういう意味?」
「文字通りの意味だよ、一年の頃に女子生徒と話してる途中で突然嘔吐したらしいんだ。その女の子が慌てて話しかける度に露骨に表情を歪めて益々酷い状態になっていたって。その一件があって以来、紺野先輩は腫れ物に触れるような扱いを受けてるんだってさ」
「じゃあ、時雨先輩は今でもその扱いを?」
「みたいだね、かなりの事件だったそうだし、何よりまた話しかけて嘔吐されたらって誰でも考えるだろ」
「でもそれ、別に時雨先輩が悪いわけじゃないだろ?たまたま体調が悪かっただけかもしれない」
「それ以前から先輩にはよくない噂が出回ってたんだよ」
「それ以前から?」
「一部の生徒や先生に話しかけられると露骨に嫌そうな顔をするから、同級生の間では感じの悪い奴だとか、昔は不良のヤンキーだったとかどこまでが本当か分からない噂が広まってた。だから嘔吐の一件も異常な大事になったって」

 早河の話で、何だか色んなことが腑に落ちた気がした。
 時雨先輩が前に俺が話しかけていいと言った時の反応やメールの文面、そして何よりたまに困ったように笑うあの表情。きっと時雨先輩は俺に隠し事をしている。それが何なのか俺にはまだ想像もつかないけれど。
 たとえ、今までの時雨先輩の全てが嘘にまみれていたんだとしても、それでも、俺に見せてくれた笑顔だけは何の偽りもなかったんじゃないかって、そう思うんだ。
 俺は早河からそっと視線を外して本棚に最後の一冊を差し込んだ。

「どれも所詮は噂なわけだし、それで時雨先輩がどんな人かは判断できないだろ」
「……長月は、強いな」
「そんなんじゃないよ。ただ、自分が同じ立場だったら、やっぱりそんなことで自分のことを判断して欲しくないと思うから」

 そう言った俺に早河はふっと小さく笑って「そういうところだよ」と呟くように言った。
 書棚整理を終え早河を一瞥すると、その瞳がとても悲しげに揺れていた。