MIKA


 遠くで鳥の囀りが聞こえた。チチチ、と可愛い鳴き声につられて窓の方へ近づいてみると、カーテン越しにやってきた風が私の横を通り抜けていった。ポカポカとした陽気が、まるで外に誘い出しているようだった。
 思わず窓のサッシに手をかけた瞬間、見計らったかのようなタイミングで名前が呼ばれた。私の大好きな声だ。

「ミカ、ご飯の時間だよ」

 振り向いて見ると、ちょうど優が私の分のご飯を持ってきているところだった。美味しそうなそれにさっきまでの気分も放り出して優のいるテーブルへと向かう。実はちょっと前からお腹がぐうぐうと鳴っていたのだ。
 いつもの定位置へやってくるなりご飯を黙々と食べだす私を見て、優が可笑しそうに笑った。

「そんなにお腹空いてたの?」
「まあね」
「そっかそっか」

 優がやさしい手つきで私の頭を撫でた。もともとタレ目で笑っているような目が、もっとふにゃりとして溶けてしまいそうなほどに柔らかくなる。
 私はその目が好きで、じっと見つめると今度は困ったようにはにかむのだ。

「じゃあ俺も一緒に食べようかな」

 優はばつが悪そうにテーブルに広げられたご飯達に視線を移して、私と同じように黙々と食べ始めた。
 撫でられていた手が離れてしまったことに少し残念な気持ちを残しながら、私も食べるのを再開した。

 優との関係は、と聞かれたなら、私はきっと一言では語り尽くせない。強いて言うなら優は私の命の恩人で、きっとどれだけ感謝しても足りないくらいに大切な存在だ。
 もともと住んでいた家から逃げ出して、ここにやって来たのが去年の冬のことだった。外の凍りつくような寒さの中で、何日もご飯を食べず野宿同然の暮らしをしていた私はそこで優と出会った。
 思えば優はその時からどうしようもないお人好しで、こんな汚い私のことを気にもとめず、その優しい手で撫でてくれた。
 「家は?どこから来たんだ?」と、そう問いかけられた私はただ、彼に助けを求めることしか出来なかった。そんな私を優は嫌がることもなく温かな言葉と毛布で出迎えてくれた。
 その夜から私と優の生活は始まった。

 男の一人暮らしと言えば、何となく部屋が汚かったりとかそういうものをイメージしていたけれど優の家は違った。
 マンション一階の角部屋で、キッチンとリビングと寝室と書斎がある。キッチンはリビングと対面式で一部屋に繋がっており、優はそのカウンターでいつもご飯を食べている。
 書斎の中は頑なに入らせてくれないのでまだ一度も見たことはないけれど、それ以外の部屋はきちんと整理がされていてどこも綺麗だった。
 仕事がお休みの日になると優はいつも朝に掃除機をかけて拭き掃除をしているので床も窓も棚の上も埃はほとんどなくて、私がちょっと散らかしても優は何も言わず優しく頭を撫でて片付けてくれた。怒ったところなんて見たことがない。
 私が知っている優は、きっととても少ない。怒った顔も、泣いた顔も、仕事をしている姿も知らない。
 けれど私の知っている優は、いつも優しくて、笑うと可愛くて、わたしがちょっと悪戯しても笑って受け止めてくれる。たまに目を合わせるとさっきみたいに照れてそらしてしまう。そういう顔はきっと、他の人は知らない。
 私の知らない優はたくさんいるかもしれないけれど、私しか知らない優もそれだけたくさんいるのだろう。
 それはきっと優に限ったことではなくて、優にとっての私もきっとそう。優の知らない私はたくさんいて、優しか知らない私がたくさんいる。
 つまり、私達の関係はそんな感じだ。

「ミカ、行ってくるよ」

 優がいつものスーツ姿で私のもとへやって来た。大きな手のひらが私の頭を優しく撫でていく。

「ちゃんと大人しくしてろよ?」
「はーい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃーい」

 玄関まで優を見送るのは出会ったあの日から毎日欠かさずやっていることの一つだった。
 ドアを開けて私の姿を確認するように一度振り返ってから優がまた一つ笑う。それから今度こそドアが閉じて、外から優の足音が遠ざかって行くのが聞こえた。
 その瞬間はいつも、ほんの少しだけ胸の奥が冷たくなったように縮こまって、優の手や声が恋しくなったりする。いつかは帰ってくるのだと分かっているはずなのに、やっぱり少しだけ寂しいのだ。
 そんな気持ちを振り払うように、玄関から背を向けリビングへと戻った。暖かな太陽に包まれていればそのうち心も暖まるだろう。
 ソファーへ横になって窓の外に視線を向けると、桜の木が青葉へと色を変えつつあるのが見えた。夏はもうすぐだ。