80ペソの受難


 ブエノスアイレスはアルゼンチンの首都である。およそ1337万人が暮らしており、東京の1313万人を上回る人口を誇る。19世紀後半にヨーロッパからの移民を奨励したことで、イタリアやスペインから多くの人々が移り住むようになった。結果、95%は白人であり、公用語はスペイン語である。

 そんな異国の地に降り立った及川透は、地下鉄の改札前で呆然と立ち尽くしていた。

 

 事の始まりは、至極単純。
 券売機が紙幣を読み取らない。
 以上だ。
 ちゃんと日本円をアルゼンチンペソに両替し、ホテルへの経路も書き起こし、地下鉄の値段も調べたというのに。及川の100ペソ紙幣を券売機が拒否するのだ。
 手元にある100ペソを片っ端から入れてみるも、結果は変わらない。50ペソで試してみるも弾き返される。10ペソは手元にない。誰も電車賃80ペソを補う主役になれない。
 こうなっては切符も買えず、電車に乗れず、目的のホテルまで辿り着けない。ジ・エンド。
 そういうわけにはいかないので、ケータイの翻訳に事情を入力し、100ペソと共に駅員に相談した。

「Tienen que ser billetes antiguos」

 え、なになに、なんて言ったの⁉︎
 及川はギョッとした。
 英語でも怪しいというのに、スペイン語で対応されては毛頭さっぱりわからない。そこで翻訳機としてケータイを差し出すも、駅員は面倒そうにひらひらと手を振った。
 きっとここが日本であれば、駅員は誠心誠意外国人に対応してくれるだろう。しかしここは南米、アルゼンチン。多様性を認めるこの国は、仕事への多様性もまた豊かであった。
 すでに別の人とスペイン語でやりとりしている駅員を呆然と見て、これは相手にされないな、と券売機へ踵を返す。
 こちらが翻訳の手段を持っていたとしても、相手が拒否すればキャッチボールは成立しない。
 しかし券売機の前へ行こうが問題は何一つ解決していないのだ。どうすればいいかもわからない。

 あれ、もしかして俺、めっちゃピンチでは?
 そんな及川の心の声は、人混みの雑踏に揉み消された。身体中からぶわりと温度が抜ける感覚が及川を襲う。
 駅のホームを行き交う多くの白人が、及川の横をそそくさと歩き去る。目を合わせてもすぐに逸らされる。誰も及川に興味がない、面倒だと言わんばかりに。
 このままではホテルに辿り着けず路上で夜を明かすかもしれない。スリや置き引きが多いと警鐘を鳴らす、このブエノスアイレスで。
 そもそも、サイ・フアンへのバス乗り場まではなんとか歩いて行くとして、また紙幣を拒否されたらどうしよう。ブエノスアイレスからサイ・フアンまでバスで12時間。東京から福岡を目指す距離だ。さすがに徒歩なんてどう考えても無理だ。
 そうなっては、ホセ・ブランコに会えない。
 バレーボールが、できない。
 突然足先が崩れてしまったような感覚。
 及川の表情がだんだんと青ざめる。
 長財布を両手で握り立ち尽くす、そんな及川の正面にひょっこりと女が現れた。

「あの、大丈夫ですか?」

 心配そうにこちらを伺う彼女は、日本語でそう声をかけた。
 日本語で。

「たっ、助けてください!」

 言語の壁の内側にいる女性の、なんと頼もしいことか。及川は思わぬ幸運に声を震わせて、彼女に助けを求めた。

「電車に乗りたいんですけど、紙幣が読み込まれなくて……」
「ああ、これ新紙幣だね。券売機は旧紙幣しか読み取れないの。両替しよっか」
「あ、ありがとうございます!」

 日本人の人並み程度に信仰心の薄い及川であったが、今回ばかりは彼女を神だと思い両手を合わせた。
 ショルダーバッグから財布を取り出すと、及川の持つ新紙幣と交換を済ませる。
 旧紙幣で無事に心を開いた券売機は切符を吐き出し、ようやく電車のホームへ彼女と歩を進めた。

「どこで降りるの?」

 そう尋ねる彼女に、メモを開いて降りる駅を確認する。拙いながらも舌の上で駅名を転がすと、彼女はああと頷いた。

「駅まで一緒に行くよ」
「いいんですか?」
「うん。ここで会ったのも何かの縁。よろしくね」

 そう言って差し出された右手に吸い寄せられる。アルゼンチンに来て、及川は初めて握手を交わした。

「どうしてアルゼンチンに?」
「バレーボールをしに来ました。明日バスでサン・フアンへ行きます」
「サン・フアン……どこだろ」
「チリ寄りの山岳地帯にありますね」
「ああ、そっち側全然行った事ないや」
「そこに会いたい師匠(ひと)がいるんです」
「……バレーボール選手目指してるの? すごいね」
「いえ、俺はまだ始まったばかりなんで」

 3分後に来る電車を待つ間、立ち話に花を咲かせる。と言っても、もうすでに5分は話し込んでいるが、電車が来る気配はない。

「始まったばかりって、何歳?」
「18です」
「じゅうはち…⁉︎」

 それまで無表情を貫いていた彼女が、初めて驚きの色を見せた。

「高校卒業してこっちに来たの?」
「はい」
「す、すごいね。そうか、18歳が単身で……」
「はい。俺もすごいと思います」
「ふふっ、正直だね」

 あ、笑った。
 及川は少し目を見張って彼女の表情を観察しながら、話を続ける。
 それでも日本の裏側で日本人と会えた喜びを噛み締め、身の上話に会話ははずむ。もう少し電車が来なくてもいいかもしれない、なんて思った頃に限ってアナウンスが鳴った。
 そこそこ混雑した車内へ乗り込んで、吊り革に捕まりながらキャッチボールを交わして行く。

「どうしてアルゼンチンへ?」
「私は仕事で。海外赴任ってやつ」
「じゃあスペイン語話せるんですか?」
「少しね。知らない言葉もまだ沢山あるけど、なんとか会話できる感じ」
「俺も早くスペイン語分かるようになったらなあ」
「頑張らなきゃね、お互い」
「ですね」

 これからの自分。CAサン・フアンで実力を磨いて、正セッターになる。そのためには選手との声かけやコミュニケーションが重要になってくる。
 アルゼンチンで生きるために、セッターとしてチームの実力を最大限発揮するために。スペイン語の習得は必修科目である。

 そうして何度目かの駅にとまり、車窓から駅名を見渡す。
 
「次の駅だね」
「……そうですね」

 ホテルまで、あと一駅。
 出会いがあれば別れも必然。そう分かってはいても、心残りと名残惜しさが及川の胸中に広がる。
 アルゼンチンで出会った、初めての日本人。どんな暮らしを送ってるのか、日本とのギャップをどこで感じたか、どうやってスペイン語を習得したのか。話の引き出しはまだまだたくさんある。もっともっと、話を聞きたい。
 しかしこれ以上わがままを言っては、かえって迷惑になるかもしれない。
 そもそも及川が自分で決めて自分で準備して、単身でアルゼンチンに乗り込んだのだ。自分一人でやっていく決意があったはずだろうに、こうもすぐに揺らいでは情けないだろう。
 そう自分にこっそりと喝を入れた及川に、一枚の紙が渡された。

「これ、私の名刺。なんでも聞いて」

 脳死で受け取り、それに視線をすべらせる。

 ――○○さんって言うんだ。

 異国の地で自分ばかり焦って慌てて、彼女の名前すら聞けていなかった。
 いかに自分が取り乱していたのか思い知らされた。その一方で、彼女――○○さんとの繋がりを継続できたことに安堵する。

 35時間の長時間フライトを終え、言語の壁は常に立ちはだかり、新しい刺激を五感で受け取っては、早速現れるトラブルに肝を冷やし、思わぬ助っ人に心底感謝する。
 今日は感情がぐちゃぐちゃになりやすい。

「いいんですか」
「もちろん。人は一人じゃ生きていけないんだから、たくさん頼ってね」

 ○○さんの表情は変わらず真顔のままだ。しかし、その声色はどこか優しい。その言葉は及川の胸中に潜むモヤを吹き飛ばすような、ストンと心に落ちてくるような、そんな温かい言葉だった。

「ありがとうございます」

 及川は頭を下げて、一枚の紙を大事に丁重に、リュックの内ポケットへしまった。
 
 彼のアルゼンチンライフはまだ始まったばかりだ。


 

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