カランカラン。
 こんがり褐色の手のひらが、空気を送り出すかのように木目調の扉を開く。警備服で身なりをととのえ、腰に拳銃を侍らす二人組の男が、なじみ深いミオ・行きつけのバールへと足を踏み入れた。仕事のブレイクタイムとして、いつもと同じエスプレッソを注文し、テーブル席へと腰を落ち着ける。

「ここでの警備はどうだ?」
「いやぁ、やりごたえを感じますね」

 『道を歩けば世界遺産にぶつかる』
 そんな逸話を飾るイタリアのここは南部、ネアポリス。ヴェスーヴィオ山の雄大な背景と共に美しい海岸線を臨める素晴らしい街だ。しかし一歩町なかへ足を踏み入れれば、立て込む交通渋滞と賑わう人混み、ネアポリスのあちこちに点在する静寂しじまの教会、オシャレなブティックや美食が連なる大通り、洗濯物がはためく裏通り、大声が飛び交う路地の屋台や市場。静寂せいじゃくと混沌、愛情と胡乱うろん、訪れたものを全て飲み込んだかのような相反した姿がそこにはあった。

 そんなネアポリスを“真っぷたつに割る”スパッカ地区はピッツェリアのメッカであり、観光客が絶えない下町の旧市街だ。人通りに乗じたスリや物乞いも多く、時にはストライキの影響で道端にはゴミが溢れ、治安も決して良いとは言えないような場所だ。そこに先日異動(という名目だが、要するに左遷である)してきた警察官のパトリックは、バディでもある上司の言葉に肩をすくめてみせる。

「今日だけでスリを3人見逃しました」
「まあ仕方ないさ。いちいちスリを追ってたら牢屋が順番待ちになる」
「HAHA!!逮捕しても刑務所に3年待ち、なんてな!もはや世紀末だ!」
「そういうことだ。さ、一杯景気づけて次にいこう」

 そんな二人の間に注文の品と伝票が並ぶ。パトリックはエスプレッソにティースプーンできっちり5杯、砂糖を注ぐ。かちゃかちゃとスプーンでかき混ぜ一気に飲み干せば、冴え渡るような甘さがガツンと身体中に広がる。
(ここのエスプレッソ…うまいじゃないか!)

 そんな様子を神妙な面持ちで見つめる上司などつゆ知らず、カウンターに佇むマスターに一瞥を投げる。

「オッ」

 思わず声を漏らした。顔をほころばせ、瞳はカウンター越しにマスターと話す女を捕らえる。

「イイ女だなァ」

 タンクトップの上からでも分かるバストから腰への曲線美、そこからスラリと伸びる小麦色の四肢、モデルも顔負けの整った顔立ちはまさに造形美。
 なかなか拝めそうにない美女が、バールのカウンターに一人でいるのだ。声をかけない方が失礼に値する。

「マスター!彼女にここイチオシのパニーニを送ってくれ」

 はてさて、彼女ほどの女性になんて声をかけようか。女を射止める選りすぐりの言葉をシミュレーションしていると、エスプレッソを飲み干した上司が口を挟む。

「彼女はやめておけ」

 予想もつかぬ言葉に、パトリックはきょとんとした。

「オイオイ、天使を一人ぼっちにさせたままなんて、イタリアーノ失格だぜ?」
「いや、彼女は一人じゃない」

 どういう事だよ?、男がそう尋ねる前にカランカランとバールの扉がまた開く。

「ほーれ、おでましだ」

 そう小声で呟くバディを横目に、店内へと入ってきた男を見る。
 赤い目立つ服に剃り込んだ髪、悪人という言葉が似合いそうな厳つい顔立ち。そんな男は、示し合わせたかのように美女の隣へ向かうではないか。

(ナンパ…いや違う。友人か?)

 眉を傾げながら二人の気さくなやり取りを見ていると、上司は続けて語る。

「お前はまだコッチに来たばかりだから知らなくても仕方ねェ。あの女の横にはな、いつも必ず男がいるんだ」
「なーんだ、先客がいたのか」
「そうじゃない」

 勿体ぶるなよと結論を急くパトリックを傍目に、上司は生唾と共に緊張を飲み込む。

「あの女はギャングだ。いつもいる取っ替え引っ替えの男は護衛らしい」
「な、なんだって!じゃあこのまま見過ごすわけには…」
「落ち着け。今バールでコーヒーを飲んでるだけの女を捕まえるつもりか?」
「しかしッ」

 とにかく、あの女と取り巻きは要注意だ。そう告げて上司は伝票を引ったくる。パトリックは納得のいかない顔で女を見た。

「なんであんなに綺麗な天使が、ギャングなんかになってしまったんだ…」

 その答えは、彼の知る由ではない。


+×÷-



「迂闊だったわ…」

 骨董品や酒瓶が並ぶバールのカウンターに佇む美女、ナナーシは顔を引きつらせて頭を抱えた。
 眼前に並ぶのはカフェラッテと焼きたてのパニーニが2つ。

(ランチを食べたばっかりなのに、パニーニを2つも?ただでさえ美味しすぎてピッツェリアを2枚も食べたっていうのに、あまりに重すぎるわ…)

 仲間の用事を待つ間、バールで軽くエスプレッソを飲む。ナナーシはただそれだけのつもりで、ほんの軽い出来心で、ふらりと入店しただけなのだ。そんなバールがまさか夜も酒場を営み、更に手作りの凝ったドルチェも置いているとは嬉しい誤算。注文する前に熱心にメニューをチェックしていれば、「あちらのお客様からです」「こちらのお客様からです」と次々に注文していない“気持ち”が運ばれてくるではないか。

(そういえば私、モテるんだったわ。そりゃこんな美人が一人でバールにいたらそうなるわよね…)

 以前まで子育てに明け暮れ、子どもを連れて移動することがほとんどだったのだ。イタリアーノといえど、当然子持ちの女性に甘い声をかける者などいなかった。そうした生活についつい慣れてしまい、自分の女としての魅力を忘れていたのだ。

(もう!どうせならパニーニよりドルチェを持ってきなさいよ!)

 内心どうしようもない悪態を一人ついていると、バールの扉から見知った顔の男が入店してきた。ラフなチャラ男に見える彼はナナーシが待っていた仲間であり、その見た目に反して厄介な相手だ。

「遅いわよ、ホルマジオ」
「まあな。ってオイオイ、まだ食うのかよ!」
「ええ、ちょうどパニーニが欲しい気分だったの」

 愉快そうに笑いながらナナーシを見つめるホルマジオは、残念なことになかなか勘も鋭く判断に優れた男だ。彼女がそんな気分じゃないことも、パニーニがやって来た経緯もおおよそ把握していた。

「手伝ってやってもいいんだぜ?」
「必要ないわ」
「ふ〜〜ん?にしてはしんどそうに見えるけどなァ」

 この男、ナナーシの状況を分かっていながら何やら楽しそうである。
 というのもホルマジオは人が苦しそうな姿を見るのが好きな、本当にどうしようもないサディストなのだ。そこに相手への思いやりが一切ないところがこの男を厄介たらしめる原因だ。それを十分理解しているナナーシは、だからといって彼の掌中に収まる気もなければ自分の意志を曲げるつもりもない。

「これは“私に”運ばれたパニーニよ。私が食べるわ」

 ナナーシはそう強く言い切り、パニーニを頬張る。
(私のために用意された“気持ち”は、私が食べて当然。横からひょっこり出てきた男にあげるほど、好意を無碍にするようなことはしないわ)

「お〜〜怖い怖い。ま、そうしてェなら止めねーけどよ」

 両手を挙げてオーバーリアクションをとる彼に、ナナーシは眉を寄せながら更なるパニーニに手を伸ばす。

(それにホルマジオに貸しを作ったら、リターンが怖いわ)
 やれやれといった顔で内心そうぼやく。

 彼らはイタリアンギャング・パッショーネの一員だ。シングルマザーだったナナーシはひょんなことからギャングの一員へと転身を遂げ、常に護衛を連れながら自ずの職務を果たしている。

 この物語は、そんなナナーシの日々を覗いたものである。
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