白い、汚れひとつない丸皿に、白く泡立った洗剤を、スポンジごしにこすりつける。中心に座する窪みから、うらがわの突起までていねいに泡を押し当てれば、流れ落ちる温度をもたない水で清め、さらなる綺麗な丸皿を手に取る。

 ぼんやりとした意識で、わたしは食器を洗っていた。左にはまだ洗えていない丸皿がたくさん積み重なっていて、どれも汚れは見えないけれど、なんとなくこれを全て、ちゃあんと洗わなきゃいけないと思う。

 だんだんスポンジもくたくたになって、泡もうまく出てこなくって、それでも洗わないといけないお皿は減らず。また次のお皿を手に取って、枯れがれのスポンジを滑らせる。そうしていると、わたしを呼ぶ声が聞こえた。見ればわたしの服をつかむ幼いギアッチョがなにかを言おうとしている。
 わたしはほほえんで、優しく問いかける。

「どうしたの、ギアッチョ?」
「…食べないの?」

 ギアッチョが指差す先には、美味しそうな食事が並んだダイニングテーブルがある。よく見れば、ここはギアッチョと暮らす我が家ではないか。懐かしみのある見知った家具に囲まれていて、ギアッチョと過ごすととても居心地がいい。
 ギアッチョとごはんも食べずに、わたしは何をしていたんだろう。一言謝り、ギアッチョと向き合うようにイスに腰掛けた。
 目の前には色とりどりのサラダや涼しげなパスタが並んでいるというのに、口にいれてみればどれも味のわからないものばかりだ。その向こうでギアッチョは、表情を崩すことなくサラダを食べている。

「どう、美味しい?」
「うん」
「それはよかった」

 ギアッチョが美味しいというなら、これはきっと美味しいんだわ。わたしは構わず食べ進め、そうして、あっという間に卓上は食器だけになった。食器を重ねてまたシンクに行けば、白い丸皿はさらに積み重なっていて、スポンジは新品みたいに背筋をピンとはっていた。

 洗わなきゃいけないお皿が、こんなにたくさん……

「手伝うよ」

 隣には、踏み台の上に身を乗り出すギアッチョの姿。彼はわたし達が使い終わったお皿を水で洗い、水で洗うのが僕の担当と言ってわたしに渡す。

「Grazie」

 わたしは何を不安に思っていたんだろう。ギアッチョと一緒なら、洗わなきゃいけないお皿がたくさんあっても、きっと大丈夫よ。うまくいくわ。胸にじんわりひろがる温もりに、これが幸せなんだと実感する。幸せって、素敵ね。

 しばらく皿を洗っていると、ギアッチョが話し始めた。

「さっきの、おいしかった」
「それは何よりよ」
「これからもずっと食べたい」
「ええ、ずっと一緒に食べましょう」
「本当に?」
「もちろん」

 ギアッチョの手が止まる。どことなく不穏な空気に隣を見れば、愛しい子どもの痩せこけた姿があった。小さな頬には影がさして、髪の毛はボサボサに縮れ、生気を感じられない瞳の奥には、思わず言葉を失い動けないわたしがいる。

「おなかすいたよ」
「どっ、どうして?さっき一緒に食べたわよね?」
「シャワーを浴びたい」
「じゃ、じゃあシャワーを浴びてきなさい。シャワールームがどこか分かるでしょう?」
「ふかふかのベッドで寝たい」
「い、一体何を言っているの…?」

 だんだんと体は薄汚れ、目の下にクマを溜めた姿に変貌し、わたしは皿洗いどころじゃない。膝をついてギアッチョと向き合う。

「なんだか今日はおかしいわよ?ほら、もう一度、一緒にご飯を食べて、シャワーを浴びて、眠りましょう?」

 そう言い聞かせて頭を優しく撫でても、まるでギアッチョの心にまで届かないようだ。

「どうしていなくなっちゃったの?」

 その一言にハッとした。そうだ、わたしは、ギアッチョを一人にしてしまった。ずっと一緒に暮らしていこうって言ったのに、そんな幸せを裏切って、この子を孤独にしてしまったのは他でもないわたしだ。

「どこにも行かないって言ったのに」
「ご、ごめんなさい」
「ごはんも、シャワーも、ベッドももうなくなっちゃった」
「ごめんなさい」
「人のものを盗まないと生きていけないんだ」
「ごめ、」

 ごめんなさいの言葉が出ない。ギアッチョを抱きしめるとゾッとするほど細くなった身体に、わたしは肩を震わせた。途端にこみ上げる後悔や懺悔の念を吐き出すかのように、わたしは顔をぐしゃぐしゃにして泣く。何度も大粒の涙が頬を伝い、じょうずな呼吸の仕方も忘れてしまうほどに。
 それでもギアッチョは変わらずに、お腹を空かせて、汚れた身体のまま、満足に眠れずわたしがいない時間を過ごす。

 頬を伝う涙はすっかり跡を残し、

「こんな幸せ、知りたくなかった」

 パチリと目が開く。汗で濡れたシャツが、べったりと肌に密着する。私の胸中はまるで太鼓を打ち鳴らしているかのように拍動し、静かな室内が余計にうるさく感じさせた。

 結局ギアッチョには何もできず、夢の中から追い出された春の朝だった。
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