我が家で勉強会

 六月下旬。
 
 前世の知識があるとはいえ、高校の頃に習った勉学は忘れていることが多く、所詮付け焼き刃にすぎない。勉強しないとテストでいい成績を収めるのは難しいだろう。前世の知識がアドバンテージを与えるとすれば、それは勉強に対するモチベーションが高いことくらい。
 勉強に専念できる時間は今しかないのだ。この恵まれた環境を利用しない手はない。高校生活をやり直せることの、なんと幸運なことか。

 松葉杖生活も終了し、足の調子も良好。これならもうすぐマネージャーとして復帰できるだろうとのこと。

 そんな私の元に、わざわざ隣のクラスから来訪者が現れた。宮侑である。
 バレーボールでは自分のトスに絶対的な自信を見せ、教室では陽気な態度で友達とつるんでいる。そんな彼が目の前に立っているというのに、どうも枯れ草のように萎びた男しか瞳には映らない。

「テスト勉強教えてくれ、頼む……」

 私をマネージャーに押し切った時の圧はどこへやら。おなじ人が頼んでいるとは思えないビフォーアフターに、思わず絶句した。
 あと足早に近づいては絞った後みたいな侑くんを撮影するのやめよう角名くん。容赦なくシャッターチャンスしないでください。
 
 期末テスト一週間前、全ての部活が活動を自粛している昨今。養分バレーボールが足りないのだろうか。それにしても今日が自粛初日だというのに、あまりに早すぎる。

「別にええよ」
「そこをなんとか……ってほんまに!? ヨッシャ!」

 息を吹き返した宮侑は、試合で一点をもぎ取ったような握り拳を作る。
 断られるつもりで話を進めようとしていた事に対してつっこむのはヤボだろうか。一応やめておこう。
 
「侑は勉強全然ダメだから教えるの大変だよ。頑張ってね」
「やかましいわ!そう言う角名はどないやねん!」
「侑ほどじゃないから大丈夫。ご心配どうも」
「どう聞いても心配してへんやろ!角名くんはアホなんですかぁ〜???」
「だる」
「教えるのも勉強になるし大丈夫」
「篠原お前……めっちゃええヤツやな!」
「あ、どうも……」

 宮侑に褒められると思わず警戒してしまう。この防衛本能どうにかしたい。
 期末テストの点数次第では補習で部活する時間が減るから必死な様子。宮侑はひとまず胸を撫で下ろして──まだ一ミリも勉強してへんのに安心すんの早すぎるやろ──放課後の予定を組み立て始める。
 しかし彼の気持ちも汲み取れる。多くの勉強嫌いがつまづく「どこが分からないのか分からない」壁に直面しているのだろう。一人でどこからどう手をつければいいのか分からない、「よーいドン!」したいけど「位置について」がまだ出来てないのだ。一番マズイ状態である。
 バレーに心血を注ぎたいというのに立ちはだかる勉学の壁に挫折していたようだ。

 結局勉強できそうな場所も思いつかず、私の家で勉強会が行われる事になった。宮侑もバレーボールに熱を上げてるとはいえ、一男子高校生である。正直高校生の男女が家で二人きりという状況はさすがにマズイ。
 自分から提案するのも躊躇われたが、部室は女子禁制・図書館は私語厳禁。ファミレスで何時間も居座るのは申し訳ないし、カラオケは気が散ってしまうだろう。
 ある程度私語を交わしても許される勉強場所が思い浮かばなかった。
 そもそも私に恋慕を寄せていないだろう宮侑が暴走するとも思えないが、それでも彼氏じゃない男を家に呼び二人きりになるシチュエーションは憚られる。打開策として角名くんと治くんに声をかけ、“バレー部員を複数招いて勉強会”という第三の選択肢へ導いた。
 まあ谷地さんの家で日向くんや影山くんも勉強してたし。大丈夫やろ。



 ***



 家へ着くなり、双子の上擦った声が「お邪魔します」と揃う。女子の家に上がるのは初めてなのかもしれない。ぎこちなく目線を右往左往する二人に、初々しい高校生らしさを浴びてしまった。可愛いところもあるもんだ。
 一方角名くんは驚くほど自然体だ。宮兄弟と反応の差が顕著で妙に面白い。

 玄関で靴を脱ぎ、洗面台とお手洗いの場所を伝えてダイニングへ入る。我が家の愛猫は私達に気を割くこともなく、お気に入りのクッションでまんまるころりとしている。双子に向かい合う形で私はダイニングチェアに腰を下ろし、隣に角名くんを添え、教科書とノートを広げていく。
 侑くんと治くんに数学を教えていくことになった。角名くんは大丈夫だそうだ。まあ文系科目は暗記がメインなので、どうせ教えるなら理系科目のほうがいいだろう。そこで二人はあまり数学が得意でないことを知ったのが決定打である。
 そもそも数学は解法パターンを理解していく暗記科目な一面もあるのだが。

「数学ってなんで英語が混じるん」
「ええっと……わからない数字を英語xやyに置き換えてるからだよ」

 数学に登場するxを英語感覚で認識している様子に、これは手強そうだと苦笑を漏らした。隣に佇む角名くんも思わず顔を上げて「えぇ……」と言いたげな表情を見せている。

「そういえば、なんで赤点回避したいん?」
「補習の日と合宿が被るからな」
「しかも大阪の強豪と一緒やから絶対参加したいねん」
「なるほど」

 治くん曰く、侑くんはすっかり強豪との練習試合に闘志を燃やしており、げっそりしていたのはバレー不足に在らず、との事。
 しかしそうとなれば話は変わってくる。合宿で二人がレベルアップするかもしれない、七月の下旬に控えるインターハイの本戦へ向けてのものだろう。そんな機会を赤点で奪われるわけにはいかない。

「そういう事なら大丈夫。二人には絶対赤点取らせへんから」
「なんやお前カッコ良すぎやろ!」
「ツムうるさい」
「何やと!?」
「喧嘩してる余裕ないでしょ」
「ぐっ……」
「角名くん、ナイスアシスト」

 問1. 次の等式がxについての恒等式となるように、定数a.bの値を定めよ
 (3a+b)x+(2a-b-10)=0

「この問題からいこうか」
「あかんもう心折れそうや」
「そもそも恒等式ってなんなん」
「そっか、じゃあできるだけ丁寧にいくね」

 バレーで育まれた宮侑の屈強な精神メンタルは、数学の初歩的な一問で悲鳴をあげているようだ。
 とにかく二人の最終目標は、赤点を回避すること。全教科の赤点を回避するためには多くの知識を頭に叩き込むしかない。
 よって、勉強する範囲もある程度限定されてくる。応用問題は捨て、基礎問題を重点的に押さえる。

「恒等式はどの数字を英語に代入しても必ず成り立つ式のことだよ。この問題だと右辺は0x+0ってことだから、3a+b=0と2a-b-10=0の連立方程式ができあがるんだ」
「レンリツホーテーシキ……」
「ツムあほやな。流石に俺でもわかるで」
「治くん、計算式間違えてる」
「サムあほやなぁ」
「…………」
「つっ次の問題いくよ!」

 ノートに丁寧に途中式を書き足しながら説明を続け、次の問題へと進んでいく。そんな往復が一時間続き、そろそろ集中力も切れてくるので五分休憩を挟むことにした。侑くんはテーブルに顔を乗せて、身体の輪郭を忘れてしまうんじゃないかってくらい脱力している。
 冷蔵庫に眠っていたキットカットで糖分を摂取してもらい、お茶のお代わりを注ぐ。

「脳みそ溶けるわこんなん」
「お疲れ様。休憩終わったらまた頑張ろうね」

 バレーボールのために、宮侑なりに苦手科目を必死に勉強しているのだ。頑張りは伝染する。私もテスト勉強頑張らないとな、なんてモチベーションが密かに上がる。

 一息つけようとお茶を含む宮侑などそっちのけで、暫くぶりに口を開いた角名くんが爆弾を落とす。

「篠原と治って付き合ってんの?」
「ぶっ」

 どっかーん。宮侑がお茶を盛大に吹いた。

「なんっっっでやねん!!」
「うっわきたね」
「角名が変な事言うからやろ!」
「俺ら別に付き合ってへんで」
「うん。でもどうしたん急に」

 確かに治くんとはバレー部の一件以降仲良くさせてもらっている。松葉杖で困った時には手を差し伸べてくれたり、おにぎり交換会などたまに開催する。穏やかで優しい友人だ。
 しかしバレー部に恋愛を持ち込まない事をモットーにしているため、彼とは当然付き合ってない。
 そんなのとっくに知ってるだろうに、なんで第三者の宮侑が一番驚いてるんだろう。

 私は急遽台拭きを用意して、宮侑がこぼしたお茶を拭きながら耳を傾ける。

「治と付き合ってるって噂流されてる」
「はあ!? ……ってなんや噂か」
「あー」
「あらまぁ」
「なんや噂されるような事したんか」
「いーや、全然」
「最近仲良くなったからじゃない?」

 確かに、人気者の治くんと急に交流が増えれば噂も流れるだろう。一度生まれたら回るのも早い。今頃尾鰭背鰭胸鰭までついているだろう。高校生だしね。
 宮治くんはファンも多いし、注目されやすいだろう。あえて噂を流して私たちの仲を裂きたい、なんて人もいるかもしれない。

「まあ違うだろうとは思ってたけど、一応確認」
「そっか。ありがとう角名くん」

 しん、とダイニングを静寂が包む。
 少し考え込む治くんの隣で、侑くんは「しょーもな」とため息をついた。そうだね、本当にしょうもないね。
 それにしても、ちょうど噂話の渦中にいる二人が出揃っているのだ。ここで落とし所を見つけた方がいいだろう。
 噂がどこまで広がっているか知ったこっちゃないが、私たちにできる最善は一つ。

「噂を気にせず今まで通り接していけばいいんじゃないかな」
「それだと噂がもっと広がるんじゃないの」
「うん。でも収束するのも早いと思うよ。トレンドはすぐに移り変わるから」
「まあ俺は全然ええけど。篠原は気にせんの?」
「しないよ。というか、気にしてアクションに出た方が喜ばれちゃうし、悪手なんよね」
「そうなん?」
「うん。怒ったり悲しんだり距離置いたり、そういうの全部エンタメ感覚で楽しまれるんだよ。芸能人の色恋騒動スキャンダルみたいに、行動すればするほど噂は長引くよ。『人を動かす』って快感だからね」

 「人を動かす」という点においては、愛香ちゃんの部内政治と共通点がある。まあ彼女の場合はそれよりもタチの悪い「人をあやつる」だったが。だからこそ動かされないように、私たちは今まで通りでいい。
 さぞつまらないだろう。アクションを心待ちに好き勝手言ってるのに、当の本人は気にせず仲良しを継続していたら、噂が無力になっちゃうから。
 噂話を娯楽にしてしまうなんて、本当に───

「可哀想な人たち」

 冬の険しい日。家でぬくぬくと朝の身支度をして、玄関の扉を開けたら強風で体温が一気に奪われるような。そんな冷たさが、笑顔を浮かべた目元から漏れる。目は口ほどに物を言う。
 まあでも、まだ高校生だもんね。法律上未成年だし、精神的にも未熟な年頃。そんな男女が噂話を娯楽にしてしまうのは無理もない。いろんな黒歴史をつくるだろう。
 私だけたまたま前世の記憶を持ってるだけで、多くの高校生がそうして大人に近づいていくのだ。
 
 もしかしたら、角名くんが勉強会に参加したのも、噂のことを伝えておきたかったのかもしれない。冷静に話し合いもできたし、彼には感謝しないとな。

「篠原ってそういう顔するんや」
「えっそういうってどういう……?」
「……なんて言えばええんやろ、ちょっと怖い感じ」
「こ、怖かった? ごめんね」
「いや全然大丈夫やけど、ちょっと意外やっただけで」

 そう首をかく治くんの表情は少し強張っている。私もたった今黒歴史を作ってしまったかもしれない。

 まあ気を取り直してお茶くらい飲むか、なんてふと顔をあげると、私を凝視する侑くんの視線とかち合った。とろんとした瞳で、その口角は小さく上がり見惚れたような表情を向ける。
 今噂を止める会話の流れだったよね? 見惚れる表情に繋がる要素あった? 侑くんのことが正直よく分からない。私の黒歴史を目の当たりにして弱み握れて喜んでいる……って感じではないしなぁ。彼に限って恋愛なわけないだろうし。
 どうも最近宮侑の様子がおかしい。

「ツムはいつまで笑っとんねん」
「べっ別に篠原の顔見てわろたりしてへんわ!」
「笑っとぉから言うたんやろ」
「笑ってへんわ!!」
「はあ!? どっからどぉ見ても笑っとったやろがい!」

 ぎゃいぎゃいと日常の如く揉め始める双子なんてそっちのけで、角名くんが私と宮侑を交互に見る。

「篠原って彼氏いんの?」

 噂話の延長線上で、ふと気になったから聞いてみたようなノリで投げかけられた疑問。
 藪から棒に降ってきた簡素な一言に、宮侑はすかさず私を見る。角名くんの言葉は賑やかな騒音を取り払って、代わりに妙な沈黙が訪れる結果となった。どっちも嫌だなぁ。

 しかし、私の向かいにいるのは宮侑だ。息を呑んで私を見つめるその視線には、推し量るような緊張の色が滲み出ている。私に彼氏がいるのか宮侑に聞かせたい理由があるのかもしれない。この疑問は真剣に向き合わないといけない。

 思えば愛香ちゃんがいた頃は恋愛のもつれで数名が退部に追い込まれている。これ以上部活に色恋沙汰を持ち込まれたくないだろう。期末テストが終われば私はバレー部のマネージャーとして復帰する。宮侑がバレーボールに集中できる空間づくりを私も心がけないといけない。
 青春のほとんどを部活に捧げ、男を作って遊ぶ暇などないと宣誓する。これだ!

「おらんよ。部活に集中したいし」
「そうなんだ」
「フッフ、まあそうやろうな」

 宮侑のご満悦な表情を見るに、私の判断は正しかったらしい。
 彼にとって重要なのは、テスト勉強しかり部内政治しかり、バレーの障壁をどれだけ減らせるかなのだ。テスト勉強に関しては彼自身の努力に大きく左右されるわけだが。
 私に恋人がいようものなら、「恋愛する暇あってええなぁ」なんて笑顔でチクチク言葉を向けられそうだ。こわぁ。
 まあ恋愛よりもバレーに携わる熱のほうが強いので、個人的には無問題モーマンタイ。マネージャーを引退するまでは、恋愛から離れるつもりだ。

 そうほっと胸を撫で下ろす私と、一気に機嫌が回復した宮侑を角名くんは交互に見て一言。
 「おもしれー」と心の中で一人ごちていることなど知らずに。

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