宮治は恋をする
一日三食。食事は心を豊かにする。
舌の上に乗るたびに、幸福感が全身を周る。宮治は気づいていた。バレーボールよりメシ食ってる時間の方が幸せを感じることに。
「進路希望調査早くね?」
「全然なんも考えてへんわ」
「俺も。まあとりあえず進学って感じ」
「それなー」
高校二年の春。将来を意識させる用紙が手元に渡る。卒業の向こう側を考えるには早すぎるような気がしつつ、でも三年間は意外とあっという間なんだろう。そう静かに気を引き締めた。
宮治は己の将来を思い描く。
小学生から今まで、人生のほとんどをバレーボールに捧げてきた。侑と張り合いながら、当たり前のようにずっと続けてきた。なんとなく、自分の人生にバレーボールがいるのを当たり前だと感じていた。
一抜けしたら「逃げるんか」って声を張り上げそうな侑に、負けた気分にもなるのも嫌だった。
「治はプロなるん?」
友人は宮治がプロのバレーボール選手になると、当然のように思っている。
「高校バレー界最強ツインズ」としてメディアに出た経歴もあるので、まあそう考えるのも致し方ない。きっと宮治を知る人の多くは、プロを目指すと思っているのだろう。
しかし治が手を伸ばす職業は、バレーボールではなかった。
「……俺、メシ作ってみたいわ」
あの日篠原が渡したおにぎりは、目を見張るほど美味しかった。
別添えで渡された海苔はパリパリで塩気が心地いい。炊飯する時に加えた調味料は、ご飯の味わいを引き立てる。冷めていてもただでさえ美味しいおにぎりが、冷めていてもより美味しく頂けるように、彼女なりの工夫が
こんな美味いおにぎりを、篠原は作れるんや。そもそも、今まで食べていた食事も、元を辿れば誰かが手間暇かけてこしらえたもの。
ならば当然、治にも作れるはずだ。
とは言っても、今まで料理に携わった事なんてほとんどない。キッチンに立ったことなどあっただろうか。家庭科の授業くらいだろう。当たり前のように食べている、ご飯の炊き方すらよく知らない。
上手く作れるようになるには、それなりに時間をかけるだろう。
「えっそうなん? プロ行くんや思ってた」
「なんかもったいねー」
もったいねーってなんやねん。そう思ったが、口には出さない。
その場のノリで軽く言っただけなんだろう。そんな友達の一言にムキになってしまえば、地雷を踏まれてキレる侑と大差ないように感じたから。
バレーボール選手として名を馳せた、そのレッテルを通して宮治を見ているのだ。まあ俺が逆の立場ならそう見えてたかもしれへん、なんて無理やり納得してその場は終えた。
それでも、どうしても篠原が作るおにぎりをもう一度食べたかった治は、次の休み時間に彼女へ頼んでみた。少し気恥ずかしい思いもしたが、彼女は二つ返事で快く了承してくれた。先ほどまで胸の奥が燻っていたというのに、彼女の笑顔と懐深さを真正面から浴びたおかげか、不思議と溜飲が下がった。
翌日が楽しみでたまらない。
「作ってみる?」
寮暮らしの治にとって料理に触れるのはなかなか難しい環境である。篠原のお手製おにぎりを食べ進めていると、治の心に漠然と浮かぶ「メシ作ってみたいねん」がふと漏れてしまった。
いや、あえて言ったのかもしれない。
バレー部を元に戻した篠原なら、なにか治の予想を上回る回答が聞ける。そうなんとなく思ったから。
そんな篠原の唇から紡がれるのは、どこかで追い求めていた一言だった。しかしこうもあっさり話が進むとは思わず、つい呆気にとられ、一瞬何を言えばいいかわからなくなった。どのような形で実現するのか問えば、なんと篠原の家でおにぎりパーティーしようぜ!という発案。
料理が絵空事でなくなる。自分でおにぎり作りに挑戦して、心ゆくまで食べられる。それは治の心を揺らすには十分な動機だった。
「うんま!」
「美味しいー」
「フツーにうまい」
「そこは“フツー”なんて言葉いらんねん!うまいだけでええやろ!」
「アラン君に同じく」
「えぇー……」
篠原の指南もありなんとか完成したおにぎりは、味見役の舌鼓を打った。自分の手で作った料理が、みんなを笑顔にしている。そんな光景に表情が自然と和らぎ、治も無骨なおにぎりにかじりついた。
うまい。
はちみつ梅は甘みと酸味のバランスが良く、まろやかで食べやすい。途中で海苔を巻きつけて味変を楽しみ、篠原が用意した味噌汁は身体を温めて、心なしかおにぎりの余韻をリセットする。
そして小鉢に添えられたほうれん草のお浸しは出汁が心にまで沁み入るようだ。ごはんと出汁の組み合わせこそ、王道にして最強である。
次に食べ進めようとツナマヨを持つと、嫌でも成形の緩さを指先で感じてしまう。口に含めてみると、どうやらマヨネーズの油分がご飯にべちゃべちゃ感を与えているらしい。
しかし自分が作ったとなると“もっとうまくできたんやないか”って悔しさが胸にひとつまみの後悔を残した。
「治くんはどうやった?」
「いや美味いけど……なんやツナマヨはベチャッとしてもたわ」
そう呟けば、味は美味しいけどなぁとフォローに回る周囲の声。
気を取り直して鮭おにぎりも手に取ってみる。鮭おにぎりといえば、篠原が初めて治に謙譲したおにぎりだ。
今でも覚えている。ひとかじりした時、白いご飯のベールから宝石のような鮭の身がゴロリと出てきた時の高揚感。分厚くて噛みごたえのあるぶん、塩気や旨みが溢れてご飯と踊るあの感覚。
しかし今回治が買ってきたのは鮭フレークだ。解れやすく小ぶりなそれは、塩鮭とは食感も味へのアプローチも大きく違うわけで。
「篠原が作った鮭おにぎりはもっと身が柔らかかってんけどな」
「ああ、塩鮭焼いたからかな?」
「
鮭フレークを使うとどんな
篠原に一声かければ、笑顔で承諾してくれることなど目に見えていたのだが。
「治くん。ご飯ならまだまだあるから、何度でも付き合うよ」
おにぎりをじっと見ていた治の正面から、そんな声がかかる。そうだ、まだおにぎりパーティは始まったばかり。幕引きには早すぎる。
ひとつまみの後悔は反省点へ、反省点は挑戦へ。トライアンドエラーを繰り返せばいい。
ツナマヨはマヨ少なめに、鮭フレークはごまを加えて混ぜおにぎりに。
明太子は焼いてみる、塩昆布はめんつゆを加えて少し甘辛く、梅は紫蘇を借りて梅しそ混ぜおにぎりへ。
今度はどんな味になるやろ。料理っておもろいな。やっぱメシ作る道進みたいわ。
治の口角が自然と上がる。進路の決定打を確信すると共に、脳裏に学友の何気ない言葉がよぎる。
──えっそうなん? プロ行くんや思ってた。
──なんかもったいねー。
なんでバレーすんのが正解みたいに言うねん。
治の口角が自然と下がる。その双眸に宿る冷たい感情など知らないはずの篠原が、続けて言う。
「焦らなくても大丈夫。スポーツと違って料理はみな平等だから」
篠原の言葉は、治の視界を広げるに足る破壊力であった。
たとえ小学生からずっとバレーボール一筋で、キッチンに立ったことのない男でも。瞬発力や動体視力など必要ない、身長も跳躍力も関係ない。ただ「美味しい」を目指す食への探究は、誰でもできる。
キッチンに立てば誰だって料理人になれるし、調理の技術や創意工夫は誰だって学ぶ機会を持てる。
──まあとりあえず進学って感じ。
この気持ちは“とりあえず”じゃない。
自分が作ったおにぎりを、美味い美味いと頬張る試食メンバーの表情を見て、強くそう思う。
空腹を満たす料理が美味しければ、人はたちまち表情が綻ぶ。美味い美味いと箸が進む。
食べることが好きだからこそ、自分が作った料理を好きになってもらえたら、それはこの上なく嬉しいことだ。
「やっぱ俺、メシ作って店出したいわ」
食事とは本来、休憩時間に行われる。
穏やかな雰囲気で、柔らかい表情で、親しい人と食を楽しむ。そんな料理と場所を作りたい。
俺のメシ食っていろんな人を幸せにしたいと、宮治は強く思う。
「高校バレーボール最強ツインズ」の片割れは、料理を究める道を選んだ。
侑に言えば、きっと大バッシングを受けただろう。別にいつかは言うことになるって分かってる。でも、今やない。呼ばなくて良かった、そう心の奥で小さく安堵する。
さすがにこの選択を前に、アランと角名は面食らった表情を見せた。しかし驚く素振りも見せず、嬉しそうに笑う試食役が一人。
「絶対通い詰めるね!」
篠原である。
治がバレーボールの道を離れても、彼女は瞳を爛々と輝かせて応援してくれる。治に料理の機会を作ってくれた彼女なら、きっと驚かないだろう、笑顔で受け入れてくれるだろうと思っていた。
まさか通い詰める宣言まで頂戴するとは思ってもなかったが。
「俺も俺も!裏メニュー出してな!」
「いいねぇ。裏メニュー表ってどうやってもらうんやろ」
「顔パスで出てくるでしょ」
「いや、そもそもメニュー表やないかもしれん。“通だけ知ってる幻の一品”的なやつや」
「顔パスで幻の一品出てくるのかっこよすぎない? 最高……」
「分かるわぁー!『店長、いつもの』を超えるロマンがそこにある!」
「いやまだメニューまで考えてへんから。お前ら気ぃ早すぎやろ」
篠原に続くようにアランと角名も参加し、すっかり店の裏メニューまで話が膨らんでいる。そんな三人にツッコミを入れて、ひっそりと篠原に視線を寄せる。
穏やかに笑顔を向けて、優しく寄り添ってくれる。どんな未来を選んでも背中を押して応援してくれる。
そんな篠原がずっと隣におってほしい。
ずっと俺のメシ食って幸せにしたい。
「篠原、おにぎりパーティ企画してくれてありがとう」
「こちらこそ、美味しいおにぎり作ってくれてありがとう」
あ、俺篠原のこと好きやわ。