二目惚れの倒錯 - 1

(10年位前に書いたまるマ夢)





「あちっ! 熱い熱い! 熱湯風呂かよ!」

 思わず叫んだおれを誰が責められよう。いつぞやの南国プールの比ではない熱さと、コンソメのような色と香り、そして味。
 間違いない、鍋だ! このままじゃスープのだしになりかねない!
 咄嗟に丸い淵に手をかけて身を乗り出すと、鍋は轟音と共に倒れ込んだ。学校給食センターで使われていそうな、巨大なスープ鍋から溢れる濁流。ばたばたと音がして、コック帽を被った男がおれの元へ飛んできた。

「え、えっ!? 双黒!? いや、え、うわあ!?」
「えっと、どうも、驚かせてすみません」

 転がる鍋とスープの池とおれを忙しなく見回すコックさんに、とりあえず謝罪した。完成間際であろう食べ物を粗末にしてしまったのが、素直に申し訳ない。
 見渡すとそこは広い調理場で、騒ぎを聞きつけたらしいコックや使用人風のお兄さんお姉さんたちが、ざわざわと遠巻きにスープの具を眺めている。
 怯えた様子はないから、やっぱりここは……。

「静まりなさい。何の騒ぎですか」

 よく通る女性の声に、周囲がしんと静まり返る。
 人垣が割れ、コックさんがその人の元に駆け寄ると、おれの方を見ながら小声で何かを話している。コックさんを片手で下がらせて、凛とした姿勢で真っ直ぐ歩いてくるのそのひとは、例によって例の如く、物凄い美人だ。
 濡れたように艶やかな紺碧の髪に、若くて厳しい女教師って感じの理知的な顔、高そうな布地から除く細い手、踏まれたら痛そうな靴がコンソメ溜まりの前で止まった。一方で尻餅をついたおれ、コンソメ風味の渋谷有利は、服ににんじんの切れ端がひっついている。

「貴方はもしや、陛下ですか?」
「へっ?」

 この世の無常に思いを馳せていたら、陛下なんて呼び名とは程遠い返事をしてしまった。


 ● ○ ●
 

「改めまして、お会いできて光栄です。ユーリ陛下」

 貴族の風呂のサイズはあれが一般的なのかを問いただしたくなるようなプールサイズの浴場を借りて、何とかスープの具材を脱却した。
 貴賓室らしい部屋に案内されると、待っていたさっきの青い髪の女の人が恭しくお出迎え。窓から差し込む日の光に透けて輝くブルーが、慣れ親しんだユニフォームを思い起こさせる。

「私はフォンロシュフォール卿ファーストと申します」
「はじめましてでいきなり騒ぎを起こしてすいません……」
「いいえ、少し驚きましたけれど」

 フォンロシュフォール。十貴族の一つだ。広いお風呂にも納得がいった。
 
「ここは直轄地にあるロシュフォールの飛び地です。直に迎えが来るでしょうから、こちらでお休みになってお待ちください」
「ファーストさんって、なんか先生っぽいですね」
「まあ、よくお分かりですね。以前はギュンターと共に教官をしておりました」

 厳しい女教師風お姉さんだと思ったけど、微笑むと優しい小学校の先生という感じがする。ファーストさんは元同僚なギュンターと親しいらしく、おれの噂はかねがねだと言われてしまった。あのギュンターから一体どんな話を聞いているのか、少し怖い。

 出してもらったお茶を飲みながらファーストさんと話をしていると、どこかで聞いたような足音がどすどすと近づいてくるのが聞こえてきた。何となく、誰が来たのかがわかる気がする。予想を裏付けるように、ノックもそこそこに扉が勢いよく開かれた。

「ユーリ! お前また……」

 きゃんきゃん吠えるいつもの声と天使と見紛う美少年フェイス。フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムの登場だ。
 僕以外の女と二人きりとはどういう了見だ浮気者! なんて怒号が飛ぶかと思い身構えたけど、ヴォルフはファーストさんを見て拍子抜けしたような顔をした。

「ああ……ファーストか」
「お久しぶりです、ヴォルフラム」
「うん、久しぶりだな」

 予想に反して柔らかいヴォルフの反応に、思わず半開きになった口を慌てて閉じる。そんなおれの動きを見て、ヴォルフは顔をしかめた。

「何だ、その間の抜けた顔は」
「いや、いつもみたいに、この尻軽! って怒鳴られるかと思ってさ」
「怒鳴って欲しかったのか? ……別にファーストなら問題はない」

 どういう意味かと聞く間もなく、おれは理由を知ることになる。
 開け放たれたドアの向こうから、オレンジ色の髪がヴォルフを追いかけてくる。ファーストさんの目にもその色が留まったらしく、ぱっと立ち上がった。
 ガタイのいいお庭番にも、ファーストさんの姿が見えたようで、ぴたりと足を止めた。

「グリエ!」
「ファースト、閣下……!」

 何故か、絞り出すように、いつもより数段ハスキーな声だった。
 派出な髪色のお庭番、グリエ・ヨザックが、珍しく引きつった顔で部屋に招き入れられた。

「お久しぶりです、陛下。それと、ファースト閣下……」
「久しぶり、ヨザック」
「ヴォルフラムと一緒に陛下のお迎え?」

 ヨザックとは対照的に、ファーストさんは心なしか楽し気だ。

「ああ、たまたまグリエと僕が近くにいたからな。ユーリの無事を確認に来た」
「じゃ、そういうことで行きましょうユーリ陛下」

 促すようにおれの前に立ったヨザックの前に、ファーストさんがすっと割って入る。

「陛下のご無事を確認することが任務なら、お仕事はもうおしまいよね」
「いえ、陛下を王都にお送りしようと……」
「ヴォルフラムに任せましょう、婚約者水入らずの凱旋をお邪魔するなんて無粋だわ。貴方はここでお茶でもいかが?」
「ですが、これから、グウェンダル閣下に、報告を……」
「あら、鳩を飛ばせばよろしいのではなくて?」

 ああ、だから「別にファーストなら問題はない」なのか。
 機から見てもそれとわかるアプローチ。優しい先生の好みのタイプは立派な上腕二頭筋らしい。うんうん、わかるよ立派だもんな。ヨザックのたじたじとした様子は、毒女を前にした彼の上司にどことなく似ている。

「ファーストはお前みたいなへなちょこになんて目もくれないからな」
「なるほど……」

 男としては少し悲しい気もするけれど、珍しいお庭番が見れたから良しとしよう。
 それにしたって、何であんなに距離を取ろうとしているんだろう。赤毛のマッドマジカリストじゃないと駄目なのか? 贅沢だぞ、ヨザック。


2018-12-20
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