花を売る男


 男は。
 その男は、名を薬売りと名乗った。ただひたすらに妖美で、凄艶で、同じ人間かと疑ってしまうほど近寄りがたい男だった。あれが軒先に現れると、あねさま方も私も親父様も、時が止まったように動けなくなる。自分が果たして何を見ているのかもわからないまま、ただただ美しいという感情だけがぽつねんとある。薬売りは、その口の端を静かに釣り上げる。笑うのだ。まぬけな衆目を如何ともせず、自分を見た者は皆そうなるのが当たり前であるようかのように。

「ご無沙汰、してましたね」

 まず親父様にそう挨拶をして、玄関口に腰を掛ける。日の光をついぞ見たこともないような、五筋の白魚のような細い指がなめらかに動いて、高下駄を脱いで揃える。それから私たちに一瞥をよこしながら、親父様につづいて奥の間へ続く。その赤い隈取と、長い睫毛と、釣り目に近い錆鼠色の眼。人を籠絡させるには十分すぎるくらいの完成された見目に、私たちははあと感嘆の息を吐く。

「相変わらず美人でありんすなあ」
「本当に」
「わっち達じゃあ敵んせんな」

 あねさま方はいつもより声色高めに呟いて、それぞれ持ち場に戻る。私も自室に向かった。部屋には幼い女児がいる。布団を敷いて、灯をつけて、お香を焚いて、私の髪や着物を整える。やわい手が少しくすぐったい。帯が前で留められる。簪が髪に刺される。みなが通ってきた道。みなが通ってゆく道。

「あねさま」

 鈴の音が私を呼ぶ。いやに高くて綺麗な声だ。けがれを未だ知らない、純真な音の羅列。あねさま。そう呼ばれるのは、まだ少し、慣れない。慣れなければいけない。私は微笑んだ。きっとあの人のように艶美にはできちゃいないけれど。

「なあに」
「薬売りさまは、あねさまのはじめての方とお聞きして、その、まことでありんすか?」
「――ああ、そう。そう、本当」
「それは、その、」
「……」
「何でも、ありんせん」

 不安そうに影を落としたその鼻は、まだ高くない。いまは、十二、十三かそこらだろう。水揚げにはまだ時間がある。それでも、そんな顔をしてしまうのも無理はなかった。私はそう、と言うだけに留めて、櫛を渡す。薬売りが見えたときにはいつも付けるものだ。ずいぶん昔にくれたもの。あの日からずっと、薬売りは私を指名する。
 薬売りは、薬を売りに来る。
 その薬はたいへんに淫靡なもので、物好きなお客さんが買うものだ。あれは私たちを、少しばかりだめにする。演技が演技でなくなってしまう。男を惑わす色女でいたい心を踏みにじって、弄んで、劣位に立たせる。そんな薬だ。私のみならず、あれはあまり、好きでない。それを売る薬売りのことも矢張り好きにはなれない。

「あねさま。薬売りさまが、お見えです」
「通して、おくんなんし」

 襖の向こうには、薬売りが立っている。紫色の頭巾を被って、こちら側がかすんでしまうほど華やかな着物を着て、大きな帯を後ろで締めて。すぐに絡まってしまいそうな亜麻色の髪が、揺れる。とん。襖が閉められる。

「……元気に、していやしたか」
「はい。変わりなく」
「そいつあよかった」
「薬売り様も、特には?」
「特には、なんにも」

 指の動きの、その艶めかしいこと、艶めかしいこと。どちらか女か、分かったものじゃない。薬売りはそのまま、私の帯を緩める。もともとあんまり強く締めていないそれは、はらり、面白いくらい簡単にたわんだ。それから薬売りはつうと、床の脇に置いた薬箱に目を移す。少し腕を伸ばして引き出しを開けて、何かを取り出す。小さな小瓶。薬売りの、薬の研究。いわば、これも、この男の仕事だ。

「ふ、」
「……、何か面白いでしょうか」
「いやあ、なに。随分、しかめっ面をするものだから」
「し、しておりません」
「あんたは、顔に出やすい。昔からだ」
「……薬売り様、」
「なにか」
「薬売り様は、どうして、私を選んだのでしょう」

 薬売りの薬は、高値で売れる。その方が遊女が良い反応をするからと、金持ちの男は嬉々として買っていく。親父様は薬売りからそれを安く頂く代わりに、女をひとり、部屋を一晩、貸し与える。そういう約束だ。薬売りは実証するために、親父様はお客様に喜んでいただくために。私はその橋渡しのためだけにいる。私が見習いの新造だった頃から、ずっと。

「それは、あなたが」

 つつ、と爪が私の耳に触れる。頬をなぞり、唇に触れる。力が些か強い。紅を拭うように、ずうと私の唇をなぞっていく。上唇、下唇。指が離れる。見れば、薬売りの指の腹はだいぶ紅くなっていた。真新しい血のように見えて、ぞわりと肌が粟立つ。その人差し指を、薬売りは自分の唇へやる。青い色が引かれたそれの、真ん中に当てる。薄く形の良い唇が、指の力で沈んだ。

「一等、かわいらしかったからですかね」

 薬売りの唇から、指が離れる。青いばかりだったそこの真ん中に、紅がうっすらと厭らしく残った。その一連の動きがひどく妖しくて、麗しくて、思わず赤面する。顔に血が上ったのが、いやでも分かった。
 薬売りの瞳は全く揺るがない。睦言にも似たことを囁いたというのにあいも変わらずその真は見えない。少なくとも私の容姿や内面を好んでくれているとは、到底思えなかった。

「ご冗談を。薬売り様なら、花魁だって選べたでしょう」
「ほう。なぜ、そう思うので」
「だって、そりゃあ、親父様のお気に入りだし、きっと、花魁もよろこ、ん」

 薬売りの指は、冷たい。太腿をまさぐるようにのぼってきて、私に薬を塗る。この瞬間が、嫌い。
 これ以上本当に答える気はないのだろう、薬売りは丹念に薬を塗って、ふう、とひとつ息を吹きかけた。少し突き出した唇の形が、とても良い。この男に美しいだの可愛らしいだのと言われても、戯言でしかない。

「どうですか、ね」
「ま、まだわかりません。今度は、どんな薬、ですか」
「この前の蝋丸を、すこうし強くしただけですよ。もしかしたら、ちょいと痺れるかもしれやせん」
「お部屋の中の薬売り様のお言葉は、一つも信じられませんね」
「おや、手厳しい」

 ふ、と意地悪く秘めやかに笑う姿は、ともすれば花魁たちより花魁めいている。人をだまして、魅せて、虜にする。少し細められた目に、私はどうしても弱いのだ。この人は私を、体の良いねずみくらいにしか思っていない。薬物を与えて、通常通りの行動をさせて、反応を見る。それだけだ。ここに来るお客さんとは、形もわけも違う。ここにきて私を指名し続けるのは、それがいちばん都合が良いから。それだけ。そう思えば、この真意の読めない客の相手も、多少なり気が楽というものである。

「ふくを、脱がせないのですか」
「脱ぎたいので?」
「はい、」
「暑いですかね」
「あついです、薬売りさま」
「素直でよろしい」

 猫のような目だと思う。何を考えているのだか分からないそれは、私を映し出すばかりで、思考を一つも読ませない。やってきたかと思えばすぐにするりとどこかへ行ってしまう。気の赴くままに、人の想いなぞ露程も知らず。

「矢張りあなたは可愛らしい」

 それでいて、気紛れにすり寄ってくるのだから、本当、心底、この男はたまったものじゃない。



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