タイトル


 祖父が経営している喫茶店は、彼の夢と道楽の成れの果てだ。代々余らせていた土地に溜め込んでいた貯蓄と40年勤め上げた職場からの退職金を注ぎ込んで作った彼の城。席がすべて埋まることはおよそ稀で、客の顔ぶれは祖父の知り合いか暇を持て余した近隣住民がだいたい。路地の薄暗く細い階段を上がってやっと見えてくる扉は、たしかに一見さんには叩きづらい。
だからこそ、その男はこの城にとって脅威ともいうべき異端だった。
 その男性は開店後の11時から16時くらいにかけて、ふらりと静かに現れる。多分すぐ近くの大学の学生。シンプルなシャツとスラックスに革靴といった装いをよくしている。それから、とにかく姿勢と顔の良い人。少し癖っ毛のある髪とか、高い鼻筋とか、糊のきいたシャツを丁寧に着こなしているところとか、全部が全部精密に計算されて作られたのかと思うほど綺麗なのだ。
 このコーヒー臭くて流行りのJポップひとつさえ流れていない空間にとって、男性はあまりに新しくて眩しかった。たしか、先月くらいにふらりと現れて、それから2回はリピートしたはず。それなりに気に入ってくれているのだろう。それはうれしい。でも、この男が周りの友人たちにこのお店を薦めて、大学生がわんさかと押し寄せるようになってしまえば、今の雰囲気は完全に壊れる。それは私にとっても祖父にとっても避けたい事態だった。いやこのお店を人に薦めたくなるほど良く思ってくれるならそれはそれで嬉しいんだけど。
 からん。私にはどうしようもないジレンマに苦しんでいると、それを救うように、あるいは更に深い沼は落とすようにくだんの男性が喫茶店の扉を開けた。一週間ぶり4回目のご来店だ。

「いらっしゃいませ」

 なんだかんだ言っても、結局このお店を気に入ってくれているのは嬉しい。常連客に向けるような笑顔で対応するも、男性は一瞥をくれただけですぐにいつもの窓際の席へ座った。あっ、勝手に距離を詰めすぎただろうか。何せ来る日も来る日も常連といえばおじさんばかりで、若い男性とのコミュニケーションなんてとっくに忘れている。一応、もう少し愛想は減らしておこうかな。

「ホットコーヒーひとつで」
「はい」

 なるべく気配を薄めてお冷やを運ぶと、男性は私にそう告げた。私がカウンターへ戻ろうとするのと同時に、クラッチバッグから本を取り出す。彼が窓際のあのテーブルを取れたときは、他の席と比べてやや長く滞在することが多い。だいたいはカバーのかけられたなんだかよく分からないけれど小難しそうな漢字の並ぶ本か、スタイリッシュなファッション雑誌を読んでいる。いずれにしても私には縁のない世界だ。
 男性の元へホットコーヒーを届ける。いつ見ても、しみも皺も一つとてないシャツだ。襟が曲がっているのを見たこともない。男性はコーヒーを一瞥してからそれを飲む。その睫毛の長いこと長いこと。私に移植してほしい。願望は口にすることなく、私はコーヒーを置いてカウンターへ戻った。程なくして、別のお客さんが席を立つ。3ブロック向こうの日曜大工用品店の相模さんと、その2軒隣の墓石屋の角田さん。

「陽ちゃん、ごちそうさま」
「ありがとうございました。あ、祖父呼びましょうか」
「さっきいらんほど話したからいいよ。またくるね」
「お待ちしてます」
「ていうかさ、」
「はい?」

 相模さんのお会計を終わらせて、角田さんのお会計に入ったとき、ふと角田さんが声を潜めた。おじいちゃんと同じように若干下がった目蓋の下で、視線がちらりと窓際へ移される。あの若者への文句だろうか。すました態度が鼻につくとか。またはただ珍しいねってだけか。角田さんが口を開く。

「あの人陽ちゃんの彼氏?」
「か、」

 顔に熱が総動員されたのが自分でもすぐに分かった。全然想定と違った。まさか祖父の友人に恋バナを振られるとは。いや違うんだけど。

「ち、ちがいますよ」
「ほんと? よくいるからそうかと思ったよ」
「そしたら角田さんも相模さんもみんな私の彼氏ですけど……」
「いいなそれ。今度白屋に言っとくよ」
「おじいちゃん冗談通じないのでやめといてくださいね」

 角田さんは朗らかに笑って、じゃあねと言って扉の向こうに消えていった。途端、人の声が消える。男性が本を捲るときの小さな紙の摩擦音がやけに大きく響いた。揶揄われて気にし出すって中学生男子か。角田さんたちがいたテーブルのバッシングをやや雑に行う。トレンチに積んだお皿やカップを流しに置いて洗う。他にやることもないので、ゆっくりと。突然すぐに洗い終わるので、ダスターを濡らしてテーブルを拭きに行く。
 ふと、ヴーと低いバイブ音が店内に響く。私のものではない。窓際見ると、男性がクラッチバッグから携帯を取り出して画面を見ていた。眉根が寄っている。あんなに感情を露わにすることもあるのか。彼はするりと店内を見回して他にお客さんがいないことを確認してから、それを耳に当てた。

「なに?」

 ホットコーヒーを頼むときより、幾分か低いアルト。態とらしく不機嫌だぞとアピールしているみたいにも受け取れる声色だった。この人からホットコーヒー一つとお会計とご馳走様以外の言葉を聞くのは初めてだなと思いながら、アルコールの染みこんだダスターでテーブルを拭く。

「……ああ、あの件ね。慶ちゃんがいいならそれでいいんじゃない」

 男性の右手は携帯へ、左手はテーブルは伸びている。こつこつ、と人差し指の爪の先が、断続的にテーブルに触れては音を立てる。ケイチャン。女性だろうか、男性だろうか。知る術はない。

「今?…………15分後くらいなら行けるけど」

男性の左手がコーヒーカップの取手を掴み、口元へ運ばれていく。性急な動きだ。私はダスターを片付けて、レジへ行きコーヒーの価格を打ち込んだ。

「は? 別にどこにいようが羽鳥に関係ないでしょ。わかったから」

ピ。言いたいことだけ言って電話をやや無理やり切った男性は、しかめっ面のままもう一度コーヒーカップを口に運び、それから席を立った。ここから15分で行けるところといえば、大学か駅前の商業ビルくらいだ。どこで待ちあわせかなと答えの出ない疑問を浮かべながら、レジへ向かってくる彼を迎える。

「すみません」
「あ、いえ。またお待ちしております」

 男性はお会計を済ませると速やかに二つ折りのコンパクトなお財布を鞄にしまって、足早に立ち去った。きっとこれから彼はケイチャンも絡んでいるあの件の話をしに、ハトリに会いに行くのだろう。ていうか、ハトリをここに呼べば良かったのでは。いやでもハトリがめちゃくちゃうるさいパーティーピーポーみたいな大学生だったらちょっとやだな。いやお客様に貴賎はないのだけど。
 さっきまで男性がいたところのバッシングを終えてカウンターへ戻ると、ふわりと祖父お手製のナポリタンの香りが漂った。もう賄いの時間らしい。スプーンとフォークをカウンターから一番近いテーブルに置いて、お茶を用意する。
 そういえば、あの人いつもコーヒーしか頼まないけど。ナポリタンも美味しいから、また来て頼んでくれたらいいのにな。