桜色の約束



夏も終わろうとしているとある日。
仕事を終えた桜庭は、久しぶりに前職で勤めていた病院に訪れていた。

桜庭が担当していた患者が近々大きな手術を受けるから、励ましてやってほしい、と元同僚の担当医から連絡があったのだ。
医者だった頃、患者と個人的に親しくすることはなかったが、何故かその患者は自分に懐いていたことを思い出し、桜庭は空き時間を利用して病院へとやってきたのだった。


ナースステーションに顔を出してから、病室の扉をノックする。
返事はないが、病室にいると聞いていたので、寝ているのだろうか…とそっと扉を開くと、そこには、ベッドの上から窓の外を眺める、なまえの後姿があった。

「…みょうじさん」
「わわっ!?え!?さ、桜庭先生!?」

声をかけられて慌てて振り返ったなまえが、さらに慌てて顔をごしごしと擦ったのを見た桜庭は、それに気付かないふりをした。
泣いていたのか、などと言う無粋なことは言わない。
なまえは、1週間後に大きな手術を控えているのだから、情緒が不安定になるのは当たり前だ。
ましてや、多感な時期の少女なら、なおさら。

「久しぶりだな。すまない、驚かせたか」
「う、ううん。大丈夫、ですけど…どうして、ここに…」

感情を押し殺すように笑ったなまえが桜庭に向き直るのと、桜庭はここに来た経緯を説明した。

「そんな、わざわざありがとうございます」
「僕が勝手に来ただけだから、気にしなくていい」
「えと、今日はアイドルのお仕事はお休みなんですか?」
「午前中に1件終わらせて、それからここに来た」
「わあ…お疲れ様です。忙しいのに、来てくれてありがとうございます」

ぺこり、と頭を下げるなまえ。
桜庭が再度、気にしなくていい、と言うと、なまえは笑った。

「…少し散歩をしないか。許可は取ってある」
「えっ、いいんですか?…わあ、嬉しいな」
「まだ暑さは残ってはいるが、外は少し風がある。何か一枚、羽織っていくように」
「はーい」

そういっていそいそと準備をはじめるなまえを手伝って、桜庭はなまえを病院の庭へと連れ出したのだった。


――ゆっくりとなまえの乗った車椅子を押す桜庭。
その穏やかな空気に、なまえは身を委ねるように目を細めた。

「あ、そういえば。もう先生って呼ぶのも違いますよね。なんて呼べばいいんでしょう…」
「君の好きにすればいい」
「そうですか?うーん…でもやっぱり、しっくりくるから『桜庭先生』で!」

背後からふ、っと漏れた空気に、なまえは嬉しそうに笑った。

「…先生、アイドルになって、変わりましたね」
「そんなつもりはないが。どこに居ても、僕は僕だ」
「ええー?自覚ないんですか?」

そう笑うなまえの声は、楽しげではあるが、以前に会った時のものより、か細くなっていた。
…さっき車椅子に移るときに支えた腰も、長袖のパジャマから覗く手も、長い髪が隠す頬も。
今のなまえの態度は、それを隠すための、空元気なのかもしれない…とも思う。
けれど桜庭は、それには気付かないふりをして、なまえと会話を続けた。

「今日は何のお仕事をしてきたんですか?」
「歌番組の収録だ」
「すごーい!いつやる番組ですか?録画しなくっちゃ!私、先生の歌、好きです」
「そうか」

さあっと風が吹き抜けて、なまえの長い黒髪をさらっていく。
桜庭は、建物の脇で風が凌げそうなベンチの横に車椅子を止めて、自身はそのベンチに座った。

「ねえねえ先生。ここで歌ってって言ったら…ダメですか?」
「……今日だけだぞ」
「わー、嬉しい!じゃあじゃあ、あの…」

興奮した様子でなまえがリクエストすると、桜庭はそっと歌いだした。
桜庭の歌にあわせて、なまえの指がそっとリズムを刻んでいることに気付いた桜庭は、今の自分だからこそ出来ることかもしれない、と表情を和らげるのだった。

1曲歌い終わると、なまえはキラキラした目で、パチパチと手を叩いた。

「アイドルの生歌だぁ…!」
「なんだその感想は」
「すごくすごく贅沢だなーって!先生の歌、やっぱり大好きです!…ねえ先生、今度の手術が無事に終わったら…アンコール、お願いしてもいいですか?」
「今日だけと言ったはずだが」
「えー、そこをなんとかお願いします!その約束があれば、私も頑張れるので!」
「……もっと、別のものでなくていいのか」
「ううん、桜庭先生の歌がいいです!」

そうきっぱりと言い放つなまえに、桜庭は苦笑した。

「…まったく。だったら、頑張ってこい。僕の歌はそんなに安くないぞ」
「わあ、ありがとうございます、桜庭先生!私、頑張ります!」

むん!と気合を入れてみせるなまえ。
それを見て、桜庭はしばし視線を彷徨わせ…コホンと咳払いをした。

「――もう1つ」
「え?」
「今日は特別だからな。手を出してみろ」
「は、はい…ええっと、こうですか?」

車椅子に座る膝の上で、おずおずと手のひらを広げるなまえ。
すると、何の前触れもなく、ぽんっ!となまえの手のひらに桜柄のシュシュが現れた。

「わあっ…!桜庭先生、すごい…!魔法みたい!」
「ただの手品だ」
「ううん、すごいです!」
「…君は、桜が好きだと言っていたからな。よければ受け取ってくれ」
「えっ、もらっていいんですか?」
「ああ。これなら、金属を使っていないから、滅菌さえしておけば手術室にも持ち込めるはずだ」
「…ありがとうございます!これ、お守りにします…!」

大事そうにシュシュを手のひらで包み、抱きしめるなまえの青白かった頬に、朱が差す。
喜んでもらえたはいいが…いささか興奮させ過ぎてしまったのでは、と心配になる。

なまえはそんな心配をよそに、うきうきとした様子で、自身の髪をシュシュで束ねた。

「…似合い、ますか?」
「ああ。想像していたよりも似合っている」

桜庭の、自覚のない優しい笑顔に、なまえはさらに顔を赤らめた。
しかしそれを見た桜庭は、その理由がわからず、これ以上無理をさせてはいけない、と判断して、すっと立ち上がった。

「…付き合わせて悪かったな。では、病室に戻るぞ」
「ううん、本当にありがとうございます、桜庭先生!」

アイドルとしては、たった1人のために、こんなことを勝手にするのは間違っているのかもしれない。
それでも、元医者のアイドルとして…桜庭薫と言う人間として、この少女を励ましたいと、そう思ったのだ。
それは絶対に、間違いではない。
桜庭はそう確信したからこそ、ここにやってきた。

そしてそれは、決して単なる自己満足ではなかったことを、なまえの反応を見て確信することができて、そっと胸を撫で下ろしたのだった。

「…君が喜んでくれて、よかった」
「え?」
「いや、なんでもない」

桜庭はそう言うと、車椅子を再び押し始めた。

「次に僕がここに来れるのは、君の手術が終わってからだな」
「今日いっぱい桜庭先生に元気もらえたから、手術も頑張れます!ありがとう、先生」

再会したばかりの時に見せた強がりの作り笑顔から、自然な笑顔になったことに安堵し、普段見せないような笑顔で桜庭も笑うのだった――




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