馨香



カチカチと、静かなオフィスにマウスの音が響く。
私は、目の前のPCに映し出されるいくつかのファイルを確認した。
次の打ち合わせに使うための資料だ。

(…よし。この書類を10部ずつプリントして、配布用にセッティングしなきゃ…)

そう思って立ち上がると、ふわりと、自分からいつもと違う香りがした。
普段使っているシャンプーでも、入浴剤でも、洗剤や柔軟剤…でもなくて。
自分では手を出せない感じの、とても華やかで、でも気品のある香り…



――そうだ。これって、翔真さんの香り、だ。

確かに、昨日の夜から今朝まで一緒に過ごしてた、けど…
なんて意識したら、昨日の夜の出来事が思い出されて、ぶわっと顔に熱が集まってくる。

「…どうしたの?」
「な、なんでもない!です!」

立ち上がって固まっていた私に、同僚が声をかけてきた。
…不審がられてしまったようだ。
私は慌てて席を離れて、プリンターに向かった。

プリンターの周りは誰もいないから、自分を落ち着かせるために、大げさに深呼吸をする。
ふう、と息をつきながら、プリンターをいじると、すぐに資料の印刷が始まった。


…今朝、翔真さんが私の髪を結ってくれた時に「虫除けよ」と言いながら、何かをしてたっけ…
あの時は、昨晩の睦言から来る気だるさで寝ぼけていて、よくわかっていなかったけれど…
もしかしなくても、この香水をつけてくれてたのか…


真面目一辺倒で生きてきて、勉強と仕事しかしてこなかった私と、華やかで艶やかで、歌舞伎役者からアイドルになった翔真さん。
正反対の世界で生きている私と翔真さんが出会ったのは、本当に偶然のことで。
そして私の対極にいるにも関わらず、翔真さんは何故か私を気に入ってくれて…気付けば、付き合うようになった。
私の何がいいのか…今でも、よくわからない。

それでも、翔真さんといると、新しい世界が広がって…毎日が、色づいていくようだと思う。
驚くことも、慣れないことも多いけれど…きっと私は、いい方に変わっているんだとも思う。

…けれど、今日のこれは…ダメだ!

プリンターから吐きだされる無機質な紙とインクの匂いと、自分からする翔真さんと同じ華やかな香りに挟まれて、えもいわれぬ背徳感を覚えてしまう。
香りが、翔真さんの熱を、吐息を、肌を、声を、視線を――全てを思い出させて、クラクラしてきた。
職場でなんてことを…と私は頭を抱えた。

一度意識してしまうとダメで、せっかく綺麗に印刷した書類を落としてばら撒いてしまうし、次の打ち合わせは噛み噛みだし、いつもは厳しい上司にまで心配されて、今日は早く帰るようにと促されてしまったのだった。
社会人、失格だ…あまりに耐性がなさすぎる…


――そんな散々な一日を、翔真さんに恨みがましく報告すると「そこまで初心だとは思わなかったよォ」なんて、盛大に笑われた。
…どうせ私は、色恋沙汰に慣れてませんよ…!

「でも、そんなに意識してくれるなんて…嬉しいねェ」

翔真さんは笑いすぎてこぼれた涙を拭い、目を細めてそう言うと、瞬時に纏う空気を変え、つう、と私の顎をなぞりあげた。

「なまえ」

散々笑われた後なのに…そんな風に艶っぽい声で名前を呼ばれて、見つめられたら。
私はそれだけでもう、翔真さんから視線を逸らすなんて出来なくて、体の奥から沸き上がる期待に、従順になるしかないのだった――




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