「ごめんなさい、これに乗らないと間に合わなくて…!」
今日は、雨彦のソロの仕事が立て続けに入っていた。
しかし、大規模なイベントが開催されている影響で交通規制が行われており、車での移動は難しく、電車で移動するしかなく…
そんな状況のためか、頼りの綱の電車も超満員状態。
ホームに入ってくる電車を見て「う…!」となまえは呻いた。
だが、次の仕事のためにはこの電車に乗るという選択肢しかなく、隣に立つ雨彦になまえは申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんな満員電車に、アイドルを乗せるなんて…」
「なに、問題ないさ」
すまなそうに謝るなまえの肩をぽん、と叩く雨彦。
電車が止まり大勢の人が下りていくが、それと同じくらい、もしかしたらそれ以上の人がホームでは待っていた。
ゆっくりと、人々が電車の中に乗り込んでいく。
「さ、行くか」
「…はい!」
覚悟を決めたなまえが、まるで戦地に赴く戦士のように重く返事を返すと、雨彦はふっと口角を上げて、満員電車へと足を踏み入れた。
(…この有り様じゃ、汚れが目立つのも、当然のことか)
人がぎっちりと詰められた電車内に漂う汚れに雨彦が眉を顰めると、なまえは心配そうに声をかけた。
「雨彦さん、大丈夫ですか?」
人に埋もれて大丈夫そうではないのはなまえの方なのに、自分を気遣うなまえ。
そのなまえを安心させるように、雨彦は「大丈夫だ」と笑って返した。
「お前さんこそ大丈夫かい?」
「わ、私は慣れ、てっ…!?」
そこで電車がカーブし、人々がよろめく。
その勢いで、なまえは雨彦にしがみつくような体勢になってしまった。
「わぷ!!」
「おっと、随分熱烈だな」
「ご、ごめんなさい!!!そんなつもりじゃ…!」
「はは、冗談さ。そのまま捕まってな」
「だ、だいじょう…ぶっ!」
「…じゃ、なさそうだけどな?」
続くカーブによってふらつくなまえに、雨彦は苦笑した。
「うぅー…素直に、お言葉に甘えます…」
「そうしておきな」
(…今は汚れじゃなくて、プロデューサーを見ていないとな)
雨彦は、人に圧し潰されてしまいそうななまえを支えられるように、と視線を落とした。
ようやく次の駅に着いたが、大勢の人が下りて行っても、やはり同じくらい人が乗ってくる。
「こっちに」
「え」
雨彦は、人の波に流されていきそうななまえを、閉まっているドアの方へと導いた。
そして、その体格を生かして、なまえのためにわずかな空間を作ったのだった。
それと同時に、ゆっくりと電車が動き出す。
「これなら幾分かマシだろう?」
「あ、ありがとうございます…!」
幾分かどころか、先ほどよりすごく楽だ、となまえは感謝した。
ただ…
(当たり前だし、どうしようもないんだけど近い…!!)
なまえは雨彦との近すぎる距離に、視線をそわそわと彷徨わせた。
プロデューサーとアイドルという関係上、いつもは異性であることを、恋愛感情的な方面で意識しないようにしているが、この距離感が普段のなまえのペースを完全に崩していた。
(どうしよう、いい匂いが…じゃなくて!雨彦さん、きつくないかな…)
なまえが1人であわあわとしていると、今度は急ブレーキがかかった。
さすがの雨彦も、バランスを崩してしまう。
「っく…!」
「ひゃ!?」
その勢いで、雨彦はなまえの頭上で手をついた。
完全なる『壁ドン』状態である。
――幸か不幸か、身長差があるため、雨彦の胸に埋もれる…というか圧し潰される形になったが。
雨彦はなんとか体勢を整えようとするが、急ブレーキによって変わってしまった人の配置によって、身動きがとれずにいた。
そして電車はそのまま、線路の途中で完全に止まってしまった。
「すまないな」
「いえ!雨彦さんこそ大丈夫ですか?もっと詰めてもらっても大丈夫ですから…!!」
きつそうに声を漏らす雨彦のために、少しでも隙間を作ろうとしたなまえは、さらに身を小さくした。
…その愛らしさに、雨彦はつい悪戯心を芽生えさせてしまった。
「それじゃ、悪いがお言葉に甘えさせてもらうぜ…このままだと腕が折れそうだ」
そう言うと雨彦は突っ張っていた手の片方をなまえの首の後ろに回し、反対の手はなまえの頭の上で位置を調整し「ここに頭を寄りかからせていいぜ」となまえを促した。
(えっ!?)
さらりと流れていくなまえの髪の毛。
気付けば、なまえは雨彦に頭を抱きしめられるような形になっていた。
そのうえ、少し頭を傾けて空いたスペースに雨彦が顔を寄せたせいで、距離はさらに縮まっている。
(どどど…どうしてこうなった…!?)
バクバクと鳴る心臓の音も、きっと聞こえてしまっているに違いない、となまえは真っ赤になって身を固まらせた。
それに気付かないふりをした雨彦が「平気かい?」と聞くと、耳元で囁かれたなまえは、身をぴゃっと小さく跳ねさせる。
(だ…大丈夫なわけないですー!!)
そう心の中で叫ぶものの、返す言葉が見つからなくて、ぎゅっと目を瞑って黙りこくってしまうなまえ。
「嫌だったか?」
と続けて雨彦が尋ねると、なまえは黙ったままふるふると小さく頭を振った。
(嫌じゃない…嫌じゃない、けど…嫌じゃないのが問題と言いますか…!!)
アイドルを満員電車に乗せてしまったうえ、こんな感情を抱いてしまうなんて…!と自己嫌悪に陥り、さらに身を小さくしていくなまえの様子に、雨彦もさすがにやりすぎたか、と自らの軽率さを少しだけ反省した。
しかし、雨彦はそう苦笑するものの、その体勢を崩さなかった。
もちろん、簡単に体勢を変えられなかったこともあるが。
なまえには永遠のようにも感じられたが、そのあとすぐに電車は動き出し、目的の駅へとなんとか辿り着いたのだった。
人をかき分けるように電車を降りると、なまえは気持ちを切り替えようと、肺に詰まっていた満員電車の空気を吐き出し、深呼吸をした。
そして、小さく「よし」と呟くと、いつもの調子で雨彦に声をかけた。
「お気遣いありがとうございました。それに、余計な体力を使わせてすみません。もう、こんな風に満員電車で移動しなくていいように、スケジュール管理を徹底しますね…!」
「はは。まあ、たまになら悪くないけどな」
「雨彦さんは、物好きですね…」
「…あれだけの役得があれば、な」
満員電車でもみくちゃになったせいで乱れていたなまえの前髪を優しくそっと直すと、雨彦は笑った。
「!?」
「ああでも、お前さん1人は乗らないで済むようにはしてくれよ。さてと、行こうぜ、プロデューサー」
ぼっと赤くなって立ち止まってしまったなまえを促し、雨彦は何事もなかったかのように歩き出したのだった。
そのあとの仕事はというと。
挙動不審ななまえとは裏腹に、雨彦はとても上機嫌な様子で、最高のパフォーマンスを見せた。
そしてこの日をきっかけに、雨彦がやたらと距離を詰めてくるようになり、なまえは雨彦に翻弄される日々を送ることになるのだった――