「おはようございます」
「あ、鋭心センパイだ〜!おはようございますっ!」
事務所にやってきた鋭心が挨拶をすると、なまえは1人で黙々と進めていた作業の手を止め、待ってました!と言わんばかりに勢いよく立ち上がった。
そんななまえを見て、鋭心はふっと笑った。
なまえは、高校生ながら315プロの事務員であり、その仕事ぶりは社長もプロデューサーも認めるところではある。
しかし普段の言動は天真爛漫で、年相応なものだった。
「ほら、持ってきたぞ」
「わぁ〜〜〜!ありがとうございます〜〜!!」
いつだったか、なまえと鋭心との間で交わされた雑談。
それは、なまえのほんのささやかな…他人からしたら、くだらないだろう願い。
しかしその願いを鋭心は覚えており、ついにそれが叶えられる日がやってきたのだ。
「ほ、ほんとにいいんですかっ!?」
「ああ。お前にやるから、好きにしたらいい」
「ありがとうございます〜〜っっ!!!」
――そんななまえの目の前にあるのは、みずみずしい、立派な桃。
なまえの夢とは…『桃を丸ごと1つ、1人で食べること』だった。
鋭心は、家に届いた桃を見て「私はフルーツの中で一番桃が好きなんです!」と夢を語っていたなまえを思い出し、差し入れることにしたのだ。
「バイト代も貰ってるし、自分で買えばいいんですけど…フルーツって結構高いから、なかなか手が出せなくて。いつか、1人で1個、しかもワイルドにかぶりついて食べてみたいんですよね〜」
なまえ曰く、なまえの家は、弟妹の多い大家族であまり裕福ではなく…桃を1人で1個食べるなんて贅沢はできないらしい。
そう語っていたなまえの目の前に桃を差し出すと、キラキラした目でなまえは桃を見つめる。
「眉見家に贈られる桃とか…さぞ高級な…きっと美味しい桃なんだろうなぁ…!」
「先に1つ食べてきたが、美味かったぞ」
「ひゃ〜…!ぜ、贅沢しすぎて他の桃食べられなくなっちゃったらどうしよう…!」
なまえは、宝物を扱うように慎重に、うやうやしく鋭心から桃を受け取った。
「早く食べたい…!あっでも、ちょっと冷やした方が美味しいのかな…」
「15分ほど氷水で冷やすといい」
「なるほど!えーっと、ボウルボウルっと…」
桃を持ったまま、きょろきょろするなまえに、鋭心は手伝いを買って出た。
「手伝おう」
「わー重ね重ねありがとうございます!!」
鋭心がボウルに氷水を用意すると、そっと桃を浮かべるなまえ。
よく冷えるように時々桃を回しながら、桃に熱い視線を向けるなまえの様子に、鋭心はまたふっと笑った。
「…そんなに見つめていたら、桃が冷えないんじゃないか?」
「えっ!?」
「冗談だ」
「鋭心センパイもそんな冗談言うんだ…!?」
「…意外か?」
「意外ですよぉ!…そういえば、桃は皮も食べられるって聞いたことあるんですけど、この桃は剥いて食べるのと、そのまま食べるの、どっちがいいですかね?一応、皮の剥き方は勉強してきたんですけど…」
「そうだな…好みにもよるが、この品種は皮を剝いた方がより甘さが感じられるから、皮を剥くのがお勧めだ」
「ふむふむ、勉強になります!そしたら果物ナイフと〜…一応お皿も用意してっと…」
この事務所のキッチングッズの充実ぶりには、鋭心も最初は驚いたものだが、なまえは扱い慣れているようだ。
迷うことなく、目的のものを準備していく。
「そろそろいい頃合いだ」
「やった!」
鋭心が時計を見て言うと、なまえは嬉々として、予習してきた方法で皮を剥き始める。
そして手際よくつるんと綺麗に剥くと、にまにまと笑った。
「ほんとに私1人で食べちゃっていいんですか?」
「ああ、俺はもう食べてきたからな」
「そ、それでは…いただきます!」
意を決して、かぷり!と桃を頬張るなまえ。
すると…
「〜〜〜っっっ!!!」
目を輝かせながら、言葉にならない!と鋭心を見た。
「美味しいです!!今まで食べたものの中で、いっっちばん!!」
「それは何よりだ」
「こんな美味しいものを独り占め…しかもかぶりついて食べるなんて…贅沢すぎる〜〜!!えへへ、ちょっとお行儀は悪いですけど」
なまえは顔を蕩けさせながら、幸せそうに桃を頬張っていた。
「……そんなに美味いのか?」
果物である以上、個体差はあるだろうが、同じものを食べたはず。
そのはずなのだが…
なまえがあまりにも感動しながら食べるので、鋭心は思わずそう口に出していた。
「はい!やっぱり鋭心センパイも食べます?…って、私の齧りかけになっちゃいますけど…」
「いや、すまない。それはお前のものだ。遠慮なく食べてくれ」
「は、はいー」
いいのかな?とは思いつつ、齧りかけを差し出すのもなぁと思い、なまえは再び桃を頬張りだした。
そんななまえの手は、桃の果汁でびしょびしょだ。
手からも溢れて、白い腕を伝っていく。
「わわ、果汁が垂れちゃう…!勿体ない〜〜」
「…それなら」
――ただ、単純に『美味そうだ』…その想いで。
鋭心はなまえの腕を伝う雫を舐めあげた。
「…確かに美味いな。家で食べたものより、甘く感じる」
平然とそうのたまう鋭心に対し。
なまえは顔を真っ赤にして、わなわなと震えながら(しかし残りの桃は落とすことなく)「え、えいしんせんぱいのえっち…!!」と絞り出した。
「!?」
その言葉に、完全に無意識で行動していた鋭心に理性が戻る。
自分の行動を振り返り、理解――できなかった。
何故、こんなことを。
自分でもその理由はわからないが、まずいことをしてしまった、ということはわかる。
混乱しながらも、自分の中にあった衝動を告白する鋭心。
「本当にすまない!つい……美味そうで」
「そんなに食べたかったんですか!?」
「いや、違う。桃が欲しかったんじゃない」
「ど、どういう意味ですかそれぇ…!」
混乱した2人がそんなやりとりをしていると、事務所に誰かがやってきた。
「おはようございます…ん?なんか甘い匂いがする」
やってきたのは秀だった。
「…あ、なまえ、おはよ。鋭心先輩もここにいたんですね…って何、この空気」
「な、なんでもないよ!おはよう秀くん」
「……おはよう、秀」
「うわ、なまえの手べっとべとじゃん…もしかして、桃食べかけ?」
「う、うん、そうなのー!」
「ふぅん…よくわからないけど、早く食べたら?変色しちゃうだろ」
「へ、へへ…そだね!」
秀がやってきたことにより、その場はうやむやになったが…
なまえは、慌てて食べた残りの桃の味がわからなくなっており…
その後しばらく、鋭心と顔をあわせる度に挙動不審になってしまうのだった。
一方の鋭心はと言うと…
その日家に帰って、再び同じ桃を食べてみたものの、特別美味しくは感じず…
自分の腕に流れる果汁をあの時と同じように舐めてみても、結果は変わらず。
自分の行動に、首をひねるばかりだった。
しかし。
なまえを驚かせてしまった詫びにまた何か果物を贈ろう、と考えている時間は楽しい。
そう感じる自分がいることは、自覚したのだった――