クリス先生と出会ったのは、夏のはじめの頃。
私が海で溺れた子供を助けた時だった。
その時は、子供を助けることでいっぱいいっぱいで、お互い名乗りもせず、救助に関わる会話しかしなかったけど。
2回目の出会いは、後期の授業がはじまった頃。
友達に「うちの大学に、海についてとても熱く語る残念なイケメン助教がいる」と聞いて、興味本位で忍び込んだ、別の大学の授業で。
クリス先生が教室に入ってきた時に、どこかで見たことがあるような?と思ったけれど、顔が良く見えなくて、思い出せなかった。
授業を聞いていて…私は嫌いじゃないけれど、あんまり人に教えるの上手じゃない、のかな?なんて思ってしまった。
周りがうるさいのが何よりの証拠だ…舐められちゃってるのかな…
チャイムが鳴り、我先にと出ていってしまう生徒たちを寂しそうに見送っていたクリス先生。
なんだか少し可哀想で、じっと見ていると、そこで初めて「この間、子供を助けた時に居たイケメンだ」と気付いた。
しかし話しかけるにも、どう切り出せば…と悩んでいたら、その人とバチッと視線が合った。
すると先ほどまでとは打って変わって、その人の目が輝いていった。
「あなたは、あの時の人魚さんではないですか!!」
「こ、こんにちは」
そしてそこから、私の物語は動き出した――
◇◇◇
私は人魚の亜人だ。
陸上に居る間は、見た目は普通の人間だけど、水に濡れると、下半身が魚に、あと耳とか、肌の一部が変化する。
人間の足はあんまり強くなくて、走ったり、長時間立っていたりするのは苦手。
代わりに、泳ぎは大得意!
…クロールとか平泳ぎとか、定められた泳ぎ方は出来ないけれど。
デュラハンとかに比べると、人魚は、亜人としてはそこまで珍しくない方らしいけど…
クリス先生は初めて会ったらしく、とっても興奮して私に話しかけてきた。
「この大学の生徒だったのですね!私の授業では、初めてお見かけする気がしますが」
「えっと…ごめんなさい。私、この大学の生徒じゃないんです…海の面白い話が聞けるって友達に聞いて、入り込んじゃいました…」
素直に事情を話す。
…嘘はついてないよ、うん。
「そうだったのですね!私の海の話に興味を持っていただけるとは光栄です…!私は古論クリスと申します」
怒られなかった。よかった。
というか、むしろ嬉しそうだ。
「あ、私はみょうじなまえです。隣の大学に通ってます」
「みょうじさん、ですか。もしよろしければ、この後お時間おありでしょうか!」
…ストレートな人だなぁ。
この大学の助教、という点においては、素性はわかっているわけだけど…人となりはまだわからないし、何より私はこのあと必修の授業があるので、サボるわけにいかない。
あの先生、出席に厳しいんだもん。
「ご、ごめんなさい、私、この後、出なきゃいけない授業があって…」
「おや…そうなのですね」
しゅん、と一気にテンションが下がるクリス先生。
う、うーん。でもさすがに、また授業に潜り込みに来るのもどうかと思うし…
「それでしたら、お時間があるときにまた、授業に来ていただけますか?」
「え、いいんですか?」
「海の話を聞いて下さる方は、どなたでも大歓迎です!大学には私から言っておきますので、遠慮なくどうぞ」
わ、そんなことできちゃうんだ。
そういうことなら、堂々と来れるし、この人の事も知れるかも。
「ありがとうございます!じゃあまた来週来ます!」
「ええぜひ!お待ちしております!」
◇◇◇
その次の週から、私はクリス先生の授業に毎回出席するようになった。
許可をもらえたとは言え、この学校の生徒じゃないので、最初はさすがに端っこの方に座っていたけれど、真面目に聞いてる人が少なくて…気付けば前列に座るようになっていた。
そしてその頃には、私はクリス先生とお茶をするようになっていた。
授業でわからなかったことを、私はたくさん聞いてしまうのだけれど、先生は嫌な顔一つせず、答えてくれる。
大勢に対しての授業は苦手だけど、興味を持ってる人間の質問に答えるのは得意なようだった。
私は人魚だからか、海は大好きな場所だけど、魚の種類がどうとか、海流がどうとかの難しいことは気にしたことがなかったから、クリス先生の話が新鮮だった。
代わりに…なっているかはわからないけれど、私はクリス先生の人魚に対する疑問に答えていた。
クリス先生の疑問は、揶揄するようなものではなくて、純粋な知識欲から来る疑問だったので、気分を害することはなかった。
たぶん、もっと突っ込んだことを聞きたいんだろうな、と思うことは、あったけれど…
こう見えて、私も年頃の女の子ってやつだったりするので、クリス先生も気を遣ってくれたんだと思う。
◇◇◇
今日も、クリス先生と大学の近くの喫茶店でお茶をしていたんだけど…
店員さんがグラスを倒して、足に水がかかってしまった。
「わわっ!」
「も、申し訳ございません!!!」
「みょうじさん、大丈夫ですか!?」
「あ、大丈夫ですよ、グラスは割れてないし…水も、スマホとかにはかかってませんし」
顔面蒼白なドジっ子店員さんと、慌てるクリス先生。
ただの水だし、大したことないからいいんだけど…
あ、でもダメだ…足が変わってきちゃった。
「ごめんなさい、クリス先生、席外します!店員さん、トイレお借りします!」
「あ、みょうじさん!」
クリス先生に返事をしないまま、私はバッグを掴み、トイレに駆け込んで、急いで靴と靴下と…パンツを脱いだ。
…だって、人魚になっちゃうと、パンツが破れちゃうんだもん…
そんな不都合があるので、私はもっぱらスカート派だ。
靴とかを放り込むための袋も、常に持ち歩いてる。
あのくらいの濡れ具合なら、足が変わるだけでおさまるかな…
ドライヤーとか借りれると嬉しいんだけど、喫茶店にそんなもの置いてないかな。
30分くらいすれば、戻るとは思うけど…ここ、トイレ1つしかないんだよね。
他のお客さんに迷惑だな…どうしよ。
この状態で動くのは、ちょっと厳しいんだけど…
トイレの中で困っていると、スマホが鳴った。
画面を開くと、クリス先生からのメッセージだった。
『大丈夫ですか?』
『はい、足が変わっちゃっただけなので。すみません、お店の人にドライヤーがないか、聞いてもらっていいでしょうか』
『わかりました』
先生に迷惑をかけちゃうのは申し訳ないけど、誰かと一緒の時で助かった、と一息ついていると、すぐにメッセージが返ってきた。
『ドライヤーはないそうです』
あちゃー…やっぱりか。
『そうですか、わかりました。このままトイレ居ても大丈夫でしょうか…?』
『トイレは1つしかないので、休憩室に移動してほしいそうですが…出てこれますか?』
あう。ですよねー。
覚悟を決めて、バッグを持ち、人魚の尾で立ってぴょんぴょんと移動する。
あんまりこれ、人前でやりたくないんだけど、しょうがない…
そっと扉を開けると、心配そうな顔をしたクリス先生が居た。
「移動できますか?」
「な、なんとか…大変申し訳ないんですけど、バッグを持ってもらっていいでしょうか…」
「構いませんよ」
「ありがとうございます」
私が外に出ると、店員さんが私の下半身を見て、ぎょっとした顔をした。
…そりゃ、初めて見るだろうけど…こんなところでこうなっちゃったのは、あなたのせいなんですよーだ。
そんな様子に、周りのお客さんも奇異の目を向けてくる。
うーん、やっぱりこの視線に、慣れる日は来ないんだよね〜…
一緒にいるクリス先生にも、申し訳ない。
そう思っていると、何故かクリス先生が着ていた上着を脱いだ。
そして。
「……失礼、みょうじさん」
「え?…わ!!」
クリス先生は私を抱え上げ、私の足に上着をかけた。
いわゆる、お姫様抱っこ状態だ。
え、ちょ…えぇっ!?
「幸い、今日は車で来ています。お送りしますよ」
「えええ、そ、そんな、乾けば自分で帰れますし!ていうか重いですよね!?おろしてくださいー!!」
「重くなんてないですよ、遠慮なさらずに」
にっこりと笑ったクリス先生は、そう言うと私を抱えたままお代を払って、喫茶店を出た。
――ドキドキして、顔が熱い。
先生、華奢に見えるのに、私を抱えてこんなに歩けるんだな、とか。
私の足を見た店員さんやお客さんたちの反応に、静かに怒ってくれて、足を隠してお店を出てくれたんだな、とか。
申し訳ない気持ちと同じくらい、とっても嬉しくて…泣きそうで。
私の心はぎゅっと掴まれて、息をすることができなくなった。
おかしいな、水の中でも、陸の上でも、私は呼吸できるはずなのに――