▽暗い。 「桜ちゃんを、葵さんを助けたいんだ」 そう言っていたこの男の表情は、どんなものであっただろうか。決意に満ちた、強気な顔をしていただろうか。私には、どうにもその顔が、思い出せそうになかった。 この男の願いは、とても独善的で、独りよがりで、一方的だ。それもそうだろう。この男は、葵さんに、遠坂葵に恋をしている。寝ても覚めても止まぬ、恋をしている。所謂、百年の恋。恋は、いつだって一方的だ。自分の思いを吐き出すだけ吐き出して、相手の姿に憧れて、隣であるく自分の姿を夢想する。そういった、恋をしているのだ、この間桐雁夜という男は。 だけど、それは愛じゃない。間桐雁夜の想いは、あくまでも恋であって、愛じゃないのだ。思うに、愛は無垢だ。一方的に思いをぶつける恋でも、双方的に相手の幸せを思う思いやりでもない、無差別で、無償で、お返しなんて求めない、そういったものだ。だから、間桐雁夜のそれは、愛足り得ない。だって、彼は恋をしているのだから。 間桐桜を救おうともがく彼の根底には、成る程確かに、あの少女を助けたい、幸せにしたいという願いはあるのだろう。だけど、人間は欲深い生き物だ。だから、彼はそんなうつくしい願いの裏に醜い欲望を隠している。遠坂時臣を排除したい、遠坂葵と結ばれたい。そんな願いを、抱くことを、間違いだなんて言わないけれど、間桐桜を救いたい、遠坂葵や、遠坂凛に笑っていてほしいという願いを持っているくせに、彼女たちの大切な、伴侶であり父親である遠坂時臣を排除しようともがくこの男の矛盾が、いつか、この男が気づかないままに、牙を剥き、刺し殺してしまうのではないか、という予感が、私には恐ろしくて堪らないのだ。そんなことを、私の足元で蹲り、魔力回路が暴走し、苦しみに呻く間桐雁夜をみて思った。彼の右手に刻まれた令呪が赤く光る度に、苦しみが増すのか、胸をおさえ、終いには赤い血を吐いて、私の黒いヒールを汚す。バーサーカークラスのサーヴァントの魔力消費量は、彼の体内に潜む刻印蟲を総動員させてもまるで足りないことは火を見るよりも明らかであった。この男のもつ魔力量では、すべての魔術回路を無理矢理抉じ開けたところで、バーサーカーを満足に戦わせるにはまったく足りないだろう。間桐の当主も心底意地が悪い。苦しむことが解っていた筈なのに、彼にバーサーカーを宛がったのだから。間桐雁夜の実力では、狂化で底上げしたサーヴァントを以てしても、聖杯を獲得することなんて、それこそ夢みたいなお話だ。魔術師殺しに、時計塔の天才、宝石魔術を得意とする冬木の管理者、それに既に敗退してしまったらしいが、聖堂教会の代行者だった男と、敵は強者ばかりだ。そこに、たかだか数ヶ月、魔術を学んだだけのこの男が、どうやって勝利していくというのだ。不可能だ。バーサーカーを召喚したと下手くそな笑いを浮かべた男を見た瞬間に私はそれを悟った。初戦こそ、バーサーカーの宝具をフルに使い、ヤツに勝ったと大喜びな彼であったが、当然、回数が重なれば、魔力も枯渇していく。数日休んで回復した魔力程度、ひと度バーサーカーの霊体化を解き戦闘にうつれば、一瞬で干上がってしまう。持って、あと数回。きっと、もうすぐ、この男は死んでしまう。このまま、彼の恋も、願いも、憎しみも、何一つ叶えることのないまま、彼は息絶えてしまうのだろうか。それは、少しだけ、可哀想なことだと、そう思う。 「雁夜、起き上がれる?」 彼の頭上から、そう声を掛ければ、くぐもった声が返ってくるが、起き上がる気配はない。既に右手の赤は光を失っているけれど、その代償が消えることはない。何時ものように、地面に伏した間桐雁夜の横にしゃがみこんで、彼の右手を私の肩に掛けて、立ち上がらせる。成人男性とは思えない程に軽い彼の身体は、それが残りの彼の命の残量を示しているようで、嫌いだった。けれど、いつまでも、薄暗い路地裏に放って置くわけにはいかないので、引き摺るように彼を夜の街から連れ出した。昼間そんなことをしていれば、流石に目立つだろうけど、今は夜。傍目には、酔っぱらいを連れているようにしか見えないだろう。似たような人間は大勢いるし、何より朝になれば、夜の間に見た夢などきっとみんな忘れてしまうことだろう。 それから、大通りに出てタクシーを捕まえ、適当なホテルの部屋を取る。薄汚れた彼を簡素なベッドに押し込んで、私はようやくお役御免となった。生憎、魔術師でない私には、彼に治療を施してやることなんかできないし、してくれる人間も、彼の傍には誰もいない。せいぜい、口の端に残る血を拭ってやれるくらいだ。濡らしたハンカチでそれを拭いとって、それからベッドに沈む男の顔をみた。蒼白い顔は、安らかな表情をしていて、まるで本当に、死人みたいだ。寝息の音さえ微かで、上下する胸をみて、ようやく生きているのだと実感できる。 私が、こうして倒れたこの男を助けるのは、簡単には死なせてくれるなよ、と間桐の当主に頼まれたからだ。あの人は、きっと、この男が苦しんで、もがいて、傷ついて、そして、絶望に叫ぶ姿が見たいのだろう。だから、私に言ったのだ。私が、けしてこの男を見殺しになどしないと知っているから。 「ナマエ……」 「……起きたの、雁夜」 「……ここは」 「ホテル。……朝が来たらちゃんと起こすから、まだ寝てなよ。しんどいんでしょう、身体」 「……わるい……たすか、……る……」 掠れた声でそう言って、雁夜は今度こそ眠りについた。せめて、夢の中だけは、幸せであれば良いと思う。夢の世界の出来事が、この世界に何か影響を及ぼすことはない。夢の中なら、世界は自分の思うがままだ。 「……よいゆめを」 ポツリと呟いた言葉が、音もなく消えた。 ▽▽▽ 朝を告げるアラームが、頭上で響く。備え付けのデジタル時計は、7の字を示していた。昨夜も寝たのが遅かったからか、身体はまだまだ睡眠を欲しているようだ。ベッドに横になったまま、身体の向きを変えれば、昨日と変わらず、まるで死人みたいな間桐雁夜が眠っていた。きっと、彼は私が起こそうとするまではこのままなんだろう。彼の身体は、誰よりも休息を渇望している。しかし、いつまでもこのままというわけにはいかない。此処が自分の部屋ならば、いつまでも惰眠を貪ることも吝かではないけれど、あくまでも此処は一晩眠るためだけに借りたホテルなのだ。チェックアウトの時間は、何時だったろうか。いつにしたって、早いにこしたことはない。ベッドから身体を起こして洗面所に向かう。身だしなみを整えること数十分。それから、部屋を出て、ロビーにある自動販売機で缶コーヒーを一本、水を一本購入する。その内の缶コーヒーを、この場で開けて一気に飲み干してしまう。そうして、眠たい頭を醒まし、空腹に鳴く腹を騙す。この次に向かう場所は、もう決まっていた。 部屋に戻ると、変わらず、雁夜は眠っていた。デジタル時計は、8という数字を映す。起こすのも忍びないが、そうもいってはいられない。 「雁夜、朝だよ。起きて」 数回声を掛け、身体を揺すれば、思いの外あっさりと雁夜は目を覚ました。起き上がろうとするので、背中を支えてそれを手伝う。まだ身体は万全ではないことは、眉間に寄せられた皺の深さでわかった。水を手渡して、それを飲むように促す。冷たい水が心地よいのか、眉間の皺が少し弛緩した。 「タクシー呼ぶから。そろそろ出るよ」 「あ……、ナマエ」 先に部屋を出ていようと扉に向かっていたところを呼び止められる。振り返れば、ベッドに腰を下ろしたまま、雁夜がこちらに手を伸ばしているのが見えた。何事だ。立ち上がれない、とか歩けない、とかそういったことだろうか。「なに」と声をかける。雁夜は罰の悪そうな顔をした後、いつも悪い、とそれだけ口にした。何を今さら、と思った。感謝される程のことはしていないのだし、そんなことをいちいち気にする仲でもない。言葉にはしなかったが、きっと雁夜にもそれが伝わったのだろう。雁夜はそれでも不恰好に笑って、ありがとうと言葉を生み出した。何だか決まりが悪くなって、顔を背けて改めて扉に手をかけた。 「……先に外出てるから」 「ああ、わかったよ」 パタン。一人廊下に出て、壁に背をあずけ薄暗い電灯に照らされた先を見つめた。奥の方の蛍光灯は切れかかっているせいか、チカチカと点滅を繰り返しており、その先は暗い。まるで、雁夜が進むこれからの道のようだ。お先真っ暗。きっとこの先、雁夜が救われることはないのだろう。このままなら、雁夜は死ぬ。薄暗い世界で、誰の目に留まることなく、一人で、きっと。それは、悲しい。さみしいし、可哀想だ。彼の人生を、彼の選択を、彼の想いを、彼の過ちを、一人くらいは見ていて、知っていてあげていいんじゃないかと思う。だから、私は。 「ごめん、待たせたね」 「ーーいいよ。それじゃあ行こうか」 いつものように、雁夜に肩を貸す。もはや定位置となった雁夜の隣は、別段居心地の悪いものではない。だからこそ、この男の最後を、見届けてやろうと私は思うのだ。 title … 泣き虫 戻る |