時間は緩やかに過ぎて行く。風のない、静かな夜の帳に包まれた世界はまるで、光の指さない深海のよう。夜明けまでは、まだまだ時間はたっぷり残されている。 どういう訳か、今日は上手く眠れなかった。いつもなら、清潔なシーツに包まれて、目蓋を閉じれば、自ずと微睡みの世界へ簡単に行ってしまうのだけれども。ベッドの上で身体をゴロリと動かして、体勢を変えてはみても、一向に眠気が襲ってこない。何ともらしくない。平生であれば、廊下でいつの間にか眠りこけてマシュに叱られてしまうくらいには、睡眠は自分にとって容易な行為であるはずなのに。 その後もゴロゴロと転がっては、眠ろう、と意識してはみるものの、夢の世界に飛び立つ権利は得られそうにもない。ずっとこうしてベッドの上にいても仕方がない。眠れないのなら、何か別のことをしよう。もし、眠れなくて明日(正確には今日か)寝不足になっても、どうしようもないのだから仕方がない。起き上がり、部屋を出る。いつもの制服姿ではなく、寝間着ではあるけれど、こんな時間に起きている人も居ないだろうからさして問題はないだろう。オレンジ色の朧気な夜間照明に照らされた廊下からは、人の気配はこれっぽっちも感じられない。 私は極力物音を立てないよう、静かに壁を伝いながら厨房を目指す。渇いた喉を癒すには、冷たい水が最適だ。 ▽▽▽ カチャリ、食器のぶつかる音。厨房から漏れる柔い光。驚いた。私以外に、まだ起きてる人がいたなんて。静かに扉から奥を覗けば、食器棚の前に立つ人影が。青いドレスに、揺らめく金髪。マントも王冠も白銀の甲冑も、きちっと結い上げたシニヨンもないけれど、後ろ姿からも伝わるその気品。そこにいたのは、かの騎士王であった。 「アルトリア?」 囁くような声量で、彼女の名前を呼ぶ。それでも彼女には、しっかりと届いたらしい。こちらを見て、目を丸くして私を呼ぶ彼女の手には白いカップ。どうやら、彼女がこんな時間にここにいる理由は、私と一緒らしい。 「アルトリアも何か飲みに来たの?」 「ええ。も、ということはマスターも?」 「うん。なんだか眠れなくてね」 そう言って、彼女の横を通りすぎて冷蔵庫の前に立つ。水だけ飲んで戻ろうと思っていたけれど、彼女もいるならば、せっかくなのだから何か淹れようか。紅茶や珈琲は、ダメだろう。深夜のカフェイン摂取は望ましくない。すると、選択肢は自ずと絞られる。ミルクの入った紙パックを取り出して、きれいに洗われた鍋に移し、コンロに設置する。それから、不思議そうにこちらに目を向けていた彼女に向き合って、お茶に誘う。 「はい、喜んで」 その返事と共に、コンロのスイッチを入れた。ふつふつと温まっていくミルクのふんわりとした香りが、部屋にじわじわと広がっていく。アルトリアは、既に厨房にあるテーブルについていて、私の姿を楽しそうに見つめていた。 熱すぎず、かといって温すぎず。ほどよく熱されたミルクをカップにそそいで、はちみつをスプーン一杯分加えれば、ホットミルクの完成だ。眠れない夜には、ぴったりの品だろう。完成したミルクを彼女に差し出して、自分も彼女に向かい合うように席についた。そうしてから、甘いミルクをゆっくりと嚥下する。じんわりと、液体の過ぎ去った場所から、その熱が移っていった。 「とても美味しいです、マスター」 「ほんと? よかった」 ゆるゆると表情を柔らかくする彼女を見て、安堵する。普段はきりっと、真面目な表情をすることの多い彼女ではあるが、こうして何かを食べたり飲んだりするときは、とても優しい顔をする。私はそんな彼女の表情が好きだった。 サーヴァントはその性質上、マスターからの魔力供給さえ正常に行われれば、飲食の類いは必要としない。けれど、必要としないからといって、それが不要であるかといえば、それは違うのだろう。彼女の様子からも、それは明らかなことだった。 「マスターは料理が上手なのですね」 「ええ、それはどうかな……。それにこんなのは料理のうちに入らないよ」 「そんなことはありません。このミルクは、温かくて、それにとても優しい味がします。温めただけでこんなに美味しいのですから、マスターは料理が上手に決まっています」 そんな風に、妙に自信満々にいうものだから、なんだかおかしくて笑ってしまう。なんであれ、自分の作ったものを美味しい、といってもらえるのはとても嬉しいものだ。 「じゃあ今度、何か作ったらアルトリアに食べてもらおうかな」 「それは楽しみです! ぜひ、ご賞味に預からせてください」 今にも身を乗り出してしまいそうなほど、勢いよく返事をしてくれた彼女に、何か食べてみたいものはある?と問いかける。 眠れない夜も、こうして彼女と過ごせるのなら、悪くないものだ。 戻る |