━━ミノタウロス。
 『ミノス王の牛』という意味が込められたその呼び名は、脱出不可能の迷宮にひそみ、生贄として捧げられた子供たちを喰らう異形に対し、人々が名付けた。いずれ英雄に倒されることが運命付けられた怪物の名。
 ━━アステリオス。
 『星』、『雷光』を意味するその名は、彼の義父ミノス王の気紛れによって、人間の躯に牛の頭を持つその子に与えられた。怪物の名で呼ばれる彼の本当の名前。
 生前、彼をその名で呼んでくれるものはいなかった。彼を産んだ母親は、その出産に耐えきれず落命し、その名を付けた義父は、彼をダイタロスに作らせた迷宮へと閉じ込めた。暗い暗い、迷宮の奥底、アステリオスは一人、そこにいた。生贄として捧げられた子供たちを、義父の命でたくさんころした。おまえは怪物なのだからと。それは間違いなく、怪物としての役割を与えられた彼の悪行。たとえ悪をなす怪物の心が悪でなかったのだとしても、悪行をなした怪物は、正義であり善である英雄によって倒されなければならない。それが、その怪物の物語であった。一人の英雄に倒されることで、彼の物語は終わる。生まれながらの怪物は、怪物のまま、正義によって断罪された。
 しかして、そんな怪物にも、大切な者たちができた。怪物ミノタウロスではなく、雷光アステリオスと呼んでくれる人たちが。青い海を、共に航った仲間たち。自分の肩に座って楽しそうに歌ううつくしい少女。そして、自分の名を呼び、契約を交わしたマスター。
 アステリオスは考える。自分に与えられた小さな部屋の中で。大好きな人たちに、自分は何をしてあげられるのだろうかと。いつだって、彼らは自分に幸せを与えてくれる。暖かな陽の下に、自分を連れていってくれる。だからこそ、アステリオスは彼らに何かを返してあげたかった。何をすれば、喜んでもらえるだろうか。今まで一度も、そんな事を考えたことが無かったので、中々いい考えは浮かばない。アステリオスは、自分にできることを考える。アステリオスが持っているのは、生まれつき大きなこの躯だけだ。この躯を使って、これまでも沢山の敵を倒してきた。彼の怪力から降り下ろされる2本の斧の威力は、何をも砕く力がある。ならば、この力を生かして、もっともっと戦うのはどうだろうか。アステリオスはそこまで思い付いて、勢いよく立ち上がるが、しかし直ぐにまた床に座り込んでしまう。この間、はりきって戦闘に臨んだ結果、怪我を負って、エウリュアレにしこたま怒られたこと、ナマエをひどく心配させたことを思い出したからだ。あの時のエウリュアレは、顔を真っ赤にして、整った眉を吊り上げて、いまにも泣き出しそうなのを必死に堪えた顔をしていたし、ナマエも自分の方が痛くて堪らないといったような顔をしていた。アステリオスには、二人がそんな顔をする意味がよくわからなかった。けれど、二人のそんな顔は、みたくないな、とも思った。二人にはいつだって、花が咲いたように笑っていてほしい、そう思うのだ。


▽▽▽


 ナマエは、今朝のミーティングを終え自分の部屋に向かうため廊下を歩いていた。次の特異点へのレイシフトには、まだまだ時間を要するとのことで、今日は特にすることもない。少しでも、役に立てるよう、魔術の勉強にでも精をだそうか。それとも、マシュを誘って、お茶をするのもいいかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、前方に、白くて大きなものを見つけた。それはナマエの部屋の前で壁に背を預けて座り込んでいる。

「アステリオス?」

 何か用事だろうかと、ナマエがその名を呼べば、白いしっぽみたいなその髪をぴょこぴょこさせて、アステリオスが近づいてくる。大きな体躯に似合わないその仕草が、小動物を連想させて、たまらなく愛らしい。天井にも届きそうなその巨体を見上げて、ナマエは微笑みかけた。

「ます、たぁ」

 アステリオスのたどたどしい言葉が耳に届く。バーサーカーのクラス故か、はたまた生前の影響か、アステリオスは他の者たちのような饒舌な舌を持ち合わせてはいなかった。舌足らずな彼の言葉はゆっくりで、直情的だ。ナマエはそんなアステリオスの言葉を聞くのが好きだった。彼の言葉には嘘がない。本当のことしか紡がないその口は、純粋な彼の性質をそのまま写し取っていた。

「どうしたの、アステリオス?」ナマエが問いかける。
 しかし、珍しいことに、アステリオスは直ぐに返事を返すことをしなかった。ちょっとだけ、困った風に黒い目を伏せるアステリオスをナマエはますます不思議に思って首を捻る。もしかして、何か悪いことが起きたのだろうか。それが、いつも一緒にいるエウリュアレと喧嘩した、といったような可愛らしい悩み事なら、何も問題はない。もしそうなら、ナマエは喜んで、仲直りのお手伝いをするだろう。しかし、どうにもそうではないらしいことはナマエにも分かっていた。

「アステリオス」再度、ナマエが呼び掛ける。
「ますたー」アステリオスが顔をあげた。

 ゆっくり、おずおずと差し出された右手。その大きな手のひらには、小さな小さな白い花が握られていた。名前も知らない小さな花がゆらりとその頭を揺らす。

「ますたー、ぼく、いつもなまえよんでくれてなでてくれる。うれしくてしあわせ、だから。だから……、ますたーに、そのおれいしたかった」

 ナマエは、照れた顔のアステリオスと白い花を交互に見つめた。いつの間に、花を摘んできたのだろうか。カルデアに、人工的に育てられた観葉植物はあれど、アステリオスの手にあるような野に咲く可憐な花はない。おそらくは、レイシフトした先で、探してきたのだろう。広い丘の上で、大きなその身体を丸めて小さな花を摘む様子を思い浮かべた。目蓋が熱い。アステリオスが、自分の意思で花を贈りたいと、感謝を伝えたいと思ってくれた事実に胸が熱くなる。ナマエは堪らず、顔を下げて足元を見つめた。

「ますたー!? なくのはだめ。うれしく……
なかった?」

 重力に従ってこぼれ落ちた雫をみて、アステリオスは慌てた。それは悲しいときに流れるものだとアステリオスは認識していたからだ。

「違うの、違うのよアステリオス。うれしくても涙が出ちゃうこともあるの」

 ナマエは顔を上げて、アステリオスを安心させるために、笑顔でそう答えた。泣き笑い。初めてみるナマエのその表情は、前に見た心配そうな顔より、ずっとずっと好きだ。たくさん、たくさん、考えた甲斐があったとアステリオスは思う。ナマエの喜んだ顔をみると、自分の心もぽわぽわと暖かくなるのだ。

「とてもかわいいお花ね。ありがとう、アステリオス。とっても嬉しい」

 アステリオスの手から花を受け取る。小さな白い花は、ナマエの手のひらにはちょうどいい。大切にしよう。枯れて消えてしまわぬように、押し花を作ろう。アステリオスと、それからエウリュアレも誘って。きっとその時間は、この花と同じくらいに大切な、宝物みたいな時間になると、ナマエは思うのだった。




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