目を開けば、どこまでも遠く、果てのない世界。ひゅうひゅうと立ち込める風に、薄くかかった靄。足下には、名前も知らない小さな花々が、風に浚われ揺れている。
 此処は、夢だ。私は夢の中にいるのだと、漠然とそう思った。特別理由はない。ただ、以前、おなじものを見た気がした。
「あら、マスター。また、ここに迷いこんでしまったの?」
 靄は形をなし、たおやかな女性を形作る。豪奢な内掛けをまとった貴人。上品に微笑むその人は、優雅という言葉が相応しい。棚引く髪の艶やかさは、少し離れたこの位置からでもよく分かった。
「貴方の夢の中に入り込みたいとは思っていたけど、まさか貴方の方から私の中に入ってくるなんて。本当に、予想のつかない人。でも、夜はいつも一人だったから、貴方がきてくれて嬉しいわ」
 うつくしい人は、白い世界をゆっくりとこちらにむかって歩んでくる。私はその場から微塵も動かず、ただその訪れを待つ。動けない。そもそも動く気がない。こんなうつくしい人から逃げ出すなど、する訳がなかった。
「でも、いけない人。もう、此処に来てはいけないと言ったのに」
 ゆっくりと、近づいてきたその人と視線をあわせる。透き通った青い瞳に映るのは、呆けた顔をした私だ。頬に伸ばされた白魚の手を瞼を閉じて甘受する。冷たい手だ。冷静さを取り戻すには、十分だった。瞼を押し上げる。すると、彼女のうつくしい花瞼が視界に入り込む。震える睫毛は、何を思っているのだろうか。
「……私も、びっくりした。まさか、また此処に来れるとは思ってなかったから」
「屹度、私と繋がっているせいね。無意識に、貴方を呼んでしまっていたみたい。ごめんなさいね、マスター」
「ううん、気にしないで。大したことじゃないよ」
 はじめのうちは、自分が何者なのかさえはっきりしなかったけれど、彼女が現れてからはそれも明瞭になった。私はマスターで、彼女は私のサーヴァント。それが分かっているから、大丈夫だ。私は私を見失わない。それに、此処は静かで穏やかだ。危険は何もないし、彼女が傍にいてくれるなら、たとえ危険な場所だったとしても安心できる。
 花で覆われた地面に座り込んで、朝焼けの空を見上げた。まだしばらく、この夢は覚めないだろう。自分の横を叩いて、未だ立ったままの彼女に座るように促すと、きょとんとした顔をした後、困ったような、それでいて少し嬉しそうな、不思議な笑顔を溢した。
「もう、仕方のない人。本当は、貴方のような名前のある人が此処にいるのは危ないの。でも、駄目ね。だって、一人は寂しいもの。貴方が此処に来ることの危険性を、ちゃんと分かっているのに、貴方が此処に居てくれることが、私はたまらなく嬉しいのよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。貴女が隣にいてくれるから、私は大丈夫。それに、私だって嬉しい。夢の中でも、こうして一緒にいられるんだね」
 いつだって、私たちの間に流れる空気は穏やかだ。まるで、朝凪のよう。この静かな場所で、彼女と過ごすこの時間も、現実で過ごした時間も、どちらも私にとっては尊いもの。緩やかなしあわせが、いつまでも続けば良いのだと、心の底からそう思う。境界は曖昧なまま、いつかきっと溶け合ってしまうのだとしても。
「……ずるい人。これ以上、好きにさせて、どうしようというのかしら。いいわ、言って。貴方の願いはなに?」
 その声色は、どこまでも柔らかく。差し伸べられた右手は、どこまでも白くたおやかで。いとおしさを微塵も隠すことなく、込められた願いは、永遠を謳う。━━それが、願ってはいけないことなのだとしても、私も彼女も、止めることなど、できはしない。
 これは、夢だ。泡沫のような夢。名残の花を惜しむように、刻は進まない。けれど、目覚めはもうすぐ其処に。
「━━夜が明けるわ。とても残念だけど、夢は此処でお仕舞いね」
 少しだけ、残念そうな顔をして、彼女は私を出口夢の終わりへと誘う。一時の逢瀬。次に会うのは、きっといつも通りの風景の中だ。またすぐに会える。これは終末などでは、ないのだから。



title …… へそ


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