刀禁止の命は解けたからと、朝から素振りをしたり体力づくりに走ったりした後、共用の台所を使い朝食を作った。材料は走り込みをしていた際見つけた小さな八百屋と魚屋で買った。老夫婦に朝から精が出るねと褒められて、私としては当たり前の事でも嬉しさを感じながら、出来上がったご飯を前に手を合わせた。
 ご飯に味噌汁に、焼き鮭。簡易ながら満足いく朝食だ。食べきって、食後に温かいお茶を飲む。
 すると共用の居間の扉が勢いよく空いた。

「ねぇなんかいい匂いすんだけど夏油ー……って。禪院さんじゃん」

 ぽかんとした顔の家入さんと目が合う。
 お茶を飲み込む途中だったため軽く手を振れば、彼女ははっとして駆け寄って来た。
 一体どこに、とか、働きすぎとか、心配したという旨のことを伝えられて、複雑な気持ちになりながら微笑む。
 そうしてしばらく家入さんと話していると、再び扉が開いた。人影は二つだ。

「……げ」
「悟」

 五条悟は私と目が合うと、途端に顔を顰める。
 たしなめるような夏油さんの声に、彼は肩をすくめて私から離れた場所にどかりと座った。

「私、もう行きますね」

 五条と禪院は仲が悪い。私がいては彼も居心地が悪かろう。
 盆を持って立ち上がる。台所でこの食器を洗ったら、少しだけ本の続きを読んで鍛錬に出よう。頭でこの後の予定を立てる。
 特に呼び止められはしなかったけれど、背中から「昨日伝えたけど、良ければ禪院さんも今日の合同任務一緒に行こう」と声をかけられて、そんな予定も即座に組み直すことになったのだった。


■


 あの後部屋で本を読んでいれば、控えめなノックとともに家入さんが私の部屋を訪ねて来た。やはり昨日話題に上がった、1年生4人で校外学習がてら任務に向かう話だった。

 目上の夜蛾先生からもらった話を無視するわけにもいかず。
 彼女と二人で校舎を出れば、大きめの車両が止まっていて、既に到着していた夜蛾先生と残りの1年二人と共にその車両に乗り込んだ。

 走り出した車内は意外にも賑やかだった。いつのまにか五条悟と夏油さんが親しくなっていることに意外性を感じた。
 特別興味を引かれるというほどでもないが、彼らの声を聞きながら窓の外をぼんやり眺めていた。五条悟ともあろう人間が、一般家庭の少年と呪術に何の関係もない話をしていることが私に不思議な感覚を抱かせた。

「……あ」

 その時気づく。
 特級術師という地位に興味はないが、特級術師は特級呪霊の任務が回されるのか。

 ――じゃあ私も特級になればいいのでは?

 2級から階級を上げるには、1級以上の術師の推薦が必要だ。そこは夜蛾先生に推薦してもらえばいい。1級以上の術師の知り合いで、私のことを目の敵にしていないのはあの先生くらいなので。
 推薦者は二人必要だが、とりあえず夜蛾先生が私の今の階級は不適切であると理解すれば、もう一人くらい用意してくれるだろう。昨日の悲痛な声と顔を何となく思い出していた。

 階級を上げれば、私のことを嫌いな禪院家を中心とした上層部からの嫌がらせの任務だけでなく、単純に階級の高い人間を求めた階級に適正な任務が回ってくるはずである。良いこと尽くめだ。

 そう考えつき、早急に自分にある程度の呪霊なら難なく対応できると示す必要がある。
 私は密かに決意を固めた。


「ここだ」

 まず車が停止したのは、周囲に植えられた高い木で光も人の目も遮られている質素な公園だった。夜蛾先生と1年生3人が順に車ら降りる。しかし普通の公園と違うのは、公園の周りにぐるりと立ち入り禁止のテープが張られている点だ。
 人気のない公園。
 その奥まったところにある、コンクリートでできた小さな公衆便所には、過剰とも思えるほど立ち入り禁止のテープが幾重にも張り巡らされていた。

「おそらく2級呪霊だから、禪院中心に、できれば夏油と祓うように」

 夜蛾先生の話によれば、ここの女子用の厠を起点として呪霊が発生したらしく、今や建物全体に呪いが染みついている。なるほど女子の標識がついた入口の奥に大きな呪力を感じるが、今や建物全体に呪の気配が色濃い。
 この状態になってしまえば、もう取り壊すしかないだろうなと経験則から判断した。

「建物は壊しても?」
「ああ。元々取り壊しの予定だからある程度の被害は気にしなくていい」
「分かりました」

 手っ取り早く夜蛾先生に実力を示すために用意されたかのような任務だな。
 幸運だ。そう思った。

「夏油さん。私が倒すので下がっててもらって大丈夫ですよ」
「え? でも……」

 無言で一歩進み出る。その場で刀を構えれば、夏油さんが躊躇うように足を止める。

 ――あれをやるか。
 いつもなら、呪霊の強さの面でも鍛錬にならないという面でも、不必要と判断して使わなかったやり方を。

 構えの姿勢をとりながら、刀身に呪力を均等に込めていく。いつもは肉体自体の鍛錬のために呪力をそこまで活用しないようにしているから、久方ぶりの感覚だった。
 意識するのは呪力の量と練度だ。刀に傷をつけないよう、力が妨げられることなく伝わるよう、密度の高い呪力を。澄み切った呪力を。

 一太刀。

 研ぎ澄ました刃は岩をも断つ。

「え?」
「ハ?」

 建物ごと、呪霊を両断した。

「……」
「……」
「終わりました」

 癖で血振りをした後、鞘へ納刀する。
 内部にいる呪霊の気配の関係で斜めに刃を入れたから、上部の建物が重力に従って滑り、崩れ落ちた。辺りに大きな音が響く。

「このくらいのことはできるので、2級以上の任務でも問題ありません」

 振り返れば、夜蛾先生や夏油さんは私の切った建物から目を離さない。

「基本的に破れないのは五条様の無下限くらいだと、」

 その時私が彼を引き合いに出したのは、単純に呪術界で最も破れないその術式以外は、大抵対応できると伝えたかったからだ。

 自然と五条悟の方に顔を向けながら言う。夜蛾先生や夏油さんと違って、彼はこちらを見ていた。
 眼が合う。
 視線が交差するのは、私の入学初日のあの日ぶりだった。

「…………えっ?」

 ――何でそんなに頬を染めているんだ、五条悟は。


呪霊に断末魔すらあげる時間を与えず祓ったから、私が斬った公衆便所の崩れた瓦礫が立てる微かな音だけが辺りに響いていた。
 私が五条悟と目を合わせ、数秒。
 その瞬間唐突に、前の人生の記憶との既視感を覚える。小説の同じ行を読んだような既視感だ。文化や文明の差異に新鮮味を覚えることはあっても、大正時代にも同じことがあったな、という感情を抱く機会はそう多くない。しかもその相手が五条悟だとは、誰が予想できただろうか。
 意外性に動きを止めてしまったのが良くなかった。私の視線を辿って他の3名も彼の顔を見る。

「え?」

 声が揃った。当然だ。“あの”、五条悟が。

 前世において。例えば一般人、もしくは下級隊士の前で鬼の首を斬った時、同じような反応をされたことは何度かあったように記憶している。しかし私は任務で一か所に留まることはなかったから、縁が続くはずもない。尤も、どちらにせよ私は続くことを受け入れなかっただろうが。
 そしてそれは大抵の場合、私が相手を鬼から守るような形になった後起こることだった。生命の危機に対する恐怖とそこから救われた安堵で、恩と憧れを混同するのも無理はない。
 けれど今は。五条悟は二級呪霊程度、造作もなく祓えるはずだ。

 ならば一時の迷いか。あるいは“禪院の欠陥品”が予想外の動きをしたことに対する驚きか。即座に曖昧な結論で思考を切り上げ、そんな面倒なことに付き合っている暇はないと頭を切り替える。
 特に被害を受けることもなく任務が完了した以上、とっとと次の任務に向かいたいというのが紛れもない本音だ。

「えっ、さと、悟……?」
「ご体調が優れませんか?」

 戸惑いを含む夏油さんの声に重ねるように言った。面倒な方向に話が進む前に、その流れごと立ち切るために。
 沈黙が落ちる。

 羞恥なのか屈辱なのか。五条悟はぐっと堪えるように唇を引き結ぶ。透けるような白い肌に赤みは差したままだ。一方で他の三名は、信じられないものを見たような表情だった。特に夏油さんのぽかんとした顔は意外だった。
 この静寂に導かれたのか、かつて「対話を拒絶しないでください」と正面から不躾にぶつかってきた、無垢な瞳を思い出す。何もかも異なる今世では、もう不必要な記憶だと思った。

「具合が優れないようでしたら、後の任務は私が引き受けますのでお休みになってください」
「……別に、問題ねぇわ」

 あぁそう。

「それは安心致しました。では夜蛾先生、次の任務の御指示を」
「いや待て」
「ほんと待ってどれに驚けばいいか分かんないから一個ずつにして。というか五条のそれ……」

 固まったままの五条悟と夏油さんを置いて、夜蛾先生と家入さんが言った。“五条のそれ”は触れなくていいよ、と凪いだ心で思う。

「何か問題ありましたか? ああ、夏油さんと、とのご指示を守れず申し訳ありません」

 一人で十分だったもので。
 そう言えば夜蛾先生が、気分を入れ替えるような溜息を吐いた後、話に取り残された五条・夏油の両名をそのままに一歩前へ出る。

「……禪院。次の任務に行く前に、いくつか聞くことがある」
「何でしょう」
「そうだな、とりあえず、今お前は何をしたんだ? 斬撃を……飛ばしたように見えたが」
「ええ。抜刀と呪力強化を使った技術です」
「術式は持っていないんだよな? 今のがただの、技術だと?」
「はい」

 私に術式はない。これは確定事項だ。家の方たち、特に両親が、血眼になって幼少期から私を呪霊と対峙させるなどの実験を行って確かめたことだからまず間違いない。
 術式が発現するといわれている幼少期から、更に期間を伸ばして10歳くらいまで。諦め悪く繰り返されたあの実験は、結局私の体を鍛えてくれた以外の成果を生み出さなかった。両親としては無念だったのだろう。私としては勝手に様々な呪霊を、私のために用意してもらえた期間だったから大変充実していたのだが。

 今コンクリートの建物を斬ったのは、鬼殺隊で培った呼吸法や剣術と、私の持つ豊富な呪力の放出を掛け合わせた、単なる技術の範疇を出ない動きである。
 私の返事に夜蛾先生は目頭を押さえた。

「……その“技術”はどうやって学んだ?」
「独学です。禪院家の誰か、等ではありません」

 “今の”禪院家に上手く刀を扱う人間はいませんし。そう続ける。家の関係者はこの場にいないし問題ないだろう。
 一応、禪院家が過大評価されて実力以上の期待や任務が行かないように、という私の優しさである。

 術式を持たないことが判明するまで、呪力の多さを理由に私はかなりの期待をかけられていた。「“あれ”が何も持たなかった分、妹こそは」が父親の口癖だった。人より多い呪力に見合った貴重な術式を期待されていた。が、その実、禪院家の中核に割り込めるような呪術界的価値のあるものは何一つ持っていなかったのだから笑える話だ。
 そう判明した後両親は、ひとしきり取り乱した後、しばらく経てば私に違う利用価値を見出すことにしたらしい。いや、切り替えたというべきか。いずれにせよ、術式が発覚する平均的な年齢を過ぎても音沙汰のない私へ、募る苛立ちはしかし、その矛先全てが私に向いたわけではなかった。むしろ、それを受けたのは“あの人”だった。彼が家を去る時までずっとそうだった。

 呪力すら持たない猿同然の“あれ”よりはマシか。女だし利用価値はある。
 そう話す家の人間に、“あの人”――兄は、昏い瞳でただ黙っていたように思う。

 呪力も術式も、持っていようが持っていまいが関係ないだろう。戦いに勝った方が強い。それだけが全てだというのに。
 そんなようなことを、まだ滑舌の柔い上手く回らない口で伝えた時、兄は「武士かお前は」と珍しく笑っていた。あの人の笑った顔は、それ以外あまり記憶にない。

 初めて持つ兄という存在と、打ち解けたかと聞かれれば是とは言えない。例えばかつて見た、命をかけて寄り添い合うあの兄妹とはほど遠い。そもそも兄本人も、私に大した思い入れはなかっただろう。

 けれど、研ぎ澄まされた刃の如く圧倒的な佇まいを、私はただうつくしいと思ったのだ。

 その兄が家から出て行った時。引き留める人間が誰もいなかった時、彼の出奔をせせら笑う人間しかいなかった時。元々ほとんどないに等しかった禪院家への期待や信頼や忠誠は、余すことなくどこかに消えてしまった。
――だから、当主の息子を殴ることにも躊躇いがなかったのかもしれない。


「今まで受けてきたという2級以上の任務は、今の方法で切り抜けて来たんだな」
「いえ、そこまで強い呪霊に出会うことは少ないため、今のはほとんど使っていません。1級程度であれば特別なことはせず祓えます」
「何でそれで2級なんだ…………」
「術式を持たない女だからでしょうか。呪術界の伝統的な姿勢ですね」

 微かに笑えば、夜蛾先生は諦めを含ませた溜息を吐いて肩を下げた。
 担任として受け持つ生徒の半分が御三家の人間であるだけでも十分だろうに、うち一人は呪術界随一の才能の塊、もう一人は落伍者予備軍ときた。自分が原因を作っていることを自覚しながらも、夜蛾先生の苦労がしのばれて同情した。

「禪院に十分な実力があるのは分かった。とはいえ等級以上の任務を受けることは看過できない。俺の方で昇級の推薦ができるよう動くから、それまでは我慢してくれ」
「夜蛾先生が禪院家からの任務に介入できるのですか?」
「……なんとかする。禪院は高専東京校の生徒だ。それにクラスメイトとの訓練も役に立つ」
「そうでしょうか。実戦に出た方が実力がつくのでは? 世間のためにもなりますし」
「実力が保証されてから実戦に出るべきだ、何をそんなに焦っているんだ」
「……」

 焦っている。焦っている、か。
 ぱちりとゆっくり瞬きをひとつ。
 目を逸らそうとしていたはずの虚をつかれた心地がした。

 私は焦っているのだろうか。
 確かにそうかもしれないと、腰に下げた他人のような刀の重みを感じながら思う。
 何に対して? 簡単だ。

 この齢になっても大して実戦にも出ることが叶わず、慣れ親しんでいたはずの型を使わなければ勝てないほどの相手に出会うことも少なければ、己の戦い方に適した刀さえもう入手できそうにない。そんな私に価値などあるだろうか。

――十六、十六歳だ。

 かつての人生で十六歳といえば、師範が死んで空席となっていた炎柱に、私が就任した頃だった。


公園での任務後、5人で都内を周り、軽い任務をいくつかこなした。5人でとはいいつつも、家入さんは戦闘要員ではないし、五条悟は2級呪霊程度にわざわざ手を出すのはプライドが許さないのか黙っているし、実質私と夏油さんの二人で呪霊を処理していった。
 夏油さんの術式は「呪霊操術」とだけ昨日聞いていた。取り込んだ呪霊を自分の支配下におき思いのままに操作できるというものらしいと今日知る。だからある程度まで呪霊を弱らせた後、彼が術式を発動。泥を煮詰めたような玉状の物質に呪霊を変え、それを飲み込み呪霊を手に入れる。この流れを作業のように幾度か繰り返した。

 夜蛾先生に「この後は二人で協力して祓うように」と言われたため一緒に呪霊と対峙したが、一度動きを見ればやはり夏油さんの身体能力は2級程度難なく祓えることが分かった。協力する必要があったかどうかは甚だ疑問である。

 夕刻、帰路についた車内。補助監督の方が運転を、助手席には夜蛾先生。2列目の座席に私と家入さん、最後列には夏油さんと五条悟が座った。車が到着していの一番に五条悟がズカズカと乗り込んだので自然とこういう席順だ。

 行きの車内と異なり五条悟は黙り込んでいる。
 だからだろうか、夏油さんに任務中の動きについて確認やアドバイスを求められ、ぽつりぽつりと会話が続いた。

「呪力による身体強化がまだ慣れなくてね。呪力を使うと疲れやすいから、もっと体力をつけなきゃとは思ってるんだけど。何かコツとかあるかい?」
「続けることでしょうか。夏油さんは呪霊と対峙した時だけ身体強化を行っているようなので、とりあえずは24時間、寝ている間もそれを続けるようにしていけば、基礎体力も呪力量も上がるかと」
「……あー、うん。なるほどね……」

 そんな話をしながら、後ろの列から少し乗り出すようにして私に視線を合わせ話す夏油さん。その顔を見て、視界の端に五条悟が見えて、そして今日一日のことを思い出して。気になることが2つ浮かぶ。

 それは今朝顔を合わせた時に目についた、夏油さんの口元や頬の傷だ。今日くらいの任務では特に怪我をしなかったのに。
 夏油さんは3級術師であるにもかかわらず2級程度祓える実力がある。とはいえ3級だから単独任務に行くこともない。仮に上級の術師の付き添いだとしても、あまりに等級の高い任務に赴くことは夜蛾先生の優しい性格からしてないような気がしていたのに。読み違えたのか。それだけの傷があるのはどうも気になる。

 それから五条悟だ。
 公園で目が合った“あの時”、私は今日初めて彼の顔の情報を脳内に入れた。その時になってようやくというべきか、五条悟の唇の端にも、少し切ったような赤い傷跡が残っていることを認識していた。あの時はそれを上回る別の驚きがあったため思考を割く優先順位が低かったが。

 今日の任務の行きの車内で、入学初日より打ち解けた様子だったこの二人が、同じように怪我をしている。即ち、二人で同じ任務に行ったのではないか? しかもおそらく、彼ら二人が怪我を負うような、等級の高い任務だ。

 私が言いたいことはつまり。
 3級の夏油さんが特級の五条悟の任務についていくことを、夜蛾先生が許したのであれば、それは等級の高い任務を求める私にとって付け入る隙なのではないだろうか。
 夏油さんに許したのなら、私だって2級よりちょっと強い程度の呪霊討伐に行ったって良いでしょう?


「夏油さん、その顔の傷はどちらで? あなたが怪我をするような任務を?」

 そう聞けば、彼はバツの悪そうな顔をして目をそらした。
 予想外の反応だ。首をかしげれば、私の隣で家入さんがふは、と吹き出す。

「この前殴り合いの喧嘩してたんだよ、こいつら。その時の傷」
「……え」

 単純に予想外で、驚きを禁じ得ない。
 殴り合いの喧嘩を、五条悟と。それはなんとも、呪術界に浸かり切った人間が聞いたら卒倒しそうなような大事だ。例えば私の従兄弟と五条悟では、同じように殴ろうとしても難易度が違う。なんせ無下限術式の使い手だ。

 そして思いつきの、“夜蛾先生の揚げ足を取って任務に行こう”作戦は儚く散ったことを悟る。まあそれはいい。多少遠回りだが、特級になればいいだけの話である。

「それは、何か原因が?」
「なんか価値観が合わないとか何とか? 普通に常識ない五条と呪術界の常識が気に食わない夏油って感じ」
「……どうやっても解決しない問題では?」
「や。意外と意気投合したらしい。殴り合いして仲良くなるとか、少年漫画かってーの」
「えーと、……仲良くなったなら、何よりですね?」
「あ、少年漫画とか読んだことなさそう」

 今度貸すよ。悪戯に言う家入さんに、流されるままお礼を返す。

「怪我はそのままで?」
「いやまあ、反転使えば治せるけどさ。勝手に喧嘩で作った傷は勝手に治せよって感じじゃない?」
「確かに」

 ちらりと再び夏油さんを見れば、照れたようにはにかんでいた。「十代なら年相応に喧嘩でもしろよ」という昔の私に投げられた言葉が、耳の奥で鳴る。

 ――これが今世の十六歳か。時代は変わったなとぼんやり思う。
 会話は聞こえているだろうに、夏油さんの横で不貞腐れたように黙ったままの五条悟を見て、ああ、五条悟も“学生”を謳歌しているのだなと悟った。それが可能な世の中なのだなと知った。


■


「おい」

 高専に到着し、各々部屋に戻ろうかという男女の寮の分岐点で、五条悟に呼び止められる。その表情からは、車内にいた時の不機嫌さもなければ感情を読み取ることもできない。

「……はい? 何でしょう」
「お前、禪院当主の息子殴ったって本当か」
「ええ。初日にお伝えしたつもりですが」
「なんでそんな、絶対家追い出されるようなことやった。何があった」

 そこでようやく気づく。彼が意外にも真剣な顔をしていることに。
 何があったか、だという。禪院家における典型的な女の扱い方という点では何かあったと言えるし、それはいつもと変わらないという点では何もなかったとも言える。

「お前レベルの実力なら、禪院でも十分やっていけたはずだろうが」

 女だとしても? そう言葉が出かけて、相手は“五条悟”だから想像できないのだろうと切り捨てた。

「もちろん、家の方に歯向かうなど言語道断と分かってはいたのですが……」

 何と答えようか。御三家筆頭の五条悟に対して、馬鹿正直に御三家への失望を口にするのは良くないのでは――と思いかけて。失笑した。私は御三家含め上層部から嫌われようとしていたんだった、すぐ忘れてしまう。どうも前世の家長をはじめとした男性を重んじる社会的価値観が抜けない。
 思わず頬に手を当てて、仕方ないからこのまま笑って誤魔化すことにする。

「何と言いますか……自分より弱い人間しかいない家に我慢して居ても、学ぶことなどないかと、気づいてしまいまして」

 高専は学ぶことがあるといいのだけれど。

「それではお先に失礼します。……家入さん、私先戻ってるね」
「ん、おっけー」
「禪院さんお疲れ様、今日はありがとね」
「ええ。夏油さんもお疲れ様でした」

 踵を返しすぐに、今日は動き足りないから鍛錬でもしようか、と思考を切り替えた。


――――


 禪院摩耶という、未だ1年の中では親交の浅い生徒が去った後。その場に残った3人のうち二人は自然な流れで会話を始めようとし、そして。

「……えっ、今のどこに頬を染める要素あった!?」
「おっけー五条、お前面白すぎるから洗いざらい話せ」

 不自然に黙った五条の顔を覗き込んで、夏油は驚愕を隠せず、家入は笑いを隠さない。

「えっ、いつ? さっきも思ったけど悟いつ? 急に? 何で?」
「……あーーうっせえな! 禪院家の箱入りの割に動けるからちょっとびっくりしただけだわ!」

 家入と夏油が、顔を互いに見合わせてから、もう一度五条を見て、声を合わせて言った。

「……その顔で言う?」

 赤らめたその顔で。
 ぐ、と五条は堪えるように口を噤んだ。
 一般家庭で生きてきた家入と夏油は、五条悟という呪術界でも屈指の才能の持ち主らしい男の常識の無さを、この短い付き合いで何度も体感させられてきた。が、今のその顔は、ただの一人の男子高校生に見えた。

「俺の目で見ると、色々分かるんだよ」

 同級生二人の視線から逃れるように、下を向いて五条がぽつりと言う。

「あいつが禪院の欠陥品って呼ばれてる話は有名で、その噂通り術式なしで呪力量が膨大なだけだったから、才能ないやつなんだと思ってた。けどあの“斬り方”はただ呪力に頼っただけのものじゃない。呪力の質や密度、力の込め方、刀の振り抜き方……全て揃って初めて成立する澄んだ一太刀だった」

 家入と夏油は「欠陥品」という単語に眉を顰めたが、続く五条の感嘆を含んだ言葉に口をつぐむ。

「あれは術師というより、剣士だ」

 呪術界屈指の審美眼を持つ五条の言葉には、真剣さが宿っていた。
 しかしその”眼”の違いか生きてきた環境の違いか、夏油と家入の二人は、五条の言葉にいまいちぴんとこない。

「つまり、初めて戦ってるところ見たら思ったより強かったから、おもしれー女……ってなったってこと?」
「御三家の実家を「自分より弱い人間しかいない家」って言い切るのも、五条的にはおもしれー女なんじゃん?」
「おもしれー……? まあ、そうとも言える、のか?」
「少女漫画の導入すぎてウケる」
「いやだからそういう意味じゃねえんだよ!」
「その顔で言われてもね」

 からかうように笑う夏油は、この短い付き合いの中でも、自分の常識が呪術界には通用しないことを気づいていた。特に五条が自分と全く異なる価値観を持っていることは、度々繰り返した喧嘩で痛感していたが、この反応を見て、なんだ自分と同じ男子高校生じゃないか、とこっそり思う。

「でもまあ……「ご体調が優れませんか?」だったからね……」
「脈ないな、うける」
「ドンマイ悟」
「だから決めつけんなっつってんだろ……!」


――――


 同級生3人と分かれ部屋へ歩きながら、五条悟のいくつかの印象的な表情を思い出して、何故だか昔の記憶が喚起された。どうしてだろうと考えたけれど答えはすぐに出る。思わず自嘲した。

「君がもし女学校に行っていたなら、」

 そう師範が呟いたのは、何がきっかけだったろう。些細なやりとりの一つだって忘れたくはないのに、記憶と時間は薄情だ。

「――いや。悪い、何でもない」

 言葉をしまって踵を返した、本来なら明朗快活なその人の背にかける言葉を探す。
 苦しさと切なさで胸が裂けそうな心地だった。

「……女学校、に」

 私の救いはここにあるのだと、それを与えてくれたのはあなたなのだと、何を措いても知ってほしいと願った。

「女学校に、行くよりも。誰かと家庭を築くよりも、……何よりも。私は師範と稽古がしたいのです」

 心の奥底をさらけ出すつもりで言う。あなたになら心臓だって差し出せるのにと私はいつだって思っているのだ。
 珍しく。驚くほど珍しく。振り返って見せた、眉を下げて困ったように笑う師範の顔は、幾年過ぎようが忘れたことはない。

 何も捨てない。すべて抱えて刀を振り続ける。
 あなたが掲げた信念を、託した思いを、灯した炎を。繋いでいくこと。絶やさないこと。
 それが私の生きるすべてだ。
 私の魂は崇高にはなれない。鬼や呪霊を憎んでいるのかすら自分では分からない。だから、力のあるものが弱きものを守るというあなたの心に倣うことだけが、空っぽの私の人生に意味を与える。

 もう二度と逢うことは叶わないのだとしても。
 あの眼差しを忘れることは、抱えた想いを上書きすることは、何度輪廻を巡ったとしてもきっとないだろう。

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解せぬ花