はやく大人になりたい。
烏丸は常々思っていた。けれど思ったところですぐに成長することなんてできやしないので、彼の願望が今すぐに叶うことは決してない。時の流れは何時も、誰にだって平等なのだから。
理由はいくつかあるが、大きな理由は、今の年齢だとこなせるバイトが限られてしまうためだった。楽をして稼ぎたいわけではないけれど、年齢という壁はやはり大きい。
しかし、大人になりたいと思い始めたのは、いつの頃からだったか。
もわっした不快な湿度を連れて、雨が降っている。どうやら季節は春から夏へと迎おうと、梅雨に入ったらしい。
今年の梅雨入りは例年よりも早い。
衣替えの期間が始まると、烏丸はすぐに夏服へ変えた。冬服だと梅雨のじめじめとした空気に耐えられないからだ。
バイト上がりに帰路についていた烏丸は、シャッターの閉まった古ぼけた店の軒下で雨宿りしている女を見かけた。女は雨が降っているのにもかかわらず、傘を持っていない。
普段の烏丸なら通り過ぎるだけだが、それはよく知った人だったので、思わず声をかけた。
「烏丸くん」
ナマエは烏丸が玉狛支部へ転属する前、本部にいた頃よく面倒をみてくれたオペレーターだった。たいていの異性は烏丸と話す時、彼の顔の良さに照れたり緊張したりでスムーズに会話を続けることがなかなか難しいのだが、彼女は烏丸に恥じることもなく、贔屓することもなく堂々と話しかけて、ひとりの中学生として可愛がってくれた。友人でもなく、先輩でもなく、上司でもなく。長男の烏丸にとって、まるで姉のような人だった。
ナマエの全身は酷く濡れていた。
烏丸は彼女の高校の制服姿やオペレーター服しか見たことがなかったが、夏が近いからか涼やかな格好をしていた。
濡れた白いブラウスは体にぴたりと張りつき、袖から肌がうっすらと透けている。首筋には湿った髪の毛が草花の根のように張りついていて、しっとりとした姿は酷く扇情的だった。それはなんだか見てはいけないもののような気がして、烏丸は思わず目を逸らした。
「傘、ないんですか」
「そうなの。突然降ってきたでしょう。参っちゃう」
朝は降っていなかったので、油断して傘を忘れてきたのだろう。それは烏丸も同じだったのだけれど、彼は幸運にもバイト先の余っている傘を一本借りていた。
烏丸は一瞬、自分の傘へナマエを招きいれることを考えたけれど、すぐにその考えを捨て、傘を畳んで軒下へ入った。
「久しぶりだね。元気そうで安心した。背も伸びてずいぶん男の子らしくなったね。玉狛はどう?」
「いいとこですよ」
「よかった」
昔は普通に会話を続けられていたのに、烏丸はしばらく会っていなかったせいか、なにを話せばいいかわからなくなり、口を閉ざした。小南に綺麗になりましたね、と嘘と称して言えるのに、ナマエには簡単な気持ちで軽々しく言えなかった。
雨はますます強くなり、ざああ、と地面に叩きつける音だけが二人の間に響く。
ナマエと会ったのは一年ぶりだった。烏丸が玉狛支部へ転属が決まった直後に、ナマエはボーダーを辞めたのだ。本部へ行けば必ず顔をあわせていたのに、理由を聞く前にナマエはいなくなっていた。
いろいろと言葉を呑み込んで、雨の音に溶け込ませるように、烏丸は訊ねた。
「なんで辞めたんすか、ボーダー」
たったそれだけの一言だけなのに、まるで鉛を吐き出すかのように重たく感じた。
ナマエは軒先から流れ落ちてゆく雨の塊を眺めている。
「大学でちゃんと勉強しておきたくて。ボーダーにいるとどうしても授業出られない時もあるじゃない。ボーダー特典でいろいろ免除になることもあるけれど、太刀川さんとか見てると、ねえ」
苦笑している彼女の脳裏には、同じ大学に通っているボーダー隊員が浮かんでいるのだろう。受験や進学でボーダーを辞める人は少なからずいる。ナマエも同じだった。
「ごめんね。あの時引継ぎとかでバタバタしてて、ちゃんと話せなかったね」
はやく大人になりたいと、烏丸が初めて思ったのは、ボーダーへ入ってすぐの事だった。
その頃の烏丸はまだナマエよりも身長は低く、中学生ということもあって、なにをするにも彼女のサポートが必要だった。昔は今よりも中学生でボーダーに入隊する人は少なかったので、彼女もしっかり支えないと、と思ったのだろう。諭され、時には厳しくされたり、ボーダー以外のことに口出しされても、すべて彼女が自分のことを心配してくれていると思えば素直に受け入れられた。
けれど優しい姉のようなナマエが、彼女よりも歳上や同年の人と話している時だけはしっかり者の姉のような顔つきを消して、幼さの残る口調で話しているのを見てしまい、烏丸少年は年齢という自分では壊しようのない壁にぶち当たってしまったのである。弟扱いが嫌なわけではないが、自分には見せない態度を向けられる彼らが酷く羨ましいと思った。
生まれた時点で開かれてしまった歳の差を狭めることなんて不可能だ。
じゃあ、どうすれば。
たとえば身長が伸びて、自分の感情をコントロールして、常に冷静でいることができたら、それは大人になれたということなのだろうか。
大人になれば、ナマエは自分のことをもう弟扱いしなくなるのではないかと、烏丸はその時初めて考えたのである。
憧れ、尊敬、敬愛、親愛、思慕。
それらが烏丸の中で溶け合うように混ざり合う。
「でも、卒業したらボーダーに戻るからね」
「え?」
「あれ、聞いてない? 一応沢村さんとか上の人には伝えてるんだけどな。たぶん本部に戻ると思うけど、そうしたらまたよろしくね」
ナマエは制服姿だったよりも柔らかく笑った。その瞳に浮かんでいるのは慈愛だった。烏丸は、まだ自分は彼女の中では弟なのだと悟る。
この歳の差が縮むことは決してない。けれど、自分が変われば。隣に立っても、弟ではなく、ひとりの男として見てもらえるかもしれない。
烏丸は密かな望みを胸に抱き、はやく大人にならねばと思うのだった。
(21.06.05)