おうちに帰りたい2


※逃げ恥パロ


「俺、なんも聞いてねえんだけど」

 むすっとした表情で忍田の執務室へ入ってきた太刀川は、まるでふてくされた子どものようだった。
 それもそのはず、太刀川は、自分は忍田の一番弟子だと思っていたのに、師匠の結婚を人づてに知ったのだ。
 結婚に至るまでの経過なんて知らなくていい。それは当事者同士のラブロマンスなのだから、太刀川の知らないところでめくるめく一つのドラマがあったのだろう。けれど結婚をしたという事実くらい、他人からではなく本人の口から聞きたかった。

 太刀川は戦闘に関すること以外はアホだと周りに言われているけれど、それでも結婚というものが人生のイベント事の一つということくらい分かる。忍田から直接言われなかったということは、一イベントに招待されなかったということだ。
 忍田の左手の薬指には、まだ傷のついていないプラチナリングがキラリと輝いている。結婚は事実なのだろう。太刀川は道端で置いてきぼりを食らったような気がして、なんで俺には直接言ってくれねえんだよ、という悔しさやもどかしさに苛立ちすら覚えていた。
 ここまでは、太刀川の言い分である。

 ここのところの忍田は契約結婚を隠した事実婚とはいえ、互いの両親に挨拶やら、両家顔合わせやら、一人で住んでいたマンションは手狭なため二人で住めるよう引越しやらを、ただでさえ激務である通常の仕事の傍でこなしていたため、目が回るほどに忙しい日々を送っていた。弟子の太刀川にまで気が回らなかったのだ。
 でもそこは交わした弧月の数、目の前にいる弟子の考えていることくらい手に取るようにわかる。読んでいた書類を机に伏せた忍田は「言うのが遅くなって悪かった」と太刀川に言った。

「なあ、マジで結婚したの?」

 忍田からの謝罪に全身がむず痒くなった太刀川は、壁に寄りかかり聞いた。小さな事で苛立っていた自分が、急に恥ずかしくなったのだ。

「したさ。私だってもう三十三だ。頃合いだろう」
「ふーん。にしてもそんな気配全くなかったのに。引越したって聞いたぜ」
「あそこは単身者向けのマンションだったからな」
「へーえ。んじゃ、俺今度行っていい?」
「ああ、いいぞ……待て、慶。どこに行くんだ」
「忍田さんの奥さん見てぇし。来週の土曜に忍田さんち行くわ。んじゃ、俺この後ランク戦あっから」

 そう言い残して、けろりとした表情の太刀川は素早く忍田の部屋から出て行った。執務室に残された忍田は、急いでスケジュールを確認する。
 奇しくも、来週の土曜日は非番であった。

 ◆

「まずいことになった」

 引越したばかりの新居へ帰宅してきた忍田の重苦しい声に、ナマエはごくりと唾を飲み込んだ。一緒に暮らし始めてまだ日は浅いが、ナマエは忍田のこんな声を聞いたことがない。見間違いかもしれないが、忍田の背後にはどんよりとした暗いオーラが見える。

「と、いいますと?」
「来週、私の弟子が来ることになった」
「それは、どこに?」
「ここにだ」
「……なにかまずいことあります?」

 弟子ということはボーダーの関係者なのだろう、と予想したナマエは首を傾げる。引越し後に新居に親しい人が遊びに来るのは、わりとよくあることだ。

「君と私が、本当は夫婦ではないということがバレてしまったら困るだろう」

 忍田の言う事に、ナマエは「ああ……」と頷いた。
 事実婚として籍を入れていない夫婦は少数派だろうが、いることはいる。少数派だろうがその二人の間に愛はあるのだろう。

 けれど忍田とナマエの間にあるものは、ギブアンドテイク。送られ続ける見合いの釣書がいい加減面倒になった忍田と、就職難民の末に住む場所もなくなりかけ実家に戻ると知らない男と結婚させられそうになったナマエの、お互いにとってウィンウィンな契約結婚だった。ナマエにとっては食住付き給料有りの好条件である。ラブは全く無い。同じ屋根の下で過ごせるからライクはあるけれど、同棲というよりも同居、ルームシェアくらいの認識である。
 寝室は当然別だ。ナマエはこれまで通り掃除洗濯料理はしているものの、忍田の帰宅時間は日によってバラバラで、ナマエが就寝してから帰宅することもあれば、休日に出勤することだってある。二人で過ごした日なんて数えるほどしかないし、過ごしたといってもナマエが持てない生活必需品の買い出しをしたくらいだ。

 家の中で同じ空間にいても思い思いの行動、つまりお互い干渉せずに過ごしていた。しかし反りが合うのか、これがまた嫌な気にならない。酒に酔った勢いで交わした契約結婚だが、意外と悪くはなかったのかもしれないと二人はそれぞれ思っている。

「慶は……その、少し抜けているところがあるから、私たちが実の所夫婦ではないと知ったらどこかでポロッと言ってしまうかもしれない」

 少しどころではない。だいぶ、めちゃくちゃ抜けている。
 忍田が危惧している通り、太刀川が忍田夫妻は実は結婚していないという真実を、どこかで洩らしてしまう可能性は大いにあった。

「なるほど、理解しました。そのお弟子さんの前で、夫婦を完璧に演じきればいいってことですね」
「話が早くて助かる。迷惑をかけてしまい申し訳ない」
「忍田さん硬い。そんな仕事中みたいな謝り方、夫婦じゃしませんよ」
「……だったら君も、私のことを苗字で呼ぶのはそろそろやめてみたらどうだ?」
「あ……そうですね。忍田さんって呼ぶのに慣れちゃってるんですけど、さすがに夫のことを苗字で呼ぶのはおかしいですよね。えーっと……あー、まさ、まさ……」

 互いの両親に挨拶をしに行った時に、忍田の名前を呼びこそしたものの、それ以降は苗字で呼んでいたためナマエの頭の中からすっかり抜けていた。

「真史だ」
「すみません……じゃあ、呼びますよ」

 ナマエは数度唇を動かし、口から音のない声を吐き出してから、意を決したように忍田の名を紡いだ。

「…………真史さん」

 忍田が名前で呼ばれることは少ない。たいてい苗字にさん付か、本部長を付けて呼ばれている。そのせいなのか、ナマエが呟くように呼ばれた自分の名前に不思議と特別感を抱いてしまう。胸の奥がこそばゆい。

「っ、なんか恥ずかしい! これは恥ずかしい!」

 それはナマエも同じだったらしく、顔を赤らめて、両手で頬を押さえていた。熱い熱いと手で風を仰ぐ様子は、年相応で可愛らしかった。

「恥ずかしくても、バレないように頼むぞ奥さん」
「もう、やだ、しの……真史さんって結構意地悪ですね」

 むう、とナマエに睨まれても、忍田は全く怖くない。それよりも、ナマエもこういった風に照れる事もあるのだな、と微笑ましくなった。

「ところで、夫婦ってどんなかんじなんですかね。夫婦の理想像なんて人それぞれですし、それこそ夫婦なんて星の数ほどいるじゃないですか」

 ナマエに言われて、忍田は熟考する。たしかに夫婦とはこうあるべきというルールは存在しない。

「ちょっと腕借りていいです?」

 ナマエは忍田の左腕に、自分の右腕を抱え込むように絡めた。腕に当たるむにっとした柔らかな感触に忍田は内心焦るが、ナマエ本人は気にしていないようだった。

「なんかパパ活みたいですねえ」

 ナマエがこぼした一言に、忍田はぴしりと固まる。

「パパ活……」

 私はそんなに老けて見えるのか、と忍田は軽くショックを受ける。

「いや、ぎりセーフかな。私がもう少し大人びた服を着れば夫婦に見えますかね」

 十一という年齢差は、どう足掻いても変えることはできない。でも世の中には、二十や三十の歳の差婚ををしている人達だっているわけで。

「……互いに仲睦まじい様子を見せれば大丈夫じゃないか?」
「仲睦まじい、ですか」

 仲睦まじいとは、間柄が親密という意味だ。ナマエと忍田は相性は良いが、甘い雰囲気を醸し出せる親密さは全くない。

「そういえばこの間テレビで、ハグすると信頼関係が深まるって言ってましたよ。なんでも、安心感が生まれるとか。ちょっと試してみましょうよ」

 両手を広げるナマエに、忍田は戸惑った。ハグ、つまり抱擁。抱きしめ合うということだ。時と場合にもよるけれど、忍田は異性間でそういうスキンシップは簡単にするべきではないと思っている。
 しかし、今時の若い子はこれが普通なのだろうか。軽く言ってのけるナマエが普通で、いちいち意識してしまう自分がおかしいのか。名前を呼ぶのは照れるくせに、抱きしめ合うのは平気なのか。
 石像のように固まって動かない忍田に、痺れを切らしたナマエは

「真史さん、私みたいに両手を広げてみてください」

 と言うので、忍田は言われた通りに両手を軽く広げる。
 するとナマエは「えーい」とその身で飛び込んでくるではないか。避けるわけにもいかないので、忍田はその場から動けなかった。忍田が自分を受け止めたのを確認したナマエは、その腰にすっと腕を回す。

「真史さんも。腕を回してください」

 行き場のない忍田の両手は宙に浮いたままだ。
 ナマエに「ほらはやく」とせっつかれ、忍田もおずおずと両手を回した。身長の差で、その手はナマエの背中に落ち着く。それでも忍田はどこか逃げ腰なので、互いの体に握り拳ひとつ分の隙間が空いている。ナマエはぐいっと引っついた。

「これがハグです」

 こんなにも二人の距離が物理的に近づくのは、初めてのことだった。ナマエの顔は忍田のちょうど胸元あたり。顔だけを上げて、忍田を見つめながら話している。少し背伸びをすれば口が合わさってしまうのではないかと、忍田は意識せざるを得ない。ヘアミストや香水とは違う、香りがふんわりと鼻に届く。
 これは契約。お互いの面倒事から逃げるための偽装結婚だ。だから、こんなにも心臓が飛び跳ねていることを、知られてはならない。

「どうですか? なにかわかります?」
「……いや、わからない、な」
「ですよねえ。でも、なんか……安心するかも?」

 忍田さん、いい体してますねえ。と、服の上から筋肉を確かめられる。忍田は好きなもの・自己鍛錬の男なので、普通の三十代よりは引き締まった体をしている自信はあった。

「とりあえずお弟子さんが来るまで、毎日してみますか。ハグ」
「毎日するのか?」
「バレたらまずいんですよね。できることはやっておきましょう!」
「……嫌じゃないのか。十も離れた男と抱きしめ合うなんて」
「うーん。真史さんなら大丈夫です。遊園地で着ぐるみとハグするような感覚というか……イケメンとハグできて役得なところもありますね」
「君はもう少し自分を大事にした方がいい」

 自分から偽物の夫婦であることをバレないように頼んだくせに、これは大変なことになった、と忍田は心の中で汗をかく。それもこれも、全ては弟子である太刀川のせいなのだが、太刀川が忍田の家に行くことにした原因は直接結婚を伝えなかった忍田にあるので。
 つまり、自業自得なのである。

 ◆

 そしてその日はやってきた。

「来たぜ」

 太刀川は髭を撫でながら、忍田の新居であるマンションのエントランスに立っていた。時刻は十二時過ぎ。手にはデパ地下で購入した紙袋が握られている。
 忍田の新居へ遊びに行くと言ったら、手土産くらい持っていけと、歳下のはずの出水や国近につつかれたのだ。いいないいなと羨ましがられたので、一緒に行くかと聞いたら断られた。噂の忍田夫人に興味はあるけれど、本部長のプライベートに踏み込む勇気は高校生にはまだないらしい。店のセレクトは唯我だ。御曹司らしく、奴は舌が肥えているので、きっと味に間違いはないだろう。

 オートロックの扉は、基本的に入居者以外解錠できない。太刀川はインターホンで忍田から聞いていた部屋番号を押した。数回コール音が鳴った後、女性の明るい声が聞こえてきた。

『あっ。太刀川くん、ですよね。どうぞ』

 太刀川はてっきり忍田が出るかと思っていたので、女性の声に部屋番号を間違えたかと反応できずにいると、女性の方が先に訪問者が太刀川だと気づいたようだった。太刀川が何か言う前にインターホンは切られ、オートロックの扉が開く。
 俺、名前言ってねーけど、違かったらどうすんだろ。危機感ねえ人だな、とエレベーターの中で太刀川は思った。
 部屋の前まで来ると、中から二人分の声が聞こえてきた。一つは忍田のもの、もう一つは先程のインターホンの女性の声だ。なにやら言い争っているようなので、太刀川は少し聞き耳を立てることにした。


「名前を聞かずにオートロックを解錠したら、オートロックの意味がないだろう」
「でも真史さんから写真見せてもらってたから、太刀川くんだっていうのはわかってましたー」
「そういうことを言ってるんじゃない。きちんと名前を確認してから解錠しなさいと言ってるんだ」
「いつもはちゃんと確かめてますー」


 どうやら素性を確認せずにオートロックを開けたことを、忍田が口煩く注意しているらしい。
 忍田さんしつけーからな、と太刀川は身に覚えがありすぎる過去の説教を思い出した。説教中に腕を組んでいると、特に長くなる。関係のない他のことにまで飛び火して、あれもこれもと言い出すのだ。
 太刀川は女性を救うべく、チャイムを押した。パタパタとスリッパの音がし、玄関のドアが開いた。
 太刀川は、忍田と結婚した女のことを、きっと自分のことは自分でする自立したキャリアウーマン的なかんじだろうと想像していた。ボーダーの本部長は多忙なので間違っても、仕事で何日も帰ってこないだけで「さびしい」「私と仕事どっちが大事なの?」なんて言い出だす地雷女を選ぶはずがない。
 さて、どんな人がでてくるかな。
 太刀川は密かにこの日を楽しみにしていた。

「いらっしゃいませ」

 玄関のドアの先にいたのは、キャリアウーマンでも地雷女でもなかった。普通、というのが一番近いだろうか。電車とか街中とか公園とかスーパーとか川岸の道端とか、普通な場所を普通に歩いてそうな平凡な女だった。ケバケバしくもないし、性格がキツそうな風にも見えない。
 次に、思ってたより若いなと思った。大学構内を歩いていても違和感なく生徒に見えるだろう。尤も少し前までナマエは大学生だったのだから、太刀川のこの感想は正解である。

「慶、よく来たな」

 ナマエの背後から出てきた忍田に「よォ忍田さん。これ、つまらないものですがってやつ」と太刀川は持ってきた紙袋を渡す。

「ありがとう。気を遣わないでよかったのに」
「俺は手ぶらで行こうとしたんだけど、持ってけーってうちの奴らに言われたんだよ。和菓子。たぶんウマいぜ」

 忍田はその紙袋をナマエに渡した。ナマエもお礼を言いながら、当たり前のように紙袋を受け取る。それを見た太刀川は目を見張った。
 親しき仲にも礼儀あり、とよく言う忍田はオペレーターや補佐の沢村に頼み事をする時は一言断りをいれる。その忍田が無言で渡した。何も言わずに渡すなんて忍田さんにも気の許せる相手がいたんだなと、太刀川は感心する。

「上がってくれ。紹介する」
「お邪魔しまーす」

 太刀川は靴を脱いで、並べられていたスリッパを履いた。スリッパの裏に固さを感じるのは、まだあまり使われていないせいだろうか。

「俺以外にここ来たことある奴いんの?」
「いないぞ」
「じゃあ、俺一番乗りじゃん」

 リビングは、二人で暮らすにはだいぶ広さを感じる部屋だった。ファミリー向けなのか、生活感よりも余白の方が目立つ。なのに置かれている家具は広さにそぐわない。おそらく結婚する前にどちらかが使っていたものを、とりあえず新居に持ち込んだのだろう。
 唯一、ソファーだけは新品のようだった。三人掛けのファブリックソファーは、寝転ぶと大人一人くらいなら一晩就寝できるだろう。色はアイボリー。選んだのはおそらく忍田さんじゃねえな、と太刀川は予想した。

「慶。ちゃんと紹介できてなくてすまなかったな。ミョウジナマエさんだ」
「はじめまして、ナマエです。主人がお世話になっています」
「どうも。太刀川慶です」

 忍田よりも半歩下った隣で、愛想のよさそうな笑みを浮かべているナマエに、太刀川はどこか違和感を覚えた。なんだこの違和感は、と考えると、一つのことに気づく。

「待てよ、結婚してんのになんで苗字が違うんだ? 忍田ナマエじゃねえの?」

 そう、結婚したなら苗字は同じになるのではないか。
 忍田に紹介されたナマエは自分の名前しか言わなかったが、忍田は彼女を忍田性ではなくミョウジと言っていた。

「私たちは籍を入れてないんだ」
「へえ……? なんで?」
「ボーダーに所属していて、ましてや私の立場的に、もしかしたら命を落とすこともあるかもしれないだろう。私がいなくなり、次また結婚を考える相手が現れても、戸籍は綺麗なままだ」
「それっておかしくねーの。自分が死んだ時のこと考えるなんて忍田さんらしくねえよ。アンタ、大事なモン守るためにしぶとく生き残るタイプだろ」

 そりゃあ、でっち上げの理由ですし。
 この設定無理があるかなあ、とナマエはぼんやり考える。名義変更がめんどくさいとか、今時夫婦別姓なんて当たり前だとか、そういった路線にした方が若い子にはわかりやすいのかもしれない。

「よくわかんねぇけど。でも、そうしてまで一緒にいてえなんて、忍田さん、ナマエさんのことがマジで好きなんだなー」

 太刀川はあまり細かいことを気にするタイプではないので、勝手に一人で納得していた。忍田とナマエは、ほっと胸を撫で下ろす。
 これからも周囲に本当の夫婦ではないことを隠していかなければならない二人にとって、今日が初陣なのだ。両親は子がパートナーを見つけた喜びの方が大きかったようで、あまり突っ込んだことは聞かれなかった。ここでバレてしまえば、今後うまくやり過ごせないかもしれない。
 嘘もつき通せば誠になる。

「た、太刀川くん、よかったらお昼食べていかない? いろいろ作ったの!」

 話題を変えようと、ナマエは太刀川をダイニングテーブルに促した。テーブルには、ナマエがいつの間にか購入していたランチョンマットが三枚並べてある。
 ちょうどオーブンから、ピーと調理が終わった音が鳴る。キッチンに飛んでいったナマエがオーブンを開けると、香ばしいにおいが漂い始めた。

「いいにおいだな」
「好き嫌いあるかな。ラザニアは食べられる?」
「うまそー」
「真史さん、鍋敷置いてもらえます?」

 両手にミトンをつけたナマエが、焼き上がったばかりのラザニアをテーブルに運んでくる。表面のチーズはまだぐつぐつと泡立っており、焦げがなんともおいしそうだ。

「太刀川くんは座っててね。真史さんは運ぶの手伝ってください」

 ナマエは冷蔵庫から用意していた料理を出していく。サラダやスープが並べられていくの見て、太刀川はデパ地下の惣菜売り場で見た華やかなサラダを思い出した。ナマエの作ったサラダの彩りも鮮やかで、生ハムやオリーブが入っていて具沢山だ。スープは冷製コーンポタージュ。鶏肉の香草焼きまででてきた。

「簡単なものでごめんね」

 ラザニアをよそいながら、ナマエは謙遜するけれど、ちょっとしたパーティーメニューのようだと太刀川は思った。手を合わせてフォークを手に取る。

「うめえ!」

 一口食べた太刀川は、手を止めずに食べ進めた。

「めっちゃうまいんだけど、忍田さん毎日これ食ってんの?」
「帰ってこれる時はな」
「最近忍田さん愛妻弁当って噂はマジ?」
「作ってもらっているな」
「簡単なものだけどねえ」
「マジで結婚したんだな忍田さん……」

 簡単なものだ、とナマエは言うが、盛り付けも味も彩りも料理本に載せられるレベルだ。こんなものを毎日食べられるなんて、太刀川は普通に羨ましく思う。

「慶、ゆっくり食べなさい」

 がっついて食べる太刀川に、忍田は優しく嗜めた。

 ◆

 食後に太刀川が持ってきた手土産をデザートにしようと、ナマエが席を立った時、
「ナマエさんって結構若いよな」
 と、太刀川は聞いた。

「ああ、彼女はまだ二十二だからな」
「二十二⁈ 俺と二歳しか変わんねえじゃん」

 若いとは感じていたが、本当に若かった。忍田よりも自分の方が年齢が近いじゃないか。ナマエという忍田の妻は、太刀川の予想を大きく裏切る女だった。

「なぁ、どこで知り合ったんだよ」

 そうなると気になってくるのは、二人の出会いや馴れ初めである。ナマエは太刀川の『おもしれー女』枠にランクインしたのだ。

「忍田さん、暇なんてなさそうだったじゃん。俺いつ本部行っても忍田さんいるし、手合わせも最近してくれねーし」
「彼女は家事代行サービスで、私の家に来ていてくれてな。それで、まあ……」

 忍田は濁した。嘘はついていない。

「へー。忍田さんもレンアイできるんだな」

 太刀川はぐるりと部屋を見渡し、ふらりと立ち上がる。ナマエはキッチンでお湯を沸かしているようで、まだリビングへはこなさそうだった。

「慶?」
「ここ何の部屋?」

 太刀川はいきなりドアを開けた。忍田は急な太刀川の行動に「慶!」と叫ぶが、太刀川は「忍田さんの部屋? なんもねー」と忍田の声なんて聞いていない。

「勝手に開けるな。彼女の部屋だったら失礼だろう」
「ナマエさんそういうの気にしねえだろ。寝室、別なんだ。新婚なのに」

 忍田の寝室は、シングルベッドと本棚くらいしかない。仕事のものは全てボーダーに置いてあるから、置くものも特にないのだ。

「あ、ああ、私が帰ってくるのが遅い時もあるからな。起こしたら悪いだろう」
「ふーん……なんかさ、いい人だなナマエさん。話しやすいし気さくだし優しそうだし料理うめえし。歳は驚いたけど、忍田さん結婚できてよかったな。俺一生独身だと思ってたわ」

 太刀川からの言葉に、忍田は嘘をついていることが心苦しくなったが、それでもやはり真実を伝えることはできなかった。
「準備できましたよー」というナマエの呼ぶ声に、二人はリビングに戻った。

 ◆

「太刀川くんいい子じゃないですか」

 太刀川が帰宅した後、食器を洗いながらナマエは忍田に言った。太刀川はうまいうまいと料理を全て平げ、ナマエの知らない忍田の話を教えてくれた。太刀川は歳が近いせいか話しやすく、ナマエにとって非常に楽しい時間だった。作った料理を綺麗に食べてもらえるのは嬉しい。

「慶に、結婚できてよかったなと言われたんだ」

 忍田はナマエの淹れたコーヒーに映る自分の顔を見ながら呟いた。

「少し心苦しかったよ」
「真史さんって嘘つくの苦手そうですよね」

 ナマエといると、居心地が良い。それはお互いに干渉しないようにしているせいもあるだろう。
 ナマエと忍田の間にあるのは、契約という縛りで。恋愛感情がないから成り立つことで。ナマエと恋愛に発展することは、今の忍田には想像がつかない。今日太刀川と話しているナマエを見て、やはり十歳差というのは大きいと感じてしまったのである。自分といるよりも、太刀川のような同世代といる方が自然で、しっくりと見えてしまった。
 もし、本当に好きになってしまったら。この奇妙な利害関係はどうなるのだろうか。
 忍田はふとそう思ったが、何を馬鹿なことを考えているんだと、苦味の強いコーヒーでその考えを流し込んだ。





(21.05.24)



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