コロッケ


 アルバイトを始めた。お金が欲しいとか理由はいろいろあるけれど、大学入学と共に一人暮らしを始めたので、一人で過ごす時間を減らしたかったのだ。
 家の近くの商店街を歩きながらバイト先を探していたら、お肉屋さんがちょうどアルバイトを探しているというので、夕方のシフトに入れてもらうことになった。決め手は残り物を貰えたらラッキーという下心だ。
 私の仕事は注文されたお肉をショーケースから取り出して計って包んだり、出来上がったばかりの揚げ物を並べたり。お会計をしたり。それを閉店まで、週三回。
 働いていると常連さんの顔を覚えてくるもので。特に主婦のおばさん達はおしゃべり好きな人が多く、夜ご飯に楽させて、とお惣菜のオススメを聞かれることも多い。意外にも私は接客が好きなタイプのようで、こういう話は結構楽しい。

「コロッケひとつな」

 毎週決まった曜日に来るお兄さん。背は高く、目は眠たげ、髪の毛はふわふわで、顎に少しだけ髭を生やしている。たぶん大学生くらいだと思うけれど、髭のせいで年齢不詳だ。
 お兄さんは夕方の五時くらいにふらりと現れて、いつもコロッケを買っていく。歩きながら食べるのか、耐油紙に包むだけでいいらしい。
 最初、ビニール袋に入れたら

「すぐ食うから次からは簡単でいいぞ」

 と言われた。だからその翌週に来店した時、耐油紙に包んで渡したら

「お。覚えてたのか。えらいな」

 って子どもに言うみたいに褒められた。
 うちのお店はメンチカツもおいしいのだけれど、お兄さんはコロッケしか頼まない。

「今日はさっき揚げたばかりでまだ熱いから、気をつけてくださいね」

 私は慣れて指の皮が分厚くなったのか、揚げたての熱々コロッケを耐油紙越しに持てるけれど、お兄さんは火傷してしまうかもしれない。だからちゃんと注意したのに、お兄さんは嬉しそうに

「揚げたてが一番うまいんだよな。ラッキーだわ」

 と私の目の前で、まだ湯気のたつコロッケを半分くらい口に入れて

「うお! あちい! 舌いてえ!」

 と叫んだ。
 私の言ったこと聞いてなかったのかな。
 見て見ぬふりをすることもできず、紙コップに水を入れて渡すと、お兄さんは仰いで一気に飲み干す。

「火傷しませんでした? 大丈夫ですか?」
「ヒリヒリする……けど、うまいわ」

 きっと火傷しているだろうに、お兄さんはニカっと太陽みたいに笑うから、思わず胸の奥がキュンとした。
 お兄さんは残ったコロッケにふーふーと息を吹きかけ、また大きな口を開けてコロッケをパクリと食べた。さっきよりは熱くないかもしれないけれど、まだうっすらと湯気がでている。もしかしたら学ばないのかもしれない。
 でも、お兄さんはとても美味しそうにコロッケを食べてくれる。大きい図体で子どものように大きな口を開けて食べるのを見るのが、私の密かな楽しみでもある。きっとお兄さんは本当にコロッケが好きなのだろう。だったら火傷をしても、本望なのかもしれないなと思った。
 水、助かったぜ。そう言ってお兄さんは去っていった。

 ◆

 それからお兄さんが買いにくるたびに、私たちは少しずつ喋るようになった。
 天気のこと、昨日見たテレビのこと、最近野菜が高くなったこと、私が一人暮らしをしていること、ゴミを出し忘れて悲惨な目にあったこと。
 それと、お兄さんのこと。
 名前は太刀川慶というらしく、大学生なのにボーダーに所属していると言っていた。しばらく年齢不詳だったけれど、実際は私と二つしか変わらなかった。少し意外だった。髭があるからもう少し年上かと思ったと言うと、太刀川さんは「髭かっこいいじゃねーか」と声を出して笑っていた。
 太刀川さんがここに寄るのも、ボーダーへの行き帰りのついでらしい。ちょうど小腹が空くタイミングでコロッケのにおいが風にのって太刀川さんの元へ届き、つい足が向いてしまうそうだ。
 週に一度、コロッケを買いにくる太刀川さんと少し話して、その背中を見送るのが、私の密かな楽しみになっていた。

 先週のあれはなんだったんだろう、と私の記憶は一週間前に遡る。

 その日も太刀川さんはコロッケを買いに来てきた。今日も一つですね、と念のため確認する。

「本当は十個くらい買っていきてえけど、食いながら本部歩いてると忍田さんに怒られっから」

 太刀川さんはもっと食べたそうにショーケースの中を眺めながら言った。特にお腹が空いている日だったらしい。
 だったら食べちゃえばいいのに。
 ここで何個か食べていけばバレないのに、と私は口には出さなかった。
「一応言っとくけど、忍田さんって男だからな」
 私の沈黙をどう受け取ったのかはわからないけれど、太刀川さんはにやにやとした笑みを浮かべていた。

「気になったか?」
「気にしてほしかったですか?」

 私がそう答えると、太刀川さんは「そうだなあ」と顎の髭を指先で撫でながら、返事をぼかして去っていった。

 ほんとなんだったんだろう。正解に辿りつかない問題を延々と解いているみたいで、この一週間ずっと胸の内がもやもやとしている。
 今日聞いてみようかなあ、と思案しながらいつものようにショーケースの前に立つものの、太刀川さんはいつもの時間になっても、それから一時間過ぎても現れなかった。十分起きに壁に掛かっている時計を見てしまうが、針は止まることなく進み、太刀川さんは一向に姿を見せない。毎週必ず来ているから、どうしたのだろうと心配になる。
 もしかしたらボーダーで急用ができたのかもしれない。別に待ち合わせをしているわけでもないし、太刀川さんがここに来ることは義務でも約束でもない。私たちは客とバイトの関係なのだから。
 もう一度時計を見ると、帰宅ラッシュの時間に近づいていた。もうすぐ仕事帰りのワーママや料理が苦手そうな独身の人がお惣菜を買い尽くしに来る。きっとコロッケも売り切れてしまうだろう。
 ――ひとつだけよけとこうかな。
 来ないかもしれない。でも、来るかもしれない。
 もし太刀川さんが来なくて、売れ残ってしまったら自分で買えばいいし。
 もし太刀川さんが来て、コロッケが一つもなかったらかわいそうだし。
 出過ぎた真似かなと迷った末に、結局私は他のお客さんに見えないようにコロッケを一つ隠した。太刀川さんが来てくれないと私はあの人に会えないんだなあ、と連絡の一つも取れないバイトと客の関係に少しさみしさを感じてしまった。
 ボーダーのことはよくわからないし、あまり事情を話してはいけないのか太刀川さんも私にボーダーの話はしない。というかいつも私ばかり、私の事を話している気がする。
 太刀川さんのこと、ボーダーに所属しているコロッケが好きな大学生としか知らない。少しずつ話すようになって距離が縮まって仲良くなった気がしていたけれど、それは私の思い込み。勘違いだったのかもしれない。
 勘違いだったのかも、きっとそうだよ、勘違いなんだよ。雑念のような心の声を無視するようにバイトに励んだ。

 ◆

「よお」

 帰宅ラッシュの時間が過ぎ去った閉店間際に、太刀川さんは暗がりからふらりと現れた。店先にはもう人はいない。商店街のシャッターも半分は下りている。うちの店ももう閉めようとしたタイミングだった。
 太刀川さんは片手を上げて飄々としているけれど、その顔は少し疲れているように見える。

「コロッケ……ねえよな」

 見事に書い尽くされて空っぽになったショーケースに、太刀川さんは肩を落とした。やっぱり無理矢理逃げりゃよかった、と小さく呟いている。よくわからないけれど、ボーダー内で誰かに捕まっていたようだ。

「ありますよ。太刀川さんは絶対来ると思ったので、一つだけとっておいたんです」

 こっそり一つだけ隠しておいたコロッケを出すと、暗かった太刀川さんの顔はみるみる明るくなる。

「マジ?」
「マジです」

 ポケットに入れていた財布から小銭を出した太刀川さんが「うめー」と言いながらコロッケを咀嚼するのを見て、取っておいて良かったと安堵する。もうすっかり冷めてしまったコロッケだけど、うちのコロッケは冷めても美味しいのだ。

「俺が来なかったらどうするつもりだった?」
「その時は私の夜ご飯でしたね。お腹空きましたし」
「あー、それは悪い……」
「いえいえ、太刀川さんのために取っておいたんです。食べてもらえるのが一番です」

 そうかっこつけて言ったものの、私のお腹からキュルルルと空腹を訴える音が鳴った。だってもう夜の八時だ。お昼を食べてからなにもたべてないのだからお腹は空く。でもこのタイミングで鳴らなくたっていいじゃない、私のお腹。
 聞かれていたら恥ずかしいなあと見ると、太刀川さんの耳にもバッチリ届いていたようで、彼はおもしろいものを聞いたと言わんばかりにわざとらしい笑みを浮かべていた。

「もう終わりだろ。コロッケ食ったら俺も腹減ってきたから、この後晩飯食いにいこうぜ」
「私は取っておいただけなので、そんなご馳走してもらうほどのことじゃ……」
「いんだよ、そんなん。俺がお前と飯食いてーだけ」
「私と?」
「うん」
「どうして?」
「それ聞くか?」
「だ、だって。私と太刀川さんって友だちでもなんでもないし、強いて言うならバイトとお客さんだし……」
「さみしーこというのな、お前。俺がコロッケ目当てだけでここに来てると思ってんだろ」
「えっ、違うんですか?」
「待ってるからはやく終わらせてこい」

 太刀川さんは本当に私を待つようだった。私の返事を聞かず、店先のガードレールに座り、携帯をいじっている。暗闇の中、光る携帯の液晶が太刀川さんの顔をぼんやりと照らしている。
 急なことに気持ちが追いつかない。

 今からご飯?
 太刀川さんと私が?
 二人きりで?

 頭の中で余計な勘繰りがぐるぐると回る。
 けれど、いつも背中を見送ってばかりだった太刀川さんが私を待っているのは、紛れもない現在進行形の事実だった。携帯から顔を上げた太刀川さんが「腹減ったー」と、作業の手を止めて太刀川さんを見ていた私に向かって叫ぶ。油臭くないかなと服のにおい嗅ぐけれど、いまいちわからない。
 私たちの会話を聞いていたらしい年配のパートさんに「青春だねえ」と言われながら、私は急いで閉店作業をするのだった。




(21.05.20)



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