秘密の共有者


※嵐山の彼女


「准が手を出してくれないの」

 別に意味はなかった。愚痴を言いたかっただけだった。原因はわかっているけれど、解決する方法が時間しかなくて、私の心の中に渦巻く濁った感情をなんとか呑み込んで自分を納得させるために、誰かにただ独り言を聞いてほしかっただけだった。
 目の前にいる男なら、適当な相槌をうって、変に意気込んで斜め外れの答えをしない。と、思ったからこそ、迅に悩みを吐露したのだ。アドバイスなんていらない。要するにガス抜きだ。

 本部からわざわざ玉狛支部まで来たのは、外だと誰に聞かれるかわからないから。必要最低限のものしか置かれていない迅の部屋は、睡眠をとるためだけの部屋と言ってもいいほど殺風景だった。
 座るところがベッドしかないので、私たちは並んでベッドに座っていた。彼氏のいる女が彼氏じゃない男と隣り合わせでベッドに座るなんて、普通に考えれば誤解されかねない、良くないことだ。しかし迅は、私と准を一番近くで見ていてくれた友人なので、安心して座れていた。

 愚痴の原因とは、彼氏である嵐山准が、私に全く手を出してくれないということだった。
 准とは手は繋ぐし、キスもした。包むように抱きしめてくれるけれど、そこまでだ。その先の、恋人だけが進むことのできる、艶のあるベールに隠された時間を、彼は共有しようとはしない。ベールの隙間から漏れだす二人の秘密が、周囲に二人の関係を暗に示すというのに、准は私とベールの内側に入ろうとはしない。

 ――ナマエのことは好きだし、そういうことをしたいと思う。けど、こういうことは、責任が取れるようになってからにしよう。

 一度、私の部屋で甘く虚な空気が流れた時、准はくもりなき眼でそう言った。私とセックスしたくないことじゃん。遠回しにそういうことだと受け取った。
 でも准はボーダーの広告塔だし、彼なりにいろいろなことに気をつけているのだろう。世間体とか世間体とか。世間体しか思いつかない。

 一度きりしかなかった、砂糖を大量に煮詰めて、溶けきれなかったざらざらとした砂糖の上に寝転んだ、あの幻のような一時。スミレの砂糖漬けみたいに味わってもらえると舞い上がったのに、結局紅茶の中にすら入れてもらえなかった。

 あれ以降の准は、人前では気をつけているものの、私と二人きりの時や私たちの仲を知っている人の前では、理想の彼氏そのものだ。忙しいはずなのに連絡はマメだし、私が不安にならないようにストレートに気持ちを言葉にして伝えてくれる。
 きっと私は、みんなの嵐山准が私にしか見せない恋人としての一面を、たくさん知っている。
 だからこそ、言葉や態度だけじゃなく、体に刻み込むように愛してほしいと思ってしまった。色欲はどろどろと粘り気を持って、私の煩悩に纏わりつく。
 なんて恵まれた悩みだろう。

 こんな愚痴を言えるのは迅くらいだ。友人の性の悩みを聞かされるのも苦痛かもしれないが、他に話せる人がいなかった。私が准とつきあっていることを知ってる女友達は少ないし、女の子に話すのは気恥ずかしいし、相手が准なので知られたくない気持ちの方が強かった。
 その点、迅はそのへらへらした気さくな態度で、昔からくだらないことで笑いあった仲だし、案外口が堅いところがある。
 私たちは男女というよりも、ただの悪友といった方が正しい。私はそう思っていた。
 現に、迅はたいして興味がなさそうに、私の愚痴を黙って聞いている。その興味の無さがありがたくもあった。

「ねえ、嵐山とさ、どこまでやったの?」

 突然、迅が訊ねた。

「ええ……それ聞くの?」
「手を出す出さないの範囲って、人それぞれだからさ」

 ここでもし迅が下世話な表情を浮かべてたら、絶対に答えなかった。でも迅の目はまっすぐに私を見て、本当に疑問に思っている様子だったので、私は答えることにした。

「……キスまで」
「うわあ」

 お気の毒、もしくは子どもかよ、と迅の声色がそう言っていた。本当にその通りだ。
 准はもしかしたら性欲がないのかもしれない、とすら考えてしまったこともある。私のことを大切にしてくれている、優しいじゃない。と思えるほど、私は大人じゃない。
 好きな人と一つに混ざり合いたいと思うのは、健全ともいえるし、不健全ともいえる、誰しもが抱く衝動だろう。

「だいたい、責任がとれるようになってからっていつだと思う?」
「嵐山のことだから、大学卒業してからとか?」
「それは先が長い……」

 卒業するまで何年あると思っているのだろう。何年も、おままごとのようなおつきあいを続けるつもりなのだろうか。

「でもあいつならそういうこと普通に言えそうだし」
「否定できない。なら私、卒業するまで処女ってこと?」
「ははっ」
「笑い事じゃなーい!」

 迅の乾いた笑いになす術がなくなった私は、両手を横に広げながら、背中から後ろへ倒れた。私を受け止めた瞬間、ギシッと音を立てて、ベッドが沈む。

「ナマエ、そんなに嵐山としたい?」

 迅は横目で私を見下ろしていた。

「うーん、半々。准の気持ちもわかるけど、そういうこと興味だってあるし」
「意外だな。ナマエにもあるんだ、興味」
「そりゃあるよ。迅だってムラムラするとか、あるでしょ?」

 返事はない。踏み込みすぎたかな。私と迅は悪友だけど、やっぱり男と女なので、こんな下ネタに反応し辛いのかもしれない。

 迅の部屋の天井を眺める。この建物は本部と違ってだいぶ年季が入っているせいか、白い壁紙に汚れや染みが浮き出ていた。理由もなくそれを数えていく。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……やけに多い。壁紙くらい貼り替えればいいのに。玉狛支部は予算足りてないのだろうか。でも本部に顔を出したり、街をぶらぶらしたりの、暗躍が趣味である部屋の主はあまりこのベッドを使っていなさそうだから、貼り替えなくてもいいのかもしれない。

 ふ、と巨大な雲が照りつける太陽を隠すように、眩しさを感じていた天井の明かりが私の視界から消えた。そのかわり私の眼前に現れたのは迅の顔で、私をその青い瞳の中に捉えたまま近づいてくる。

 あ、これはまずい。

 頭の中では理解していたのに、体が反応をしなかった。次の瞬間、唇が重ねられる。罪悪感よりも先に私を支配したのは驚きだった。

「これでおれも嵐山と同じだ」

 私の唇からわずかに離れた迅が呟いた。
 鼻先がぶつかってしまいそうな距離は、准にしか許したことがない。

 目の前にいる男は准ではない。赤茶色の髪は、准の黒髪とは違う。何かを企んでいるような目つきは、まっすぐ前だけを見ている准のものとは違う。准じゃない。准とは違うのだ。
 なのに、この男は准に酷似している。
 思わず准と重ねてしまいそうになった。

 迅は、私と准の友人で、つきあうことを告げた時喜んでくれて、准が有名になればなるほど私を心配してくれた、優しい友人のはずなのに。
 彼は、准が私から遠ざけた欲を隠すことなく、ひしひしと私に向けていた。

「おれだったら、ナマエにこの先も教えてあげるよ。いつかするなら同じことだよ。大丈夫、バレない。おれのサイドエフェクトはそういってる」

 迅の目には様々な未来が視えているのだろう。そして彼は平気だという言葉で私に甘い蜜を垂らして、私が吸い寄せられるのを手招きしている。
 私の心臓はうるさいくらい鳴っている。
 それは焦りではなく、これから起こることへの上擦った期待だった。




(21.07.19)



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