「あんたまた私のことなんか言ったでしょ! またフラれたんだけど!」
王子と彫られた表札の家へ入り、登り慣れた階段を乱暴に踏み上がり、最後に開いたのは数ヶ月前だったと記憶しているドアを勢いよく押した。そうして、これもまた数ヶ月前と同じことを叫びながら入室すると、まだ制服のままベッドに寝転んで携帯を弄っている王子が「ノックぐらいしなよ。ぼくが着替えてたらどうするんだい」と、全く気にしてなさそうに私を嗜めた。
「制服で寝転がると皺になるよ」
微塵も思ってなさそうな口ぶりが神経を逆撫でしてくるから、鼻でそう笑ってやる。王子は起き上がり、ベッドに腰掛け、「じゃあ着替えようかな」とシャツの上から二番目のボタンに手をかけた。そして、私の「え」という声にお構いなしに、ボタンを簡単に外してしまった。一番上のボタンは元々留めていない。
奴は冗談じゃなく本気でやりかねない男だということを、私は人生の大半の時間をかけて知っている。だからこのままだと数分も待たずに、王子の上半身は丸見えになってしまう。「やめてよ!」と私はまた叫ぶ羽目になった。
「別に悪いことなんて言ってないさ」
王子は三つ目のボタンを外す手を止めた。
よかった。それ以上ボタンを外されてしまうと、見えなくていいところまで見えてしまう。
「きみがよくぼくの家に来ることとか、きみの寝相が結構悪いこととか、太もものつけ根に黒子があることとか、脇を触られるのが弱いこととかを教えてあげてるだけだよ」
「なんでいつもいつも私の彼氏にそんなこというの! そんなの大昔のことじゃん!」
家に来るのは、親同士が仲が良いから。寝相が悪いことを知られているのは、幼い頃お昼寝した時に王子の背中を蹴ってベッドから落としたり、王子の顔面に張り手をしたことが数えきれないくらいあるから。黒子の場所を知られているのは、小学校低学年頃まで、互いの家にお泊りした時に一緒にお風呂に入っていたから。脇を触られるのが弱いことを知られているのは、昔からじゃれあうようにふざけて遊んでいたから。
言い方に悪意しか感じられない。事情を知らずに王子の言葉を聞かされたら、誰だって私と王子の関係を疑うに決まっている。
「今回もまた浮気を疑われてフラれた!」
「そんな男選ぶなんて、ナマエは本当に見る目がないね」
王子は私に謝るどころか、馬鹿にしてくる。やれやれといった様子に、ぐううと頭に血が上ってくるのがわかった。
「なんなの? 私のこと嫌いなの?」
一度や二度じゃないのだ。王子が私の彼氏に余計なことを吹き込むのは。
小学六年生の時、はじめて彼氏ができた。彼氏といっても友だちの延長線上のもので、二人で遊んだり、手を繋いだり、家の電話で夜電話をするだけで満足できる、かわいらしい関係だった。今思うと、マセていた。
私はまだ王子のことを一彰と呼んでいて、怒ってばかりの今よりも会話をすることが多かったし、王子も私に皮肉めいた意地悪なんて言わなかったから、彼氏ができたことをすぐに報告した。おめでとう、と言ってくれると思っていたのに、王子の反応は「ふうん」とたった一言それだけで、浮かれていた私はあっさりした王子の反応に拍子抜けしたのを覚えている。
それから数日経って、気まずそうに彼氏に別れを切り出された。理由は濁された。どうして理由もわからずに別れなきゃいけないんだろうと、王子に文句を垂れていたら、奴はとてもとても優しい言葉を並べて慰めてくれた。持つべきものは幼馴染と、まだなにも真実に気づいていなかった私は思ったものだ。
しかし、その次にできた彼氏も、王子に報告して少ししてフラれた。またその次も、次の次も、同じことが繰り返されれば、私だって気づく。これは王子が余計なことを言っている、と。でも王子だって、さすがにそんなことをするほど外道じゃないと、一抹の望みをかけて問い詰めたら「バレちゃったか」と王子は悪びれもなく笑っていた。あまりにケラケラと笑うので、夢かと疑ってしまっけれど、顔を叩いてみても抓ってみても痛かった。その時まで奴に抱いていた信頼が、ガラガラと音を立てて崩れていった。
それ以降、彼氏ができても、王子に報告することはやめた。なのに奴は私に彼氏ができたことをどこからか聞きつけて、毎度余計なことを吹き込むのだ。
王子は、私の目を真っ直ぐに見つめて訊ねた。
「どうしてぼくがナマエの邪魔をするのか、考えてみたことはないのかい? 胸に手をあてて、よく考えてごらんよ」
◆
かわいいかわいい一彰。
私は一彰のことを女の子だと思っていた。たぶんおばさんの趣味もあったのだろうけど、幼稚園児の一彰は、ボブくらいの長さに整えられた色素の薄い茶色の髪と、汚れのない天使のような顔立ちと、楽器が美しい旋律を奏でているようなソプラノの声を持った、中性的な子どもだった。
子どもというものは時に残酷で、美しいものに好意的になるか排他的になるかは、その時の運次第だ。私たちの周囲は後者だった。
今はもうそんな面影はないけれど、昔の一彰はすぐに目に涙を溜めて唇を噛み締めるおとなしい子どもだった。一彰の目のふちに溜まる涙は、母のパールネックレスの真珠のようにまあるく、音もなく頬を伝ってはらはらと溢れていく。その度に
「私がずっといっしょにいるから、泣かないで」
と必死に慰めた。私は、私が一彰を守ってあげなければと謎の使命感に駆られていた。
ある時、どうして女の子なのに、男の子みたいな名前なの? と訊ねた。美少女のような見た目と、男の子のような名前が不一致すぎたから、不思議に思ったのだろう。私の問いに、一彰は目をまん丸くしてから珍しく大笑いし、その後彼が正真正銘男の子だということを聞かされ、酷く驚いた。けれど男の子だと知っても、一彰は一彰なので、一彰のことが好きなことに変わりはなかった。
小学校に入ってから一彰は変わった。内気だった性格はどんどん社交的になり、どこかの国のお姫様のようだったかわいらしさは鳴りを潜め、その代わりアイドルのような爽やかなかっこよさが前に出てきた。
変わってしまった一彰の、麗しい容貌に目をつけたのは、クラスの女子たちだった。
それでも一彰は、幼稚園の頃と同様に、私に話しかける。そうすると今度、排他的な目を向けられるのは私の番。キラキラとした王子様のような一彰が話しかけるのは、平々凡々な私ばかり。彼のことが気になる女子にとって、おもしろいはずがない。
女子というものは、男子よりも少しばかり成長がはやい。休み時間、男子が校庭で球技の勝負をするならば、女子は狭い教室内が戦場なのだ。女の、女だけの、女としてのヒエラルキーで、飛び抜けて容姿がいいとか、特技があるわけでもない、対して喋りも上手くない私は、ピラミッドの下層に位置していた。だから女社会で生き抜く本能が周りの悪意に敏感に反応し、「一彰といっしょにいては駄目だ」と訴えてくる。たった一人の幼馴染よりも、クラスの女子の輪から外れたくなかった。
なので、まず最初に呼び方を変えた。一彰と呼んでいたのを王子にした。一緒に帰っていたのもやめて、クラスの女子のグループと帰る。王子に話しかけられても、無視したり、すぐに切り上げたり、近くにいた王子のことが好きな女の子に会話を繋げてあげたりした。これは保身だ。私はあなたの敵じゃないということを、王子のことが好きな子たちに示したかった。王子は聡いから、私が彼を避けていることも、避ける理由にも、きっと気づいているはず。
だけど、王子は私に構った。
クラス内でペアを作れと言われれば、真っ先に私に声をかけてきたり、クラスが違くなれば休み時間には私のところへ来たり、下校時には迎えに来たり。
はじめてできた彼氏を回りくどいやり方で別れさせられた後、中学にあがると、王子はワガママを言うようになった。
「あれやってよ」は、まだかわいいものだ。
「ぼくのプリント持っていってよ」
「ナマエが行かないなら、ぼくも行かない」
「お願いだよ。ぼくときみの仲だろう」
その都度、女子の目が痛いくらい私に刺さる。ワガママだけじゃない。
「ねえ、ぼくの部屋にあったアレ知らない?」
「今日夜ご飯食べにおいでよ(っておばさんからの伝言)」
「次の日曜日なんだけど(親同士の約束の話)」
「今日ぼくの家に来てよ」
なんて、人前で言うくせに、実際王子の家に行くと、奴は学校にいる時とは違い、無言になる。外での愛想の良さは消え去ってしまい、素っ気無いのだ。美形の無言は怖い。なにを考えているかわからないし、学校との態度の違いに、私は内心、王子を怒らせてしまったのではないかと不安になった。自分の都合で王子を遠ざけて、避けていることに負い目を感じていたのだろう。
私はいよいよ王子のことがわからなくなり、苦手意識を持つようになってしまった。王子の気まぐれやワガママに、振り回されるのも嫌だった。
王子が私の知らないところでボーダーに入隊し、高校に入ると、謎の無言はなくなったものの、今度はよく回る口に拍車がかかっていた。まさに、ああ言えばこう言う状態。私は一度も口論で王子に勝てたことなない。
思い出し始めると、それだけ、その分、思う。
「やっぱりあんた私のこと嫌いでしょ」
王子の行動は、嫌がらせ以外の何物でもない。嫌いなら関わらないでほしい。そうしたら、私も周りに睨まれることもなくなるから、お互いのためにもなるというのに。
「……きみのその鈍いところは、時に残酷だね」
王子は呆れたように、けれど、私を責めるように呟いた。
「そういえばナマエは昔から酷かった」
どうしてそんな非難されなければならないのだろう。王子に振り回されてきたのは、私だというのに。
「ぼくのことを好きだ、いっしょにいると言いながら、歳を重ねていくと他の男のことばかり話して、ぼくから離れていこうとする。名前だってそうだ。苗字で呼ぶなんてさみしいことをされて、すごく傷ついたんだ。ぼくは優しいからそろそろ教えてあげるよ」
王子はゆっくりとした動作で、ベッドから立ち上がり、私に一歩近づく。私の足は思わず後ずさった。その様子は笑うでもなく、ふざけたようでもなく、怒っているようでもない。なんの感情も読み取れない。
「ナマエの一番近くにいて、ナマエのことを知っているのは、ぼくだよ。なのに、どうしてナマエは僕のことを選択肢にいれてくれないんだい」
王子は私の目の前にいた。首を持ち上げないと、王子の顔が見えない。昔は目の高さが同じだったのに。身長はとっくの昔に追い越され、引き離されていた。喉には女の子にはない膨らみがある。切り揃えられていた髪は、襟足の毛先を遊ばせていて、もう幼い頃の一彰とはなにもかもが違っていた。
「ずっといっしょにいてくれるって、言ってくれたじゃないか」
「そんなの――」
昔のことだし、と続けられなかった。
なぜなら。
「ぼくから離れていかないでよ」
くちびるを噛み締めた王子が、悲痛そうな面持ちで、そう被せてきたから。その動作は昔のかわいかった頃の王子を思い出させて、私は一瞬息を呑んでしまった。
それって、我儘すぎる。
王子は知ってるのだろうか。女の妬ましさを。王子がいない隙を狙って、私に牽制してくる姿を知っているのだろうか。あいつらはみんな、王子の前では必死に取り繕っているから、わかっていないのかもしれない。
「あんたといると、みんなに羨ましがられる。恨まられる。僻まれる。ずるいって言われる」
でも、王子が私の歴代彼氏に余計なことを吹き込み、邪魔をしていた理由が、私にそばにいてほしかっただけだと知って。
「――――私のこと、守ってくれるの」
もっとやり方はあったはずなのに、素直になれず幼稚なやり方しかできなかった一彰が、私はなんだかとても愛おしく思えてしまった。だったら、私も少しくらいワガママを言っても許されたっていいじゃない。それくらい聞いてくれたっていいじゃない、と内心ドキドキしながら一彰の反応を待つと。
「守るよ。ずっといっしょにいてくれるならね」
一彰は安堵したように、ホッとしたような笑みを浮かべていたのだった。
(21.07.26)