※年齢操作、夢主さん既婚者です
卒業して十年経ったら同窓会をしよう。なんて口約束、十年も経てば誰もが忘れてしまうと思っていたのに、同窓会を開催すると連絡が来た時は正直驚いた。結婚して三門市から離れたので、実家に届いた同窓会のお知らせは親に送ってもらった。ハガキの「出席」に丸をしてポストに投函した。
当日は記念日とか少し良いレストランに行く時用のワンピースを着て、落ち着きよりも華やかさに力をいれて丁寧にメイクをした。高校の友人とは大学の時はかろうじて連絡を取り合っていても、就職してからはめっきり会っていない。
だから浮かれていたのかもしれない。髪も前日にしっかりトリートメントをして、時間をかけてブローをした。化粧ノリが良くなるようにパックもした。顔が浮腫まないようにマッサージも念入りにした。鏡の前にいすぎて、夫に「気合い入ってるね」と苦笑いされたほどだ。
そうして向かった同窓会の会場では懐かしい顔ぶればかりで、一瞬で十年前の自分に戻ったような気になった。
「誰かと思ったわあ。えらい綺麗なったなあ」
お手洗いから戻ろうとした時に声をかけられた。振り返ると優男がにこにこと笑いながら立っている。誰だっけ、と記憶を辿る前に、右目の下にある泣きぼくろですぐにわかった。
みんなの盛り上がっている声は聞こえるけれど、向こうからは私たちのいる細い通路はちょうど見えない。
「隠岐くん?」と訊いた私に、彼は正解の笑みを浮かべる。その目元があまりにも綺麗な弧を描くので、思わず見惚れてしまった。もさもさしていた髪は学生の頃よりもさっぱりとしているけれど、色っぽさが増している。
「もう席戻るん? よかったら連絡先教えてほしいんやけど」
隠岐くんはお酒が入ってるのか、顔がほんのりと赤く、表情はゆるんでいた。ゆるんでいてもだらしがない感じはなく、締まりのない動作ですら色気に変えてしまうのだから顔が良いってずるいとぼんやりと思った。
同時に、頭の端に夫の顔がちらりと浮かんだ。でも旧友と連絡先を交換することは後ろめたいことじゃないはず。
「あ……携帯机に置いてきちゃった」
「なら、おれの携帯に入れてもろてもええ?」
渡された保護ケースのついていない携帯に連絡先の打ち込みを終えて返すと「ありがとお」と間延びしたお礼を言われた。お酒に弱いのかもしれない。横に揺れながらふにゃふにゃと喋る様子がかわいく思えて、クスリと笑ってしまう。隠岐くんは「なにい?」と首を傾げて不思議そうにしている。
「ううん、隠岐くんすごくかっこよくなったのに、なんだかかわいくて」
「ええ……それって昔はかっこよくなかったってことやないですか」
「そういうわけじゃ……」
ないよ、と続けようとしたら、唇に何かが触れた。
肌で人肌の熱を感じた。息を吸う音がした。
隠岐くんの顔がものすごく近くにある。
瞬きをするたびに、隠岐くんくんの顔はスローモーションで離れていく。
自分のことなのに、映画を見ているような気分だった。
「また今度連絡するなあ」
さっきまでの冗談めいた声色は消えていた。
隠岐くんは私の耳元でそう囁くと、みんなのいる明るい方へ何事もなかったかのように歩いていく。残された私は隠岐くんの背中を眺めながら、しばらくそこから動けなかった。
けれどその後、隠岐くんは一度も私と会話をしなかった。目も合わなかった。私は隠岐くんの姿を探して、追いかけてしまうのに。
そうして同窓会はお開き。二次会は行かなかった。来た時と同じで、帰りも特急電車に乗って三門市を後にした。
車窓の外は街の灯りがキラキラと星のように光っている。今日のために買った口紅が指につくのも構わずに唇をなぞりながら、結局何もなかったことにされたことを自覚した。また連絡するって言ったのだって、その場限りの、酔い任せの言葉だったのだ。
同窓会のハガキ。欠席に丸をつければよかった。行かなければよかった。そうすれば隠岐くんに再会しなくて済んだから。溜息が、窓ガラスを曇らせた。
◆
あの同窓会の夜から何週間か経った平日の昼間。仕事の昼休み中に同僚とランチをしていると、携帯の画面が突然光った。
『隠岐です』
表示されている文字に心臓がドキリと跳ね上がった。忘れかけていたあの夜のことが一気に脳裏に浮かぶ。タップしていいのか。この画面を開いてしまっていいのだろうかと悩んで指が動かない。
冷静に考えるとあのキスは駄目だ。一晩寝て、起きたら、私はなんてことをしてしまったのだろう、と罪悪感で苦しくなった。だから忘れようと努めていたのに、たったの四文字で、あの唇の温度や柔らかさや吐息がフラッシュバックする。
口の中が乾いて、気分が悪くなってくる。私の顔色が一気に変わったのに気が付いた同僚に心配されるけれど、同窓会でキスされた相手から連絡がきただなんて言えるはずもない。お冷を流し込んで携帯を鞄の奥底にねじ込んだ。
夫とのやり取り、電子マネーでの決済、明日の天気を調べる時。携帯を使うたびに、新着メールを知らせるマークが目に入る。表示を消すためにはメールを開かなければならない。
でも、見てしまったら。
あの四文字の後に、何か続きがあったのなら。
まるで三叉路の分岐点に立っているようだ。
私の前には二本の道。歩いてここまで来たはずなのに引返す道は跡形もなく消えていた。右に足を進めれば、今まで通りの日常の中にいる私が見える。左に進めば、隠岐くんからのメールを見ている私がいる。どうするの、どっちに進むの、と三叉路の残りの道で佇んでいる私が訊ねる。
本当は気付いている。メールを開かなくても削除すれば、この新着メールの知らせは消える。
でも、削除はできなかった。
◆
三門市内にある駅直結のタワー。低層階には商業施設や映画館やレストラン、高層階にはホテルが入っているタワーだ。ここのホテルに泊まるには、結構良い値段がするらしい。
私はそのタワー六階にあるリストランテの前に立っていた。和やかさと騒がしさが共存している商業施設とは違い、この階は全体的にひっそりとした静寂に包まれている。店への入り口も数箇所しかない。日本食、中華、フレンチ、そして私の前にあるリストランテの入り口だ。ドレスコードもあるかもしれないと、会社に着ていける範囲内でフォーマル感のある服を選んで正解だった。
来店に気づいた店の人に声をかけられ、名前を告げる。
「隠岐、で予約してると思うのですが……」
「お連れ様はお見えになっています。ご案内致します」
初めて行く店はいつも評価サイトやSNSで調べていくのだけど、今日は何も情報を得ずに来た。知ってしまうことが怖かった。
店内は広いものの、テーブルの間隔がゆったりと取られているせいで、そこまで席数が多いわけでもない。街の様子が見渡せるように壁一面がガラス張りになっている。夜景のために照明をわすかに落としている。この辺りに高層ビルは少ないので、昼間は見晴らしがよさそうだ。店内は明るい光に包まれるのだろう。全体的にシックに纏めてある華美すぎない内装は、この景色をメインにしているからかもしれない。
私をここに呼んだ人物が見当たらないと思っていたら、更に奥に案内された。先導するウェイターについていくと、何部屋か続いている。個室には別料金が掛かるのかなと野暮なことを考えた。ウェイターは一つの扉の前で足を止めて、ドアをスライドした。
個室内の四人掛けのテーブルは、奥の席が空いている。手前の席には後頭部が見える。振り向かないので、彼が今どんな顔をしているのかわからない。
この部屋に入ったら、いよいよ逃げられない気がした。隠岐くんがドア側の席を選んで座っているということは、私が帰らないようにするためなのだろう。そう思うと、足が止まってしまった。
しかし案内をしてくれたウェイターが椅子をひいて待っているので、私は座るしかない。荷物を隣の席に置いてから椅子に座ると、一度ウェイターは部屋を出ていった。
下を向いて膝の上で握った自分の手だけを見つめると、力みすぎているのか、手は白くなっていた。
「来てくれたんや」
「やっぱり、私、帰る」
「えー。もうコース頼んでるから食べてってくれん?」
「な、なんで、頼んでるの」
「賭けやな。頼んどいたら来てくれるかなって。食べてこ? それくらいええやろ? な?」
勝手すぎる。小さく縦に頷いてからゆっくり顔を上げると、向かいに座った隠岐くんはどこかホッとしたような顔をしていた。ネクタイは締めていないものの、濃紺のジャケットを着ている。中に着ているシャツはオフホワイト。座っているのでズボンの色はわからない。
「何飲む?」
待っている間にドリンクメニューを見ていたらしく、冊子を回してくれた。でも私は頼むものは決めているので受け取らない。
「ノンアルコールのスパークリングで」
「あら。飲まんの? おれは普通のスパークリングにしよ」
お酒は飲まないと決めていた。私なりのケジメだ。
タイミングよく入ってきたウェイターに隠岐くんがドリンクを注文し、すぐにまた個室の中で二人だけになってしまった。
「来てくれへんかと思った」
「ずるいよ。あんなの。言い逃げと同じだよ」
「ああでもせんと来てくれなかったやろ」
隠岐くんから急に届いたメールを、私は結局開いてしまった。心配していた続きの文は無く、隠岐です、とたったの四文字。私は返信しなかった。けれど開いてから数日経って
『次の金曜 十九時 ずっと待ってる』
という文字とお店のURLが書かれたメールが届いた。行けない。無理。行かない。と数回メールを送ったが、それ以降隠岐くんから送られてくることはなかった。
金曜日に近づくにつれて、胃がジリジリと焼かれているように痛んだ。
本当に待ってるつもりなのだろうか。私は行かないって送ったのに、隠岐くんは私が来るのをずっと待っているのだろうか。別にいいじゃない。待たせておけば。行かないとメールは送ってある。勝手に予約して勝手に待ってるなんて言ったのは隠岐くんだ。約束をしたわけじゃないのだから、行かなくたっていいのだ。
そう決めたはずなのに、金曜日の朝の私は夫に「仕事の後、同窓会で久しぶりに会った友達と食事してくる」と伝えて家を出ていた。嘘はついていない。隠岐くんが来ているか確かめにいくだけ、と言い訳じみた建前を胸の中で何度も唱えた。
いたら、帰る。いなかったら、それでいい。
だけど結局隠岐くんの狙い通り、私は今こうして彼と向かい合って座っている。にまりと笑う男は、確信犯だったわけだ。
「怖い顔してるなあ」
「誰がさせてると思ってるの?」
「でも来てくれたやん。優しいなあ。来んかったらフルコース二人分食べるとこやった」
本気なのか冗談なのかわからないことを言う。
「今日」と呟くような隠岐くんの声を遮るようにノック音がした。
「来てくれてほんまに嬉しい」
部屋の扉が開かれる音に被せて、そんなことを言うものだから、何も言い返せなかった。テーブルに置かれたグラスに注がれていく泡の混じった液体を眺めるしかできない。
グラスの底から浮き上がっていく細かな泡のように、ここから消えてしまいたくなった。
◆
食材に罪はない。料理人にも、食材に関わった人にも罪はない。だから味わうことをおざなりにしたくないのだけど、何を口に入れてもあまり感動しなかった。
見た目は美しいのに味がしない。温かい、冷たい。かたい、やわらかい。それくらいしか私の舌は機能していない。
「おいしいなあ。魚全然臭くないわ」
せめて残すのだけはしないように口に入れている私とは違って、隠岐くんは料理を堪能しているようだった。
隠岐くんはすごくお喋りというわけじゃなさそうだけど、あまりにも私が何も話さないので、ずっと一人で話している。料理の感想や好きな猫の話に、隠岐くんは当たり障りのない話題を選んでるように感じた。
疑り深い私は、隠岐くんの何事もなかったかのような態度に白々しいなと思ってしまう。会話を膨らませる気にもなれず、短い相槌を打つだけだけど、それで構わないらしい。
隠岐くんの意図がわからない。
学生の時同じクラスで、ただのクラスメイトだった。ボーダーに所属している隠岐くんは早退や遅刻や欠席することが多かった。大阪出身にしてはおとなしいなと意外に思っていたのは覚えている。誰かに話しかけられたらノリよく話しているけれど、一人で窓の外を眺めていたり本を読んでいる姿の方が印象深い。整った顔立ちと物憂げな眼差しに見惚れていた。でも校内で何度かボーダーの人と大口開けて笑っているのを見てしまい、クラスにいる時と違う人みたいだなと思った。私も挨拶くらいはしていたと思うけれど、特に仲が良かったわけでもない。
なのにどうしてキスをしたのだろう。
とはいえ、自分から訊く勇気もない。だんまりを貫いていると、いつの間にかデザートの前まで食べ終わっていた。
本当に食事をするだけなのかもしれない。
もしかしたらこの食事は、あのキスの御詫びの意味を兼ねているのかもしれない。
あまりにも隠岐くんから下心のようなものを感じないから、私が気にしすぎているだけなのかもしれない、と引き締めていた気が緩みだしていた。
「次で最後なのですが、お席を移動して頂けますか」
ウェイターの言葉に、隠岐くんが席を立った。私もあわてて荷物を掴み、後ろをついていく。
案内されたのは、このリストランテに入った時に目にしたガラス張りの壁に面したテーブルだった。さっきまでいた個室には窓がなかったので、開放感がある。
けれど、問題があった。座る場所だ。
景色を一望するためにガラスに向かってテーブルがある。席は一台のソファーなので、私は隠岐くんと横並びに座らなければならない。
向かい合って座るのと、横並びで座るのでは勝手が違う。横並びは近い。ここは絶対にカップル席だ。夜景を見ながらイチャつくか、口説いたり、ロマンチックなムードに浸るための席だ。席を変えてもらおうと思ったのに、隠岐くんはさっさと左側に座ってしまう。
「どしたん?」
「いや……」
「座らんの? あ、化粧直しに行く?」
「……行かない」
「はよ座ったら?」
長さとして掌を目一杯開いたくらい。それを両手分。なるべく隙間を空けて、さらにそこからバリケード代わりに鞄を置いた。考えすぎかもしれないけれど、目に見える何かを置いておかないと自分が不安だった。
緩んでいた気を引き締めているとデザートが運ばれてくる。パフェ仕立てのティラミスだ。
これを食べたら帰ろう。そして隠岐くんの連絡先を消して、もうメールが送られてこないように受信拒否しよう。スプーンの先でちまちま掬いながら食べると、ほろ苦い味が口の中に広がる。掬う量はほんの少しだけ。行儀が悪いのはわかっている。帰ることを決意した途端に、私はこの時間を惜しみ始めていた。
隠岐くんはスプーンを握りもしていない。何層にも重なっている断層は綺麗なままだ。ティラミスの層の中にバニラアイスが入ってるから、はやく食べないと溶けてしまうよ。
バレないように、ちらりと隠岐くんを盗み見る。彼はまっすぐ前を向いてガラス壁の方を見ていた。その視線を辿りながら私もガラス壁を見ると、ガラスに映った隠岐くんと目が合う。
隠岐くんはガラスの壁を見ていたんじゃない。
私を見ていた。
「おれの事めっちゃ警戒してるなあ。猫みたいや」
バレていることにドキリと体が強張った。スプーンを持つ手が止まる。料理の感想を言っていた調子と全く変わらない声色で、隠岐くんは静かに続けた。
「メール一個送るだけやのに、めちゃくちゃ悩んだんよ。打って消して、何回も書き直して、どんどん短くなってもうた。そっけなさすぎて絶対来んやろうなって思うてた。情けないんやけど、今日待ってる時ずっと怖かったんやで」
ガラスの中の隠岐くんが私の目を射抜いている。
「なんで来てくれたん? キスした男の前にきたらあかんやろ」
その言葉に気づいた。下心が無いのかと思っていた私はまんまと絆されかかっていたけれど、隠岐くんはずっと隠していただけだった。さっきまで息を潜めていた隠岐くんの本心がようやく剥き出しになって、こちらを向いていた。
「私、隠岐くんとそんなに話したことない」
「せやなあ」
「クラスだって同じだったの最後の一年だけだし、隠岐くんと全然関わったことなかったから、そんなに知らないし」
「そうやねえ」
「……どうしてあんな事したの」
「好きやったんやもん」
左に顔を向けると、ゆっくりと隠岐くんの首も動いた。今度はガラス越しではなく、直接視線が合う。平然を装っているように見えて、瞳の奥が揺らいでいた。
「自分知らないかもしれんけど、ずっと好きやった」
「ずっとって……」
「あ、信じとらんやろ。初恋って忘れられへんもんなんやって」
隠岐くんは私の鞄を退かして近づいてきた。私の作ったバリケードが一瞬で崩れてしまう。私の左手の上に隠岐くんの右手が重なった。血の気を感じない冷たい手だった。
思わず手をひっこめようとしたけれど阻止される。隠岐くんの指が私の指の隙間に差し込まれていたのだ。ソファーに縫いつけるみたいに体重をかけられて、私の力じゃびくともしない。
「同窓会で会えると思うたら結婚しとるやん。へこんで酒飲んでトイレ行ったらおるんやもん。我慢できんかった」
私の薬指の指輪をなぞりながら、隠岐くんは囁いた。
「なあ、おれ期待してもええの?」
何も答えられない私の手を取った隠岐くんは、私の薬指から何の装飾のないシンプルな指輪を外す。抵抗も無く、指の皮に引っ掛かることも無く、酷く簡単に指輪は抜けていく。
私はどこか他人事のようにその一連を眺めていた。さっきまで私の指にあって、たくさん悩んで選んだはずの私の指輪なのに、知らない物のように錯覚した。
銀色の指輪は、隠岐くんの薄い掌の上で鈍く光っている。隠岐くんが掌を握ってしまえば、光は見えなくなった。
「夜景もっと高いとこから見てみん?」
隠岐くんの言うことが何を意味するのか。わからない子どもじゃない。首を小さく縦に振った。
私を繋ぎ止めていたものは、隠岐くんの掌の中にある。
(21.07.07)