腫れた頬について


 耳元で音がした。虫が羽ばたく音だ。

 きょろきょろと首を左右に回してみても、私の目に映るのは、胡座でテレビを観ている太刀川さんだけで、羽音の主は確認できない。あんなに薄く、小さな羽なのに、羽音は耳にしっかりと届くのだから不思議だ。
 玄関を開けた時に入ったのかな。太刀川さんってドア閉めるの遅いんだもん。戦闘の時は機敏なのに、私生活にその機敏さはなかなか発揮されない。でもま、小蝿ならそのうち見つけるでしょ、と余裕を漕いでいたら、奴は私の目の前を大胆に横切った。その数センチほどの小さな姿に、私は思わず叫ぶ。

「蚊がいる!」
「蚊ぁ?」

 太刀川さんはテレビから目を離さない。私の知る限り、あんまりテレビを観る人ではない。しかしバラエティ番組のグルメコーナーがうどんの特集をしているので、珍しく集中して観ているようだった。
 ゲストは嵐山隊で、中継で佐鳥くんが店舗にお邪魔してうどんの食レポをしている。画面の中の佐鳥くんが天ぷらを噛み切った瞬間、ザクッと歯切れの良い衣の音が聞こえた。佐鳥くんは満面の笑みでうどんを啜っている。夏だからか、ぶっかけうどんに揚げたての天ぷらがおいしそうだ。右上のワイプには、そんな佐鳥くんを見守るような目線の嵐山くんや時枝くんが映っていた。広報の仕事も大変そうだ。
 だけど、いいなあ。揚げたての天ぷらに冷えたコシのあるうどん。なんてテレビに気が逸れてしまい、蚊の姿を見失ってしまう。

「ああ……」と落胆の声をあげると「別に刺されたってよくねえか」と、呑気な声がかけられた。

 よくない。痒さに負けてしまい、掻きむしったら最悪痕になるし、指の付け根とか変なところを刺されてしまったらむず痒くてたまらない。だから、刺される前に仕留める。

 テレビの音が聞こえくなるくらい羽音に集中する。
 こんな時、菊地原くんのサイドエフェクトがあれば、と思ってしまったが、蚊の羽音を聴き取るためにサイドエフェクトが欲しいなんて言ったら、これでもかというくらい眉を顰めながら嫌味を言われそうなので、その考えは早々に捨てた。
 呼吸を殺し、視線だけ動かし部屋の中を探る。太刀川さんは鬼気迫る私とは違い、呑気に「うまそうだな」とまだテレビに夢中だ。私の肌はまだ痒さを感じていないし、太刀川さんもなんともなさそうにしているので、たぶん、まだ二人とも刺されてはいないだろう。物陰に隠れてしまったかな、とふいにテレビに夢中な太刀川さんの横顔を見ると――いた。

 いたのだ。頬に。太刀川さんの頬にとまっていた。
 その時、私の頭の中は「なんとかしてここで仕留めなければ」とそれだけがいっぱいで、他になにも考えていなかった。だから、私は、思いきり片手を振り上げて、勢いよく――。

 ◆

「トリオン体になってください。お願いだから、本当にお願いだから、太刀川さん、ほんとに」

 諏訪が食堂で遅めの昼食をとっていると、聞き慣れた声が耳に入ってきた。視線を向けると、やはり食堂の入り口には太刀川とナマエの姿があった。

 普段の太刀川はボーダー本部内に入るとすぐにトリオン体に換装するのだが、今日ばかりは生身の肉体で本部内を歩いていた。どうして生身なのかがわかるのかというと、夏には暑苦しさを感じさせる隊服ではなく、私服姿だったからだ。その後ろを、焦りながらナマエが小走りで追いかけている。ナマエもオペレーターの制服ではないので、任務後なのか任務前なのだろう。

 自由気ままな太刀川と太刀川を追わざるを得ないナマエの絵面は、ボーダー内の人間にとって見慣れた光景なのだが、二人の様子はいつもと少し違っていた。

 二人というよりも、一人。ナマエの様子が違う。

 太刀川とナマエの様子を遠くから眺めながら、諏訪はそう感じた。
 太刀川の単位取得のためにいつも顔を青くさせているナマエだが、今日の顔は赤く染まっている。焦っている様子はいつもだが、ナマエの頼み込むような声色からして、羞恥からの焦りのようだった。

 ま、俺には関係ねえ。
 諏訪は視線を外し、食事を再開させると、すぐに。

「おっ、諏訪さんだ。ここ空いてる?」

 先程まで食堂の入り口にいた太刀川が、テーブルの向側に立っていた。一緒にいたはずのナマエは、まだ料理が出てこないのか受け取り口で待っている。
 諏訪は四人掛けのテーブルを一人で使用しているので、太刀川は相席しようとしているのだろう。もう少しすればナマエも来るはずだ。それは構わない。諏訪は「おう」と太刀川に告げた。手にトレーを持った、トリオン体ではない私服姿の太刀川が目の前に座ると、諏訪はギョッと二度見してしまった。
 片頬が赤い。
 手形がついている。
 まだ叩かれてからそんなに時間が経っていないようで、太刀川の頬に指の形までわかるくらいくっきりとした手形の赤い跡が、はっきりと主張していた。諏訪はまたも手を止める。

「おまえ、どうした。その跡」

 怒らせちまったのか――と、諏訪はいよいよナマエが太刀川のいい加減さに痺れを切らしたのかと危惧した。だが考えてみれば、一発や二発くらい殴られたって文句は言えないくらい、太刀川はナマエに迷惑を掛けている。
 どうせ太刀川の自業自得だろう、と諏訪が自分の中で解決させていると、やっと注文したメニューが出てきたナマエが太刀川を追って、テーブルへやってきた。諏訪に気づいたナマエは顔をぱあっと明るくさせたが、諏訪が太刀川の頬を見ていることに気づくと、慌てたように捲し立てた。

「違うんです! これには深い事情があって!」

 太刀川はにやにやと笑みを浮かべ、完全におもしろがっている。それを見た諏訪は、どうやら今回分が悪いのは、太刀川ではなくナマエの方だと悟った。珍しいこともあるものだ。

「一応聞いてやるけど、何したんだ?」
「……家に蚊が入ってきて……その蚊が、太刀川さんのほっぺにいて、吸われる前に仕留めないとって……」
「いいビンタだったぜ」

 太刀川は見せびらかすように、自分の腫れている頬を一撫でした。

「恥ずかしいから、はやくトリオン体になってくださいよ」と呟くナマエの言うことなど聞きやしない。

「任務までまだ時間あんだよな」

 諏訪は手の跡よりも、自分の家に太刀川が居ることを当たり前のように話すナマエに驚いた。この調子だと、太刀川がナマエの家に居ることは常々なのだろう。それでナマエの家から二人仲良く出勤した、と。
 すっかり入り浸ってんな、と諏訪は心の中で呟いた。

 諏訪は、ボーダー内に流れている太刀川とナマエがつきあっているという噂を、信じていない。噂が真実なら本人たちが自ら言ってきそうなものだし、おそらくナマエはそういう感情に疎い。そこを利用している奴がいることは、自分が口出しすることでもないので、ナマエに教えてやるつもりはない。
 飄々としているように見えて何考えてんだか、と、諏訪はまだ頬を撫でている太刀川を一瞥したのだった。




(21.08.03)



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