私の両親は仲が良い。いわゆるおしどり夫婦というやつで、娘の私から見てもラブラブだなあと思わざるを得ない。そんな二人の始まりは、父が母に一目惚れをしたことからスタートしたらしい。事あるごとに昨日のことのように何度も馴れ初めを聞かされるので覚えてしまった。
父は母が大好きで、母も父が大好きで、そんな二人は娘の私のことをとても大事にしてくれて。生まれた時から二人の仲睦まじい様子を目にし、その愛情を与えられていた幼い私は「結婚するならパパみたいな人がいい!」というモットーを持ってすくすくと成長した。いつも幸せそうに笑っている母のようになりたいと、子どもながらに思ったのである。
自分を大事にしなさい、というのが母の口癖だった。要するに、適当な男と付き合うのではなく、将来を考えてくれる人と付き合いなさいということだ。母の刷り込みによってそういうものなのかと思っていたものの、成長するに連れてその教えはなかなか難しいことを知った。そして母は少女漫画に出てくるような人だなと思った。いつも笑顔でおっとりとしているように見えて意外と意思は強い。負けず嫌いな面もあれば、おおらかになんでも受け止めてしまう優しさもある。母に一目惚れをして結婚まで漕ぎ着けた父は、そのギャップが良いと言っていた。
彼氏ができたの、デートしたの、キスをしたの、なんだので周りが色づき始めた頃、休日彼氏と遊びに行ったことを楽しそうに話す友人の姿が羨ましいと感じた。
何度か告白されたこともあったけれど「結婚してくれる?」と聞くと、そっちから告白してきたのに「やっぱりさっきの話は無しで」と言われてしまう。もっとフランクに考えなよと呆れられることもあった。
しかし身持ちの固かった母はそうして父と出会い、恋に落ちて、結婚したのだから、私は自分の理想像のために母の教えを忠実に守っている。
◆
「好きです。付き合うてください!」
「無理です。ごめんなさい」
叫ぶような勢いの告白に、いつものように小さく頭を下げて断る。目の前にいる赤と黒のカラーリングの隊服に身を包んだ男は「今日も厳しいなあ! でも今日もカワイイ!」と叫んだ。この人には普段と変わらない声量なのかもしれないけれど、私にとっては少しばかり距離を取りたくなる大きさだ。
生駒さん――通称イコさんは顔を合わせる度に、カワイイだの、好きだの、付き合ってほしいだの言ってくる。今日だって、ボーダー内のカフェで一人休憩していたらこれだ。イコさんの声で、カフェ内の視線が私たちに向いていることに、私がそれを嫌がっているということに、はたしてこの人は気づいているのだろうか。
中央オペレーターとしてボーダーに所属している私は、生駒隊のオペレーターである真織がクラスメイトで友人ということもあって、何回か生駒隊の作戦室に届け物や所用で顔を出したことがあった。
生駒隊の隊長であるイコさんと知り合ったのはその時だ。「マリオちゃんのお友だち? めっちゃカワイイなあ。イコさんって呼んだってな」と挨拶された。最初の印象は悪くなかった。キリッとした太い眉が威圧感を感じさせるものの、ハキハキとした喋り方とノリの良さに、親しみやすそうな人だと思ったのを覚えている。
それから本部内で会ったら挨拶をしたり、立ち話の最中にイコさんは私を笑わせようとボケてくるので、私の中でイコさんは真面目な顔をした明るい人というイメージだった。
しかし、次第にイコさんは私を見れば「カワイイカワイイ」と言うようになり、終いには付き合ってくれなんて続けるようになり、イコさんの印象はジェットコースターがトップスピードを出して下降するかのようにぐんぐんと下がっていった。
人が大勢いるところでも簡単に言ってくるので、本気なのか冗談なのかわからない。こうも挨拶代わりにほいほいと言われると言葉の重みは消え、軽薄に聞こえてしまうのだ。真織にも「カワイイカワイイマリオちゃん」と言っているのを聞いたこともある。あの調子だと、誰にでも言っているのだろう。
だからイコさんは私の中で将来を考えてくれそうな人だと思えず、毎回お断りをしている。断ってもイコさんがショックを受けている様子はないので、きっと関西の人が一つや二つは持っているという定番のネタというやつなのだ。
でも、今日は虫の居処が悪かった。
毎回毎回いろんな人がいるところで冗談のような告白をされ、浴びたくもない注目を浴びて、ストレスが溜まっていたのもある。内容はあまりわからないけれど、何かについて熱心に語っているイコさんの話を遮るように、私は「あの」と呟いた。
「もうやめてもらえませんか」
私の口から出てきたのは、自分でも驚くくらい感情のこもっていない低い声だった。私の様子がいつもと違うことにイコさんも気づいたらしい。普段ならカワイイを連呼するイコさんのよく回る口がぴたりと閉じた。
「私、毎回断ってますよね。何回も言えば私が受けると思っているんですか? それとも冗談なんですか? 冗談だったら、もうやめてください」
「冗談ちゃうで」
「だったら、どうしていつも同じことばかりなんですか。好きだとかカワイイだとかそればかり。私のどこが好きなのか、本当に私のこと好きなのか、全然伝わってこないし……この際だから言いますけど、大きい声、圧があって怖いし、みんなにジロジロ見られるの恥ずかしいし、め、迷惑なんです」
満席ではないけれど、それなりに人のいるカフェはシンと静まり返っている。そんな中、私の声だけが響いていた。ここはボーダー本部内にあるカフェであって、劇場の舞台上ではない。
けれど今、スポットライトを浴びているのは、私とイコさんの二人だった。
物音一つしないこの場に居た堪れなくなった私は、飲みかけのドリンクを掴んだ。プラスチックのカップがパキッと音を立てる。ストローの先から中身が少し溢れてしまったけれど、拭く余裕なんてなかった。
そして固まってしまったままのイコさんを残し、カフェから逃げるように去ったのだった。
◆
「イコさんへこんでるで」
ボーダーの制服ではなく、高校の制服に身を包んでいるお昼休み。机を向かい合わせにしてお弁当を一緒に食べていたら、真織が急にぶっ込んできた。
カフェにイコさんを置き去りにしてから、何週間も経っている。
母に作ってもらっている私とは違い、朝早く起きて自分で作っている真織のお弁当箱には、高校生のレベルとは思えないくらい彩鮮やかなおかずがぎっしりと詰まっている。型抜きや飾り切りされた野菜がかわいらしく、私もいつか作ってみたいと思うけれど、なかなか挑戦できていない。食べさせる相手もいないから、いいんだけど。
たまに貰うおかずは、見た目だけじゃなく味もおいしいので、昔「真織の将来の旦那さんは幸せ者だね」と言ったら、顔を真っ赤に染めた真織は「ばっ! アホちゃう⁈」と照れていて可愛かった。
カフェでの一件の後、あの場にいた人たちが流したのか、イコさんが私にフラれたという噂がたちまちボーダー内に広まった。私はしがないオペレーターだが、攻撃手六位であり、生駒旋空の使い手であるイコさんは有名人だから、みんなおもしろがっているのだ。
人の噂も七十五日。当人が黙っていれば、次第に周りの興味も薄れるだろう。噂のタネである私はなるべく生駒隊の作戦室には近づかないようにしていたし、イコさんに会わないよう人が集まりそうな本部内の施設には足を向けないようにしていた。だからもうここ暫くイコさんと接触していない。学校で真織と話すけれど、彼女は元々優しいし、何かイコさんから聞いているのか、しばらくこの話題には触れてこなかった。
なのに突然イコさんの話を出してきたので、箸で掴んでいた唐揚げが落っこちてしまいそうになる。
「急にどうしたの……」
「これは独り言なんやけど、うちの隊長な、アホやん」
「真織?」
私は真織の顔を見たけれど、真織がじっと見ているのは私ではなく、机の上に広げたお弁当だった。
「真顔でボケるし、マイペースやし、作戦会議もほとんど雑談やし……最近ずっと覇気がないねん。ボケもおもんないし、壁に躓くし、フリーズしとるし、空返事ばかりやし、好物のナスカレー食べとるのに全然元気ないし。生駒旋空も外しまくって家切る回数も増えたし。あの日からやで」
真織は黙々とおかずを食べながら、淡々と話す。
「イコさんな、ああ見えて照れ屋やねん。作戦室でめっちゃあんたのこと聞いてくるし、こっちは聞いてもないのに、あんたと喋れたってだけで報告してくるんやで。冗談ぽく言わんと、言えないだけや」
私は真織と違い、箸が進まない。
「冗談やないんやで」
真織はそう言うと、やっと私と目を合わせて「この話はこれで終わりにしよか」と笑った。
真織は優しいから、私を責めない。でも、隊長であるイコさんのことも心配で、真織なりに何とかしないとと思っているのだろう。お弁当の白米の上に残っていた海苔を見ながら、私はあのインパクトのある太眉を思い浮かべてしまった。
言い過ぎたかもしれない、と少しは反省していた。苛立っていたとはいえ、好意を抱いてくれていた人に、怖いとか迷惑だとか言い逃げをしてしまったのはまずかったかなと思わなくもない。けれど今までのイコさんは私にフラれても全く気にしていなさそうだったので、あれくらい言わないと気づいてもらえないとも思ったのも事実だ。
しかしどうやら私の放ったボールは、イコさんにデッドボールとして命中していたらしい。真織の大きな独り言で知った、イコさんのポンコツ具合が信じられない。どうせ今回も「キツイこと言ってもカワイイな!」とか言われて終わるだけだと思っていたのだ。
でも、もし。
もしイコさんの告白がどれも本気だったとしたら。真織に言われてしまうくらいへこんでいるとしたら、軽薄だと思っていた彼の言葉が本心からのものだったとしたら。
イコさんが私のことを本当に好きだとしたら、私は思い違いをしていたのではないだろうか。
真織の言葉を反芻していると、午後の授業は全く耳に入って来ないまま、あっという間に放課後になった。ぐるぐると頭の中を回っていたのは、たった一人の男の人の顔だ。
終礼が終わると同時に、私は急いで荷物を纏めてボーダー本部へ走った。運動は得意じゃないけれど、脳の奥が「走れ!」と全身に信号を送り、私の腕を前後に振らせて、足に地面を蹴らせる。
苦手だったはずなのに、私の耳はうるさいと感じていたあの大声を思い出そうとしていた。
生駒隊の防衛任務は本日は無し。ランク戦も無い。もしかしたら、本部に来ていない可能性もある。私も今日は非番なのだけれど、少しだけ機器を触らせてもらって、生駒隊のスケジュールを確認した。学校で真織に聞いても良かったが、彼女はあくまでも中立なのだ。
学校の制服のまま本部の廊下を足速に歩いて、生駒隊の作戦室に向かう。
イコさん、作戦室にいるかな。いなかったらどこにいるかな。訓練室かな。ミーティングくらいはしてるかな。それとも今日は完全にオフかな。
私はイコさんの連絡先を知らないので、本部の端から端まで探すつもりだった。
イコさんに会って何を言おうとか、言い過ぎたと謝罪をするのだとか、何一つ決めていない。でも真織の独り言を聞いて、お弁当の海苔を見て、どうしてもあの人に会いたくなってしまったのだ。
生駒隊の作戦室の前で足を止めて、一息つく。
軽く握った拳で作戦室の扉をノックしようとしたら、その前に扉が横にスライドした。私の拳はまだ宙に浮いているので、誰かが部屋の内側からドアを開けたということだ。
私の声と向こうにいる人の、「あ」という声が重なる。
完全に開いたドアの先には、私の探し人であるイコさんが立っていた。
「こ、こんにちは」
「ど、どうしたん⁈ 今日オフやからマリオちゃんならおらんで!」
イコさんは明らかに動揺していた。そして先日、私が怖いと言ってしまった大きな声を出してしまったことに気づいたらしく、しまったという顔で口を押さえる。
「あの、ちがくて。真織ちゃんじゃなくて、イコさんに会いたくて来ました」
「……俺?」
「今からどこか行かれますか? 少しお時間貰えますか」
「行かんよ。おん。大丈夫。中、入る?」
生駒隊の隊服に換装していたから、これから訓練室に行くつもりだったのかもしれない。でも、イコさんは私を作戦室に入れてくれた。
生駒隊の作戦室は何回か入ったことがあるのに、どこか広く、寂しく感じる。きっとイコさん以外の四人がいないせいだろう。この作戦室に足を踏み入れる時は、いつも誰かが喋っていて賑やかだから。
作戦室の扉の近くには丸いテーブルがある。ミーティングする時に使うのだろう。「好きなとこ座ってな」と、イコさんはそのテーブルを囲む椅子を指差し、声をかけてくれるけれど、座れなかった。一度イコさんを拒絶した私に、彼の優しさを受け取る資格は無い。
そんな私に気づいたのか、奥の部屋の冷蔵庫から冷えたお茶をグラスに入れて持ってきてくれたイコさんは、「ここ座り」と一つの椅子の前にグラスを置いた。氷が浮かんだグラスの中にストローがさされている。
さっきまで隊服だったイコさんは、換装を解いて生身に戻ったようで、私服だった。
「女の子を立たせるのはあかんやろ」
「大丈夫です。慣れてます」
「じゃあ、これは俺のお願い。聞いてくれん?」
ゆっくりと諭すような声で言われてしまえば、私は座るしかない。もたれかかったら後ろにひっくり返ってしまいそうな、背もたれが低い椅子だ。自然と背が伸びる。
私が座ったのを見たイコさんは、私から一番遠い椅子を選んで腰掛けた。
思考がまだ纏まっていないせいか、本部まで走ってきたからか、口の中がやけに乾く。喉の奥が糊で貼りついてしまったかのように、声が出てこない。かさかさに乾いた喉は少し痛い。
イコさんは動かず、私が話すのを待っている。真顔で私を見つめている。この間まで怖いと感じていた威圧感が、不思議と今は平気だった
テーブルに置かれたグラスを手に取って、ストローを吸った。
透明なグラスに注がれている茶色の液体は麦茶の味を想像していたのに、口に広がるのは爽やかな紅茶の味だった。飲みやすいさっぱりとした後味は、たぶんダージリン。
乾燥で固まってしまったひび割れた土が水を吸うように、アイスのダージリンティーは私の喉を潤していく。
「おいしい……」
「このお茶な、マリオちゃんが作っといてくれてるんやで」
イコさんのグラスにはストローは無い。イコさんはグラスの縁に口をつけて、グラスの半分ほどを一気に飲んだ。飲むというよりも、流し込んだといった方が正しいかもしれない。
イコさんがグラスをテーブルに置くのを待って、私は口を開いた。
「……この間は言い過ぎました。ごめんなさい。一方的に迷惑とか嫌いとか言って……」
「待って、それはもう言わんといてほしいねん。ガラスのハートにグサグサくるわ」
イコさんは胸のあたりを押さえて、辛そうな声を出した。
「真織から聞きました。私と喋ったこと報告したり、私のこと聞いてるって」
「あかん。マリオちゃんバラしたん⁈ 俺めっちゃ恥ずかしくなってきたんやけど!」
「冗談ぽく言わないと、私に好きって言えないって本当ですか?」
「…………えっ」
イコさんは固まった。口は開いたまま、目は瞬きもせず動かない姿は、動画が一時停止ボタンが押された状態に似ている。
「私、付き合うなら結婚してくれる人じゃないと嫌なんです。付き合ってすぐに別れるとかダサいし、長い間付き合っても結局私じゃない人を選んで捨てられるのも嫌。時間がもったいない。だから、結婚してくれる人がいい。簡単にカワイイとか付き合ってくれって言ってくるイコさんは軽々しい人で、関西人の冗談なのかと思ってました。私のことが本当に好きなら、どこが好きなのか教えてください」
少し間が開いてから再生ボタンを押されたイコさんは、腕組みをしながら、おそるおそる私に訊ねた。
「一目惚れって言うても信じてくれる?」
「場合によります。見た目だけですか?」
「ちゃう! 最初はマリオちゃんの友だちで、カワイイ子やなって思ったけどな。俺の話で笑ってくれる顔が忘れられんくて、めっちゃ好きやなって思ったら緊張してもうて、でも口で言わんと爆発しそうになるんや。迷惑に思っとったのに気づかんかったのは申し訳ない……けど、俺ほんまに冗談で言ったことは一回もない。それは信じて」
「……はい」
「逆に聞きたいんやけど、ええ?」
私は頷いた。
「なんで結婚してくれる人がええの?」
イコさんの疑問に、今度は私が固まる番だった。
そんなこと初めて訊かれた。今まで私の話を聞いた反応は、大抵重たいとひいたり、呆れたりするだけで、真面目に耳を傾けてくれる人なんていなかった。
「結婚に縛られんでもええんやない? 俺は大学生やし、まだ高校生やん。どうして結婚に拘るん?」
イコさんは私を揶揄うわけでもなく、否定するわけでもなく、本心から疑問に思っているのか、真剣な様子は変わらない。
「……だって、いつか私のこと好きじゃなくなって、簡単に捨てちゃうんでしょ」
「それはちゃうで。俺らまだ子どもやん。責任取れる大人やない。だから結婚なんてまだまだ先の話や。結婚やってゴールやない。けどな、お互いのことしっかり見て信じとれば、ずっと一緒におれるで」
「そんなの理想論です」
「俺、思ったんやけどな、誰かを好きになるのが怖いんちゃう?」
心臓がドキリと跳ね上がる。
図星だった。
私というテリトリーの内に、恋人という存在を受け入れることが怖い。
人の心は簡単に移り変わってしまう。昨日まで大好きだったものが、翌日に嫌いになってしまったり、些細な出来事で心変わりすることだって、きっとある。
別れた後に、私の中にぽっかりと穴が空いてしまうことも怖い。
空いてしまった穴は塞がるのかわからない。埋まることなく永遠に空いたままだとしたら、それはとても恐ろしい。
だから結婚という一つのゴールを約束してもらえない人と、彼氏彼女という関係になる勇気が持てないのだ。そうじゃないと、母の言う「自分を大事にしなさい」という言葉に背いてしまう。
「失敗やって経験やん。別れたってな、いい思い出になるかもしれへんな。無駄なことなんて一つもないで。その時は辛くても、何年か何十年か後に笑えとるかもしれんやん」
「……別れる前提なんですか」
「あ! ちゃう! た、例え話や!」
イコさんは焦ったように早口で言い訳をする。両手をあたふたと動かし、真剣な顔をして慌てる様子はおかしくて、真面目な話をしているのに、笑ってしまった。
「そうや。そう笑ってる顔がな、めっちゃ好き」
おどけたふりでもなく、冗談めいた言い方でもない。噛み締めるようなゆっくりとした低い声が、私の鼓膜を振動させる。
「俺の隣で、ずっと笑っててくれん?」
たぶん今、私の顔は赤くなっているはずだ。顔も首も手も足も、お風呂に入りすぎてのぼせた時みたいに熱い。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるし、手汗が出てきたのがわかる。
私の目の前に座っている人も、真っ赤だった。茹で蛸みたいに赤い。
しかし、いつもキリッと引き締められているイコさんの太い眉毛は元気がなく、力無くハの字を描いている。こんな顔見たの初めて、と思ったけれど、私は毎回毎回イコさんの告白を振っていたのだから、きっと不安なのだろう。
私の中のイコさんは、キメ顔か真顔が多い。だからか、イコさんでもこんな表情をすることがあるのかと、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
もしかしたら、イコさんはこの先ずっと隣にいてくれるかもしれないし、悪いことが重なった結果、気持ちがすれ違って離れてしまうこともあるかもしれない。
たとえ同じ時間を過ごしたことを、いつか後悔することになったとしても。この人とならそれもいいかもしれない。イコさんなら、無駄な時間じゃなかったと思わせてくれるかもしれない。
かもしれない、と断言できない可能性ばかりだが、その中の一つ一つを選択しなければ、いつまで経っても何も変わらない。
母の言う通り、自分を大事にすることも大切なことだ。でも、大事にしたいものを自分の手で掴みに行くことも、時には必要になる。
私は、私の中で積み重なる重石のようになってしまった母の教えを真摯に返してくれ、真っ直ぐな気持ちを向けてくれる目の前にいるイコさんと、友人以上の関係になりたいと思った。
翌日、ボーダー内に広まっていたあの噂は消えた。
その代わり、私とイコさんが付き合っているという噂が瞬く間に広まり、私はまた好奇の目に晒される。
でも、隣にイコさんがいるなら。
いてくれるのなら。
そんなもの、全然気にならないのだ。
(21.07.28)