雨傘


 アルコールで乾杯し、みんなお酒が入って気が大きくなっている中、私は居心地の悪さを感じていた。周りのテンションのついていけなくて、大きな岩の間に挟まれて身動きが取れないみたいに息苦しい。それか、ぽつんと一人だけ別の世界に取り残されたみたいだ。肩身が狭い。
 陽気に笑っているみんなと違い、私の頬はぎごちない。側から見て、上手に笑えているだろうか。テーブルの空気を壊さないように、表情を作るのに必死だった。せっかく奢りなのに、お酒の味も料理の味もあまりわからない。
 店内の至る所から話し声が混ざり合い、巨大な音になって、ガヤガヤと賑わっている。私がいるのはビルに入っている居酒屋で、今開かれているのはいわゆる合コンというやつだった。
 どうして居心地が悪いのかと言うと、私には彼氏がいて、その彼氏に内緒でこの場に参加してしまったから。時計の針が進むにつれて罪悪感も増していく。合コン参加者への罪悪感じゃない。彼氏に対する罪悪感だ。
 砂時計の中に閉じ込められて、真上から後ろめたさが砂となって降ってくる。砂が私の体に積もっていき、私はもがくこともできずに砂の山に埋もれていく。
 やっぱり来なきゃよかった。乾杯が始まる前から何度も繰り返した言葉を、また頭の中で唱えた。なにかしていないと落ち着かなくて、ファジーネーブルを喉に流す。甘さなのか、アルコールなのか、脳みそがぼんやりとしてくるせいで、これも何回おかわりしたのか、忘れてしまった。
 私のアルコール混じりのため息は、きっと誰の耳にも届いていないのだろう。この場にいない、私が合コンに行ってることを知らない辻くんにも、私のため息は届かない。

 彼氏の辻くんは、女の子が苦手だ。すぐ顔を赤くして挙動不審になる。最初は目を合わせてもらえないどころか、顔を背けられていて、会話という会話も難しかった気がする。辻くん、吃るし。
 メッセージアプリのほうが意思疎通しやすいかと思ったけれど、目の前にいるのに電子機器越しに話すのなんておかしいから、私は根気よく辻くんに話しかけた。そこから共通の友だちのひゃみちゃんに手伝ってもらい、数年かけて少しずつ距離を縮めていき、私の顔を見ながら話せるようになった辻くんに半ば頼み込むようにお付き合いを始めて半年ほど。
 付き合う前までは「絶対に辻くんと付き合いたい」という、てっぺんの見えない山を登る闘志みたいなものが燃えていたらしい。私よりひゃみちゃんと話す方が楽そうな辻くんを見ても、なんとも思わなかった。
 しかし、いざ付き合うことになったら。ひゃみちゃんとはなんてことなく話すのに、私にはもじもじと言葉を選ぶような辻くんを見るのが、次第に辛くなってしまった。
 手を握るのだってなかなかしてくれない。二人きりになるのを避けているように見える。私よりもひゃみちゃんといる方が気楽そうに見える。ひゃみちゃんが嫌いなわけでも、辻くんが嫌なわけでもない。もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれない。でも、そう捉えてしまう自分の卑屈さが嫌だし、辛さをより助長させた。
 それに私、辻くんに好きだと言われたことがない。
 つきあえただけで幸せだったのに、それだけでよかったはずなのに。欲張りなもので、いつの間にか私は辻くんからの好意を欲しがるようになっていたのだ。

 そんな時、この合コンに誘われた。私を誘った友人は、私に彼氏がいることを知っているので、本当に人数合わせなのだろう。タダ飯タダ酒でいいから、と言われて断りきれなかったというのは言い訳だ。飲み会で卑屈な心持ちを紛らわすことができるかもしれない、なんて思って参加を決めたのが事実。
 辻くんには飲み会に行くと伝えたものの、私の良心に棘が刺さったみたいにズキズキと痛んだので、ひゃみちゃんには合コンだということを正直に伝えた。誰かに伝えて共犯になってもらい、胸の痛みを誤魔化したくもあり、「やめたら」と引き止めてほしかったんだと思う。
 でもひゃみちゃんは私が欲しかった言葉をなにもくれず、さらりと流しただけだったので、私の全身から棘は抜けるどころか、余計に深く刺さった。

 店の外は雨が降っている。気持ちが晴れないのはきっと雨のせい。そう思って耐えてきたけれど、そろそろ表情筋が痛くなってきた。たまに話しかけられても、あまりに私が素っ気無い返事しかしないから、会話が続かない。つまらない女。空気が読めない女。なんで合コンにきたんだとか思われてそう。そう思われるのは都合がいいのだけど。
 ――辻くん、なにしてるのかな。
 辻くんの知らないところで、彼氏の辻くん以外の男の人と飲み会してるの。バレたら怒られるかな。怒ってくれるかな。視線を逸らさないで、私のことを見て、ちゃんと話してくれるかな。
 はじめて好きになったのは、背筋がピンと伸びた後ろ姿。でも喋ると顔を真っ赤にしたり、ひゃみちゃんの背中に隠れたり、焦って吃りながらも会話を続けようとしてくれる姿がいじらしくて、もっと好きになった。時間をかけてゆっくり近づいて距離を縮めてきたつもりだったけど、辻くんは優しいから無理して私に付き合ってくれているのかもしれない。
 ここまで自分で想像して、だいぶダメージを受けた。
「……ごめん、トイレ」
 じっとイスに座っていることに耐えられなくなって、隣に座る友人に小さく声をかけたが、彼女は私の様子に気づく様子もない。そのままそろりとテーブルを抜け出す。下座でよかった。たぶん私が席を離れたことは誰も気づいていないだろう。
 アルコールに弱くもないけど、強くもない。だけど思っていたよりも飲んでいたらしく、トイレまでの短距離なのに、私の視界と足どりは軽く揺れていた。それでも便座に蓋をして、少し休んでたらそれも治る。顔は赤いまま、鏡でよれた化粧を直した後、時間潰しに携帯を開いた。あの空間に戻りたくなかった。
 なにか連絡きてないかなと見ると、たくさんの着信履歴とメッセージアプリの通知が来ていた。送り主はほぼ辻くんで、私は驚いて携帯を落としそうになる。
 辻くんは電話より文字を打つ方が気楽なようで意外とまめに連絡をくれるけれど、こんなに来たことなんて初めてだ。緊急の連絡かと慌てて一番最後に来ているメッセージを開くと、そこには『迎えにいく』と書かれていた。
 迎えにいく?
 画面を何度見返しても、映っている文字は変わらない。他のメッセージもだいたい似たようなものだ。

『電話出れる?』
『飲み会の場所教えて』
『携帯見て』
 そして、最後の『迎えにいく』。

 場所、言ったっけ。飲み会に行くとしか伝えてなかったはず。考え込んでいると携帯が震えた。振動はなかなか途切れない。たぶんこれは電話で、電話の主は見なくてもわかる。
「もしもし」
 通話ボタンをタップして耳に当てると、荒い息遣いが聞こえてきた。
『前、いるから』
 呼吸の合間合間に絞り出しながら告げられた声は、紛れもなく辻くんのもので。私はカバンを引っ掴んでトイレから飛び出し、店の出入り口を目指した。元々私はお金払わなくてもいいし、盛り上がっている場からいなくなっても誰も気に留めやしない。

 ◆

 エレベーターで一階まで降りて、居酒屋の入っているビルから出ようとすると、ビルの前には本当に辻くんがいた。辻くんは傘をさしながら走ってきたのか、足元だけじゃなくて、髪や服が少し濡れていた。いつも綺麗におりているアシメントリーな前髪もバラバラで、おでこが見えてしまっている。
 前にいると言っていたから当然なのだけど、雨の中呼吸を整えている様子に、思わず「辻くんだ」と呟く。私の声に気づいた辻くんが近づいてきたので、私も傘をさそうとすると、辻くんはそれを制した。
「こ、こっち、入りなよ」
 辻くんはさしている傘から、人ひとり分のスペースを作った。その空いたスペースに入れということなのだろう。
 一瞬、頭の中に「いいのかな」と不安がよぎる。
 辻くん、女の子が苦手だから、私が隣にいっても大丈夫なのかな。でもよんでくれたのは辻くんだ。それに私は一応彼女なのだから。開きかけた傘を閉じて、辻くんの隣を歩くことにした。
 しかし一つの傘に二人で入ると狭い。そして近い。傘を持った辻くんの腕と私の肌が触れてしまいそうだ。触れるか触れないかの近さにある肌が、辻くんのじんわりとした体温を感じてしまい、私は緊張してしまう。
 私の肩が濡れるのは構わない。
 でも、触れるのは。嫌なんじゃないのだろうか。
 気づかれないように半歩だけ離れてみた。辻くんは異性が苦手だからというのは建前で、黙って合コンに行ったという後ろめたさに、彼に近寄るのがほんの少し怖くなったのだ。
 そしてどう切り出そうかと悩んでいると。
「ご、ごめん」
 突然の謝罪に、なんのことかわからなかった。
「たくさん電話して……お、驚いたよね」
 トイレで携帯を見た時の着信履歴と通知のことだと気づく。たしかに驚いたけれど、不審に思ったりはしていない。
「大丈夫だよ」
 謝らなきゃいけないのは私の方だというのに、私の口はたった数文字を口にすることが難しいらしい。喉の奥まで出掛かっているというのに、声にのせる方法を忘れてしまった。
「どうして場所わかったの?」
 辻くんがなにか言う前に沈黙を作らないように、けれどなるべくどうでもいい話をするような口ぶりで訊いた。謝ることすらできないくせに、他のことは簡単に私の口からでていく。
「ひゃみさんに聞いた」
 また。また、ひゃみちゃん。
 ひゃみちゃんに聞いたんだ、とかわいくない私が出てきそうになる。
 そういえば、ひゃみちゃんに店の名前を聞かれた気がする。彼女は最初から辻くんに言うつもりだったのかもしれない。
「……飲み会って聞いてたけど、お、男も、いたんだ、ね」
 う、と呻き声が出そうになるのを、なんとか阻止した。ギリギリのところで止めたため、気管に変な空気が入って咳き込んでしまう。
 不意打ちすぎる。まさか辻くんからこの話題を切りにかかってくるなんて思っていなかった。だっていつも話しかけるのは、私だから。
「ち、ちがうの。人数合わせで合コン行っただけで、決してやましい気持ちは少しもないの。でも黙って行ったのは本当にごめんなさい」
「ご、合コン?」
 墓穴掘った。
「えっと、辻くんはひゃみちゃんからなんて聞いてたの?」
「『今日の飲み会男もいるらしいけど知ってる?』って……」
 さっきの私が言わなくていいことを言ってしまったことに気づく。
 言わなければ、合コンってバレなかったのに。
 バレなかったって、なに。隠さなきゃいけないって思うことは、やましいことをしてるって自覚していることだ。連絡先を聞かれるようなことがあっても教えるつもりはなかった。
 でも、もし逆の立場だったら。
 辻くんが私に隠れて合コンに行っていて、私はそれを知らなかったら。絶対にショックを受けているに違いない。それがたとえつきあいで仕方なくとか、どうしても断れなくてとか、理由がどうであれ、下心がなかったとしても、私は絶対に悲しむだろう。
 だからそれと同じことをされてしまった辻くんが、悲しまない可能性なんてないのだ。
「ご、ごめんね」
 どうしよう。なんて言おう、と考えていたら、また辻くんに先を越されてしまった。
「その……緊張して、話せなくて……つまらなくて、いつも、ごめん。だから、」

 ――わ、別れたく、ない。

 雨が傘に弾かれる音にかき消されそうになる中で、私の耳に届いた辻くんの声は震えているようだった。
「……別れないよ」
「えっ?」
 見上げた辻くんの顔は真っ赤だ。瞳の表面が、心なしか潤んでいるように見えた。揺らぐ瞳に、薄い水の膜が波打つ。もしかしたら光の加減かもしれない。
「別れないよ。辻くんが私のこともう嫌いになったら、それは仕方ないとは思う、けど」
「き、嫌いになんて、ならない。俺といるのがつまらなくなって合コン行ったんじゃ……」
「人数が足りなくて、タダ飯タダ酒で座ってるだけでいいって言われたからだよ。じゃなきゃ行かないよ。私は辻くんのこと、大好きだもん」
 大好き、と私の言葉を聞いた辻くんは、至極安心したようにふにゃりと眉を下げた。その後すぐにハッとなにかに気づき、視線を右へ左へ動かす。うろうろ動く二つの瞳はなにかを迷っている。それから覚悟を決めたように口を開いた。
「ほ、本当は、いつもちゃんと言わないとって思ってる、んだけど……」
 おろおろとした辻くんの姿は昔を思い出す。
 まだつきあう前。目が合うだけで視線を逸らして、踵を返す辻くんの腕を掴んで逃がさないようにしていた時みたいだ。
 でもあの時と違うのは、辻くんが私から逃げないことと、辻くんが私になにかを言おうと口をぱくぱくと金魚のように開け閉めしているということ。
 辻くんを待っていると、彼の服の、私に近い肩とは逆側が濡れていることに気づいた。よく見ると濡れていない生地よりも色が濃くなっている箇所は肩だけではなく、逆側の半身の殆どだった。そして辻くんの傘に入った時、確かに私は半歩離れたはずなのに、私の肩は全く濡れていなかった。肩どころか服も濡れていない。
 辻くんは優しい。
 言葉にできなくても、不器用に、優しさを与えてくれる。
 不安がっていた自分が馬鹿みたいだ。言葉にしなくても、辻くんはこうして態度で気遣ってくれているのに。
「俺も、好きだよ」
 ずっと聞きたくて、聞けなくて、ようやく聞けた辻くんからの好きの二文字に、私はどうしようもなく嬉しくなり、触れてしまいそうだったすぐ隣にある彼の腕に抱きついたのだった。
(21.09.14)



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