「ああいったことはやめてくれないか」
ボーダー本部の滅多に人が通らない廊下で、東さんは苦々しく言った。言いたくなさそうにも聞こえるし、めんどくさそうにも聞こえるし、言葉通り困っているようにも聞こえた。たぶん予想は全部当たりで、そういった感情をぐちゃぐちゃにひっくるめたものなのだろう。
余裕めいた表情を浮かべることが多い東さんなのに、今は不機嫌さを隠す気が全くないらしい。無意識かわざとなのかはわからないけれど、何回もため息を吐きながら両腕を胸の前で組み、その先の人差し指は一定のリズムを刻んでいる。感情をわかりやすく露にするなんて珍しい。人がいないせいかもしれない。私はどこか他人事のように眺めながら、東さんがこんな表情をさせている原因を考えることにした。
スナイパーの合同訓練が終わった後、最近C級隊員の子から指導を頼まれることが増えた。
最初は一人だけだった。割と成績のよかったC級隊員の彼は突然うまくいかなくなったらしい。なかなか的に当てることができず苦戦している様子だった。
前はできていたことが急にできなくなることは、誰にだってある。私もそういう時期があったし、何回引き金を引いても狙った所に当てることができなくて、もうやめてしまおうかと考えたことすらあった。そんな時に東さんに声をかけられて、直すべき箇所を教えてもらって乗り越えることができたので、浮かない顔をしたその隊員と昔の自分を、つい重ねてしまった。
小石に躓いただけなのか、壁にぶつかってしまったのか。悩みは人それぞれだから、お節介かもしれないと思いながら声をかけて話を聞いて、何回かアドバイスをした。結果、彼は以前のように命中するようになったらしい。
それからも訓練後に練習をみてほしいと言われたので私なんかでよければと教えていたら、あれやこれやと人数は増えていた。まだまだ半人前なので、私ごときが師匠と呼ばれるには烏滸がましい。私が教えられることなんて基礎の基礎くらいだし、ほとんど東さんの受け売りだ。
ゲームのチュートリアルを説明するキャラクターのような気持ちで教えていたが、さすがに人数が片手の指の数を超えてしまうと、指導する時間ばかり増えて他の事に時間を割くことが難しくなってきた。訓練室の利用可能時間ギリギリまで居座ることもある。
私よりもA級の人やB級で教えるのが上手い人を紹介すると言っても、私の教え方が良いと言われてしまえば断れなかった。まあ、A級の人に緊張する気持ちはわからないでもない。
だから最近はC級隊員の子達にかかりきりだった。恋人の東さんを差し置いて。
「ああいったことって、指導を、ってことですか?」
「いや、それは構わない。お前の教え方は無駄がないからな」
東さんの人差し指は、トントントンとリズムを刻むことをやめない。戦闘員が増えることは良いことなので、ボーダー隊員の東さんとしては本心なのだろう。
ボーダー隊員としては。
素の、何の肩書きのない東春秋というただ一人の男して、何か嫌なことがあるようだった。
東さんが望む通りにしているはずだ。予定が入ったらその都度連絡しているし、起きた時も家をでる時も帰宅する時も寝る前にもメールを送っている。友人と食事をする時は写真を撮ってお店の名前と一緒に送っている。
付き合い初めの頃に、東さんが「俺の目が届かないところにいると心配になるな」と冗談のように言ったから、東さんを安心させようとメールをするようにしたら、それが習慣になった。面倒と思ったことはない。私が指示されてそういうことをしていると勘違いした友人に「それって重くない?」と言われることもあるけれど、こんな簡単なことで安心してもらえるなら安いものだ。
でも、なんだろう。他に何か気に障るようなことをしてしまったのか。考えても考えてもわからない。
「ごめんなさい。私、何かしてしまいましたか?」
もしかしたら私の無自覚な行動が東さんを傷つけていたのかもしれない。最近の行動を振り返ってみても心当たりがないので、素直に謝った。
「いや、謝って貰いたいわけじゃないんだ」
――俺の……俺が勝手に、と東さんは煮えきらない態度で小さく独りごちている。
こういう時は待った方がいい。経験が告げてくるので、もごもごと言い淀んでいる東さんの言葉を待っていたら、
「最近よく自販機の前でC級の奴といるだろう……二人で」
と、続いた。東さんの指したC級の子とは、私が最初に教えた男の子のことだろう。
「休憩しているだけですよ」
連続で指導をしていると私も疲れてしまうので、時々自販機で飲み物を買って休憩をとると、彼もよくついてくる。訓練室の休憩ブースにあるベンチに座って飲みながら他愛のない話をして、また訓練に戻るだけだ。
彼は指導してもらっているお礼と称して、私に飲み物を買おうとする。私よりも身長は高いけれど、年下に奢らせるなんてできないので、毎回断っている。でもたまに押しきられてしまい、奢ってもらっているのも事実だった。確率的には五回に一回くらい。逆に私が奢ろうとすると、彼は頑なに断る。たまには私の顔をたててほしい。
二人でいるとはいえ、人目のある休憩ブースだ。隣のベンチに知り合いが座っていて、複数人で談笑することもある。話している内容も雑談や練習についてが殆どなので、これくらいなら東さんにメールしなくても大丈夫だろうと連絡していなかった。指導をすることについては前から告げていたし。
けれど、やっぱり何も言っていなかったのはまずかったのだろうか。
「……ああ、そうだな。それはわかってるんだが」
珍しくもごもごと言葉を濁す東さんに、私はますますわからなくなった。
「東さんも昔よく休憩する時、私に飲み物奢ってくれたじゃないですか。あれと同じですよ」
「だから嫌なんだよ。必死にお前の気を引こうとしていた自分と被るんだ」
まだ私が新米だった頃、伸び悩んでいた私に声をかけてくれたのは東さんだった。銃を構える姿勢などの基礎的なことから戦術のたて方まで教わり、休憩時間にはそれ以外のことを話すようになった。趣味とか、休みの日はどこに行くとか。そうしているうちにボーダーだけでなくプライベートでも会うようになってしばらくして、関係が師弟から恋人に変わった。
東さんから好意を伝えられた時は嬉しかった。優しくて疑問に思ったことをなんでも教えてくれて、なんでも簡単にこなしてしまう余裕があって、みんなから頼られている東さんが、私のことを好きだと言ってくれるなんて夢かと思った。後から知ったのだけど、東さんは少しでも私と話をしたくて飲み物を奢ってくれていたらしい。飲み物を奢るのは口実で、実際は私の休憩時間を独占したかったそうだ。
東さんは私よりも歳上で大人だと思っていたけれど、かわいいところもあるのだと、この人のことをもっと知りたいと思った。一緒にいる時間が増えていくと、東さんも嫉妬をしたり、些細なことを気にしたり、粗雑だったりと、今まで隠してきたという様々な一面に触れた。知っていくうちに完璧な大人なんていないのだと気づいた。私が見てきた東さんは、彼が作り上げた「大人」としての東春秋だと。だから東さんの時々溢す不安や心配を少しでも無くそうと努力していた。つもりだった。
「東さんが心配するようなことは何もありません」
「自覚がないのか? 困ったな」
少しでも東さんを安心させたいのに、向けられた目は冷ややかなものだった。
「わかりやすく尻尾ふって懐かれてるじゃないか」
情けないだろう、と東さんは嘆く。
「不安なんだ。俺みたいなのじゃなくて歳の近い男の方がいいと言われるのが。お前の隣に俺じゃない男がいると――恐ろしくなるんだ」
胸元で組まれていた東さんの両腕が解かれ、私の体にそっと回った。簡単に振り解けてしまうくらいの弱々しい腕だ。
力強く抱きしめてくれたらいいのに、東さんは私を壊れ物のように扱う。粉々に砕けてしまう硝子なんかじゃないのに。不安だというなら、私がふらりとどこかへ消えてしまわないようにしがみついてくれたらいいのに。あんなに戦術に長けているくせに、東さんは私の逃げ道を完全に塞ぐようなことはできない。鬼になりきれない男だ。人の心と狙撃手の心構えは別物らしい。
大人になると臆病になるんだ。東さんはたまにそう溢す。大人はなかなか本音を言い出せなくなるらしい。それはとても窮屈そうで、だったら私は大人になりたくないと思ってしまった。
東さんは、私がどれだけ東さんのことを好きかを知らない。知ろうとしない。いつも私がいなくなってしまったら、というたらればを頭のどこかに置いてしまっている。ふがいない人。失うことばかり恐れている人。与えられるものを素直に受け止められない人。私だけに見せる東春秋という男の一面に、馬鹿だなあと思う。でも、私は東さんのそういうところが好きなのだ。何を考えているかわからない眠たそうな瞳が、私だけを見て、私しか映していないのがたまらなく嬉しくなる。もっと私だけを見てほしくなる。
首を上に向けて、視線を合わせた。
「東さん、言ってくれないとわかりません。私にどうしてほしいんですか?」
東さんの黒い瞳の中で、私が訊ねる。
沈黙が続く。
難しい顔をした東さんは、どちらの自分でいようとしているのかを悩んでるのだろう。大人でいるか、いないか。本心を言って私に呆れられるのが怖いなど思ってるのだろうか。言っていいものなのかと悩んでいるのだろうか。気持ちがぐらぐらと揺れているのか、東さんの小さな瞳もゆらゆらと動いている。まるで息を軽く吹いただけで簡単に消えてしまう蝋燭の灯みたい。
そして私の首が疲れてきた頃。漸く決意したらしい、東さんの唇がゆっくりと言葉を吐き出した。
「……俺以外の男と、二人きりにならないでくれ」
本音を聞き出せた歓びにどうしても緩む顔を抑えきれない。こんな顔を見られたくなくて、東さんの胸元に顔を押しつける。広くて背中に腕を回して少し力を込め、わずかに震えた肩に囁いた。
「だいすき」
(21.09.25)