1.春雷


 彼が剣を振るうたび、空に稲妻が走る。
 まるで雷のようだと思った。
 私の目に焼きついて離れない、春の雷。

  ◇

 まだ寒さの残る三月。暦の上では春だけど、桜の蕾は固く縮こまっていて、花咲く気配はない。
 大学生になって初めて迎える春休み。
 暇を持て余した大学生である私は、バイト三昧の日々を送っていた。去年の今頃は受験が終わって、新しい生活にソワソワしていた。一昨年の今頃は、来年は受験だと必死に勉強していた。大学は人生の夏休みと言う人もいるが、まさにその通りで、どんどん怠惰になっている気がする。
 昼過ぎまで寝て、夕方からシフトに入り、終電近くに帰る。そんな毎日だ。バイトはよくある飲食店。昼間のシフトも時々入れてるけれど、夜のシフトの方が圧倒的に多い。
 去年から住み始めた学生マンションから駅までは、国道に沿って歩けばいい。だけど、それだと少しばかり遠回りになる。朝は家を出るギリギリまでベッドの中にいたいので、土地勘がついてからは裏路地を駆使して、時間を短縮することを覚えた。
 いつもと同じだった。
 今日のバイトも夜シフトなので、駅まで近道しようと人通りの少ない細道を歩いていた。今日は新人が入るから、普段よりもシフト人数が多いらしい。メンバーを思いだしながら「教育係は誰がなるんだろう。私いなくてもよくないか」と歩いていると。
 突然、警報が鳴った。
 危機感を抱かせるサイレンの音が辺りに響く。音が近い。それはつまり、近くにネイバーと呼ばれる侵略者が現れたということ。
 三門市のネイバー出現率が高いことは知っていた。
 高校の時、三門の大学に行くと言えば、周りに心配されたものだ。第一次大規模侵攻というのは、ここから遠く離れた私の地元でも話題になったから。けれどそれは数年前の出来事。私の中でテレビとか新聞の中のことで。まさか自分がそんなものに遭遇するわけがないと、どこか他人事のように考えていた。だから「まあ大丈夫だよ」と言ってのけたのだが――そんなことはなく。
 まさに今。その他人事が、自分の身に降りかかっていた。
 こんな近くで警報が鳴り響くのは初めてのことだった。遠くの方で鳴っている小さい警報や爆発音を聞いたり、ネイバーの出現をニュースの速報で見ることはあったけれど、耳を塞ぎたくなるほどの音は、今までなかった。
 マンションに戻った方がいいのか迷う。でも駅に行けば人がいる。ここからなら駅まで走った方が近い。誰かといればきっと大丈夫だろうと、私は走ることを決めた。
 走っていると、道の先に黒い小さな球体が浮いていた。妙な胸騒ぎがした私は足を止めた。握り拳くらいの丸を見つめると、それはバチバチと音を立てながら一気に大きくなる。私が両腕を目いっぱい広げても足りないくらいの大きな穴だ。空中に穴なんて開くわけないのに、まるでどこか異次元と繋ぐ扉のように見えた。
 その中からにゅうっと現れたのは、私の体とは比べ物にならないくらいの、白い大きな何かだった。一体だけじゃない。わらわらと数体出てくる。
 四足歩行の体は二階建ての家くらいの高さで、特徴的な巨大な口を持っている。爬虫類に似ているけれど、動物園で見た爬虫類とは大きさが全然違う。開いた口の中には人間のような歯があった。その奥の、丸い目のようなものが私を見ている。あれが目なのかわからないけれど、私は初めて肉眼で見た得体の知れない何かに恐怖を感じていた。
 そのうちの一体は巨大な口を最大限に開いたまま太い首を伸ばし、私に近づいてくる。
 あんな大きな口、きっと一飲みにされてしまう。
 これ、ヤバい。ほんとに。映画とかテレビのドッキリ番組みたいな作りものなんかじゃない。全身がそう訴えてる。人間の本能ってやつが、逃げろって叫んでる。なのに、わかっているのに、脳みそと手足を繋いでいるはずの神経は、糸が切れてしまったかのようだった。足が動かない。足だけじゃない。手も。まばたきもできない。体のすべてが反応しない。頭が真っ白になる。
 食べられる。私、死んじゃうの。
 ネイバーに襲われた人がどうなったか、ワイドショーでたまに話題になってるけど、今のところ何も判明していない。事実が判明していないから世間は行方不明と片付けてしまうけれど、でもみんな本当のところはわかっている。いくら捜索しても、死体も骨も出てこないのだから、きっとこの地球上のものではない巨大な何かに食べられてしまっているんだ。
 甘く見てた。危険区域に入らなければ、大丈夫だって心のどこかで油断してた。
 恐怖に支配された体は、まぶたを閉じることもできない。
 どんどん私の視界を埋めていく白い巨体。
 死にたくない。だれか、だれか助けてと、誰もいないのに何かに縋ろうと頭の中で必死に唱えていると。
 ――稲光が走った。
 日が暮れるにはまだ早い。空は晴れている。雨は降っていないし、雷を連れてくる黒々しい雲もない。でも、確かに雷のような光が見えた。そして私を食べようとした巨大な何かは真っ二つに割れていた。二つの塊は力無く地面に倒れ、ぴくりともしない。
 また閃光が走る。
 その光を辿ると、出所はどうやら二本の刀だった。白く煌々と輝く日本刀のような見た目をしている。あまりにもスピードが速いので、刀が上下に、左右に振われるたびに、刀の残像が雷のように見えるのだろう。
 刀の持ち主は、黒い丸から出てきた何かを、次々と切っていく。まっすぐに敵だけを見て、空中を跳び、剣を振るう。その度に雷が生まれる。私を救ってくれた雷。美しい光の筋に見惚れてしまった。
 そうして私は助かったという安堵感と、自分の身に起きた先ほどまでの死への恐怖、そして非日常的すぎる目の前の光景に、へなへなとその場に座り込んだのだった。


「大丈夫か?」

 どれくらい座ってたのだろう。三十分も経っていない気もするし、二時間くらいの映画を見ていた気もする。
 男は私に手を差し伸べる。その手を取って私は立ち上がった。辺りを見渡すと、あの白い巨大な何かは、全部残らずバラバラになって地面に落ちていた。
 さっきまで動いていたこれらを切って、私を救ってくれたのは、目の前にいる男なのだろう。私には為す術がなかったのに、いとも簡単に倒してしまった。黒いロングコートを着た灰がかった髪の男だ。少年ほどじゃないが、まだ幼さが残った顔立ちをしている。

「これ、なに?」
「ネイバー知らねーの?」

 これがネイバー。テレビで見たことあったのに、実際に遭遇するとわからなかった。いや、わからなかったのではなく、恐ろしくて思考が止まってしまったのだ。三門市で生活しているのに、まさか自分がネイバーに襲われるなんて、夢にも思っていなかったのである。

「触ってみるか?」

 もう動かねえよ、と続けられるが、先程まで自分を食らおうとしたモノを触るなんて出来やしない。そんな簡単に気持ちを切り替えられない。
 もし彼がここに来てくれなかったら、今頃どうなっていたのか。私は想像してぶるりと震える身を、両腕で抱き寄せた。

「あ、忍田さん? バムスターが五体。全部倒したぜ。民間人が一人襲われてた。民間人にケガ? ケガは……見た感じなさそうだけど」

 誰かとやりとりしているのか、男は私の全身を見ながら状況を伝えていた。話し終えると、男は「ボーダーわかるか?」と私に訊ねる。
 ボーダー。名前は聞いたことがある。ネイバーと戦う組織だったはずだ。

「一応ケガしてないか検査するらしーぜ。迎えがくるからここで待ってろ」
「あ、あなたは」
「まだネイバー出現するらしいから俺は行くわ」

 じゃあな、と言われた。私は「待って」と呼び止める。

「あなたの、それ。雷みたいだった。すごく、きれいだった」

 鞘に収まった二本の刀を指差すと、男は何を言われているのか理解したようだった。

「そんなこと言われたの初めてだな」

 今度こそ男は地面を蹴って、どこかへ行ってしまった。

 ◇

 黒いロングコートの男が言った通り、彼が去ってから迎えはすぐに来た。スーツのようにも、制服のようにも見える服を着た優しそうな女性は私を車に乗せて、また車を走らせる。
 どこに連れていかれるのだろう。ボーダーかと思いきや、到着したのは普通の総合病院だった。ボーダーの融通がきく病院らしい。
 夜間救急の入り口から入る。立って歩けると言っているのに車椅子に乗せられ、一通り検査してもらった。特に外傷もなく心身的にも問題はないとのことで、私はその日のうちに帰路へ着くことができた。

 真っ暗な部屋の電気をつけて、バッグを床に放り投げて、ベッドに座る。
 マンションの、私の部屋だ。ローテーブルの上に置きっぱなしの中身が残っているコップも、蓋の開いたままの化粧水も、帰ってきたら開けようと思ってまだ封を開けていない通販の段ボールも、家を出る前と何一つ変わっていない。
 私は夕方までこの部屋にいて、化粧をして、鍵をかけて、いつもと同じように家を出たのだ。
 そうしたら、あんなことに巻き込まれて――あれ、私どうしてあの道を歩いてたんだっけ。何か忘れているような――あ。
 バッグから携帯を取り出すと、バイト先からメールや電話が来ていた。いろいろと自分の身に起こりすぎて、バイトのことなんてすっかり忘れていた。でも向こうからしたらバイトには来ないし連絡もつかない私はただの無断欠勤野郎なわけで。
 急いで折り返し、ネイバーに襲われて病院に行っていたことを伝えると、数日は休んでいいと心配されてしまう始末だった。
 そのまま後ろ向きにベッドに倒れ込み、ぼおっと天井を眺めていれば、ようやくいつもの日常に戻ってこれた気がした。

 黒いロングコートを着た、私の命の恩人。
 すごかった。簡単にネイバーを倒してしまった。
 あの人、たぶんボーダーの人なんだろうけど、私が感じていた恐怖を一瞬で薙ぎ払ってしまった。怖くないのかな。
 何歳くらいなんだろう。
 名前、聞いておけばよかった。
 瞳を閉じる。

 春の初めに出会った雷。
 まぶたの裏側で、あの稲妻がまだ光っていた。




(21.09.09)



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