ネイバーに襲われたあの日から数週間が経った。
私の日常は、もうすっかり元に戻っていた。
何か体調に不安があったら連絡をと貰ったボーダーの相談窓口の紙は、冷蔵庫の扉にマグネットで貼ったまま。記載されている電話番号を鳴らすことは一度もなかった。バイトもシフト通りに入っている。
あの日のことを知っているのはバイト先の人だけ。それだって無断欠勤と数日間バイトを休ませてもらった理由を話さないわけにはいかないから。訊かれたら答えるけれど、自分から話すのはどうも気が引ける。だから大学の友だちには伝えていない。たまに写真を載せるだけのSNSにも書いていない。
なぜなら、私は何もできなかったからである。突如現れたネイバーに体が固まって、身動き一つとれずに、死を覚悟するしかできなかった。抵抗すらできなかった。なので、襲われたんです。怖かったんです。と言い回るのは、情けない自分を晒すようで。たまにされる好奇心からくる遠慮のない質問に返答する時、言葉を選びながら、恥ずかしさすら感じていた。
もっと弱音を吐けばいいのに。辛かったら辛いって言ってもいいんだよ。
実家にいた時、よくそう言われていた。歳の離れた弟がいるせいか、お姉ちゃんなんだからしっかりしないとって、昔から無意識のうちに思っていたのかもしれない。側からすれば私は無理をしているように見えて、だから気遣いの言葉をかけられたのかもしれない。でもひとつ言っておくと、それは私にとって苦ではなかった。手を抜くことだって覚えたし、頑張れば頑張っただけ認めてもらえるような気がして、努力することは辛くはなかった。けれど、こうやって弱音を素直に吐けないのはかわいくないと思う。
一度、親から電話があった。まさかボーダーから実家へ連絡でも行ったのだろうかと驚いたけれど、春休みくらい顔見せにきなさいと帰省を促す内容だった。近況報告をし合う中で、私はバイトが忙しいとしか言わなかった。あの日のことは伝えなかった。ネイバーに襲われたなんて言ったら、きっと要らない心配をかけてしまう。最悪、三門から地元へ戻らされる可能性だってある。だから言わない方が吉。
それにもうネイバーのことはほとんど忘れている。そういえばこんなことあったな、くらいの過去になっている。足がすくみ、本能が訴えるほど恐ろしいと思っていたはずのに、時間が経てばその記憶も風化していくのはどうしてだろう。
だけど忘れるどころか時間が経つに連れて、私の記憶を侵食していくものが一つだけあった。
あの黒いロングコートの人のこと。
私を助けてくれた彼のことが忘れられなかった。
喋ったのだって一言二言だし、彼はネイバーを倒したらすぐにどこかへ行ってしまった。数日経ってから気づいたのだけど、私は助けてもらったお礼を言っていなかった。それが心残りになっていた。
病院でボーダーの人に、名前を訊いておけばよかった。さすがに仲間の名前を知らないはずがない。守秘義務で断られる可能性はあるかもしれないけれど、訊くのはタダだ。
インターネットで調べてみたところ、ボーダーは常に隊員募集はしているものの、謎の多い組織だった。組織の目的はネイバーを倒し、市民を守ること。三門市の警戒区域の真ん中にある立法形の建物が本部。警戒区域の外周りに支部が六つあるらしい。役職がある人の名前は載っていたけれど、五百人以上いるという隊員の名簿はなかった。プライバシーの点から全隊員の氏名の公開はしていないようだ。
ボーダー隊員で顔と名前がわかったのは、防衛業務だけでなく広報業務もする嵐山隊の人たちくらい。ここで知ったのだけど、隊員は数人でチームを組んで行動するらしい。その嵐山隊の人たちはみんな揃って赤い服を着ていた。あの人とは違う服だ。もしかしたらチームごとに服は違うのかもしれない。
一通りボーダーのホームページを見てみたが、なにで、どうやって、あのネイバーとやらを倒すのかはわからなかった。それに一般人の入れない警戒区域の真ん中にそびえ立つ本部の建物は、遠目から見て異質だ。街のシンボルになりつつもあるあれは、あまりにも大きいのだ。なのにその中も、内状も不透明。だから変に想像されて、マスコミとかアンチボーダーに叩かれるんだろう。
そういった人の中には、ネイバーのせいで不幸になって、そのやり場のない想いをボーダーにぶつけるしか術がないのかもしれない。出る杭は打たれるように、とりあえず気に食わないからという理由で批判しているのかもしれない。人は疑い、否定することから掛かるから。週刊誌の見出しでも「ボーダーの謎とは⁈」とあることないこと書かれている。
ネイバーに襲われ、救われた身としては感謝しかなかった。ボーダーがなければ、私はきっと今頃生きていないと思う。とはいえ、その恩を返そうとボーダーに入隊しようとは思わない。おそらく入隊する人は正義感や責任感に溢れた人ばかりなのだろう。街を守ろうとか、家族や友人を守ろうとか。あいにく私はその正義感を持ち合わせていなかった。だって、自分があんなのと戦えるなんて思えない。どうせ大学を卒業したら地元に戻るのだから、あと三年穏便に過ごせればいい。
桜の蕾が花開き始め、満開を迎えると、私の春休みは終了した。
大学生活は二年目に入る。春休みの間は昼まで寝ていたので、昼夜逆転しかかっている生活を改めなければならない。シラバスが公開されてから前期の授業を組み立てると、やっぱり一限の授業がある日が出てしまった。去年他の授業との兼ね合いで取れなかった必修科目を履修しなければならず、それが一限だったのだ。前日のバイトがラストまでだと朝起きるのがキツいから、なるべく一限は回避したかったけれどこればかりは仕方がない。
せっかく桜が咲いたというのに、花びらを散らすような風ばかり吹くのはいじわるだ。風が吹くたびに花びらが舞うのはきれいだけど、地面に落ちて踏まれてちぎれたり丸まる花びらは、きれいとは真逆の感想を抱かせる。木々を小さな花となって彩り、空中を舞い散るところまでは美しいのに。少しでも汚くみえると、すぐに道に落ちているゴミと同類になってしまう。
せっかく髪の毛をセットしても、歩いているうちにぼさぼさにされてしまうので、この春風は本当にいじわるだ。お気に入りのスカートを履いても風で捲れてしまう。手でおさえながら歩くのが面倒になってくる。ズボンにした方がよかったかもしれない。この暴風はまさに春の嵐のようだとニュースで言っていたけど、嵐なら大学を休校にしてほしい。
一限の授業が終わり、二限もまた必修科目のため、教室である大ホールへ移動しようとキャンパスを歩いていると、私と同じくらいの背をした男が歩いていた。
あの後ろ姿はきっと風間だ。風間蒼也。去年、入学したばかりの時、授業が同じだったことから知り合った友人。真面目かと思いきや、たまに授業を休んでいる。意外と不真面目なのかの思いきや、私よりレポートをまとめるのがうまい。後ろからならベリーショートカットの女に見えなくもないが、服や鞄は男物なので間違いない。歩き方も、女子にしてはガニ股だし。ときおり吹く春特有の強い風に揺れることもない。
「かざ――」
ま、と続けようとして、私は風間が一人で歩いてるのではないことに気づいた。誰かと並んで歩いている。隣を歩いている男は風間よりもだいぶ背が高く、その身長差は頭一つ分ある。スタスタ歩く風間に対し、隣の男は大股でのんびりと歩き、風間に話しかけているようだった。
誰だろう。あんな人、うちの学部にいたっけ。去年、風間あんな人と話してたっけ。
なんて考えながら歩いていたら、途切れた私の声は風間の耳にちゃんと届いていたらしい。風間は音もなく、くるりと振り向いた。その無駄のない動きに、私は時々ギョッとしてしまう。運動神経が良いとかスポーツをしているとか、そういったものじゃない。これをなんと説明していいのかうまく思いつかないけれど、言えるとすれば、風間は不自然なほど体幹がブレていないのだ。
目があったので「おはよ」と言えば、風間も短い挨拶をくれた。
風間の隣の人にも挨拶しようと、首を持ち上げ、顔を見ると――それはあの人だった。
向こうも私を見て、お、と何かに気づいたような顔して、風間に耳打ちした。
黒いロングコートの、あの人。見間違いじゃないか目を擦って、私の瞳のピントがあってるか確かめたい。けれど目を擦ったらアイシャドウとかマスカラとかアイラインがぐしゃぐしゃになってしまう。なので数回まばたきをすると、また、まぶたの裏で雷が光ったような気がした。
「ネイバーに襲われたらしいな」
私の意識を引っ張るように、風間が言った。カラコンをつけているみたいな赤い瞳がじいっと私を見ている。
どうしてそのことを風間が知っているのだろう。春休みのあいだ風間と連絡をとった覚えはないし、バイト先の人に風間の知り合いはいないはずだ。
悪いことをしていないのに怒られているような気持ちになるのは、たぶん風間の表情筋が機能していないからだ。鋭い目つきと淡々とした物言い、そして足りない笑顔で風間はたまに損してると思う。一年かけてだいぶ慣れたそれはクールと言えればいいのだけれど、でもやっぱり私がなにか言うのを、真顔でじっと待っている風間の様子は責められている気持ちになる。
「そーそー。それで助けたのが俺ね、風間さん」
ひょい、と。私と風間のあいだに入ったのは、風間の隣にいた私の探し人だった。風間に向けられていた意識がそちらに向く。
「――あ、あの時はありがとうございました」
彼は「ケガしなくてよかったな」となんてことないように言った。
この時をもって、私の心残りだった「助けてくれた恩人にお礼を言うこと」が無事に達成された。よかった。言えて。こんな簡単に会えるなんて。今宝くじを買ったら当たるかもしれない。
「太刀川、邪魔をするな」
達成感に浸っていると、風間が割って入ってきた。恩人の名前はタチカワというらしい。
私はなるべく声を落として風間に訊ねる。
「風間、この人と知り合いなの? どうして私がネイバーに襲われたの知ってるの?」
「知り合いも何も。俺もボーダーだ」
「え、聞いてないんだけど」
「訊かれてないからな」
おかしなことを言うな、と風間は続けた。この調子からして、私が訊かなかったら卒業するまでボーダーのことを話さなかったのだろう。嘘をついていたわけじゃない。隠していたわけじゃない。訊かれなかったから言わなかった。ただそれだけ。それを冷たいとか薄情とか思う人もいるかもしれない。私は、そういえば風間はそういう奴だった、とだけ。
知らない相手と仲良くなる時って、自分の情報を小出しにして、たとえば兄弟がいるとか住んでるところとか好きな歌手とか食べ物とか、自分との共通点を見つけて共感したり、なんか違うなと思うところはすり合わせていく。もちろん合わないところだってあるけれど私たちはそれを繰り返して、友だちになれるかなれないかを無意識的に決める。
風間は試験の日とかレポートの締め切り日とかは教えてくれるけれど、家族構成とかどこに住んでるとかは自分からはあまり話さない。だから最初とっかかりにくい。すべてを知りたいわけじゃないけれど、知らなさすぎるのも、会話をする際に困る時もあるのだ。
いい奴なのはわかっている。ケアレスミスとか教えてくれるし、道を歩いていて段差があるところは教えてくれる。学食のセットについているデザートが私の好きなものだった時たまにくれたりもする。でも、なんか、壁があるというか。授業を休む理由を聞いたことがないし、バイトをしてるとか聞いたこともない。
その理由が、ボーダーだったのだ。
たまに授業を休むのも任務だったのなら。それなら納得がいく。私たちの通う大学はボーダーと提携しているらしいので、そこそこ単位に融通がきくのかもしれない。
「風間さんの知り合いだったんだな。なら、センパイだ」
「年下……?」
「太刀川は今年入学した」
タチカワさんを見上げながら、私は驚いてしまった。私より年上だと思っていたのだ。あごに髭があるのも、その原因の一つだ。私の記憶の中のタチカワさんは髭はなく、幼く見えた。入学するまでに髭を伸ばしたのかもしれない。
「センパイ、頭いい? 風間さんの知り合いなら頭よさそー。どう? 風間さん」
「真面目だな」
風間は、頭がいいとは言わなかった。
「必修の過去問教えてくれよセンパイ」
「あまりこいつに頼るな太刀川。あまり酷いと忍田本部長に言う」
「風間さんそれはずりーよ」
タチカワさんと風間の軽快なやり取りから察するに、私が思っている以上に二人は親しいのだろう。
風間のタチカワさんへの物言いは私に対するものよりも厳しいのに、タチカワさんは慣れたように笑っている。羨ましいような、羨ましくないような。風間がタチカワさんにはよく喋るのも、タチカワさんと仲良さそうなのも羨ましい。でも歯に衣着せない言い方は羨ましくない。
私たちはここがキャンパスの道の真ん中だということも忘れて話していた。
「私はこれから大ホールなの。そろそろいかなきゃ」
腕時計を見ると、もう休み時間は半分以上過ぎていた。ここから大ホールまで近いけれど、席を取りたいからもうそろそろ行かなければならない。
「センパイも? 俺も大ホール。風間さんは?」
「三号館だな。俺ももう行こう」
大ホールは三号館よりも遠い。キャンパスは広いので行き方はいろいろあるのだが、ここからなら歩いて三分くらいだろう。三号館は一分くらい。方向も若干違う。大ホールは道に沿ってまっすぐ進んでいくのに対し、三号館は一番手前の分かれ道を左に曲がって進む。
私とタチカワさんは風間と別れた。
さっきまで風間がいたポジションに私がいる。隣には春休みのあいだ、どうにかしてもう一度だけでも会いたかったタチカワさんがいる。そういえば、タチカワってどう書くのだろう。「立川」だろうか。
「タチカワさんってどういう漢字なんですか?」
口を開くタイミングで風が吹くと、口の中に髪が運ばれてくる。グロスがついた箇所がベトベトするので、指先で拭った。
「センパイ、敬語やめてくれよ。堅苦しいのムズムズする」
たしかに年下であるタチカワさんは私に楽に話しているのに、私は年下のタチカワさんに敬語を使っているのは堅いのかもしれない。目上や年上の人には敬語を使うものだと思っていたけれど、タチカワさんのくだけた話し方はいやなかんじはしない。
少し考えてから「じゃあ、タチカワ、くん」と言ってみた。風間のように呼び捨てできる勇気はなかった。タチカワくんはまあそれならというように頷いた。
「あ、字な、太い刀に川」
「太い刀……刀かあ。ぴったりだね。ほら、私を助けてくれたとき、刀を持ってたでしょ」
「あれは刀っつうか、孤月っていう武器なんだけど……やっぱセンパイおもしれーな。はじめて言われた」
タチカワは立川ではなく、太刀川だった。二本の刀を持っていた彼にぴったりの漢字だと思った。
下の名前は慶。彼の名前は、太刀川慶。心の中で呪文のように繰り返し唱えた。
さすがに授業を一緒に受けられるほど私の神経は太くない。だから大ホールの入り口で別れようとしたら、太刀川くんは当然のように私の後ろをついてきた。
「俺頭わりーし任務で休むこともあると思うから、センパイ教えてくれよ。風間さんには内緒で」
さっき風間が言っていた忍田本部長とやらに告げ口されたくないのだろう。
風間には悪いけれど、恩人に頼られるのは悪い気はしないもので。目の前にいる人といない人とでは、どちらの味方になるかなんて、答えはわかりきっていて。私たちは埋まりつつある席に隣合わせで座った。
ホールに並んでいる机は三人掛けの横長のものだ。明確なルールは試験の時くらいしかないけれど、たいていみんな両端に座って、真ん中の空いた椅子に荷物を置く。三人グループの子たちは仲良く座っているけれど、だいたい三人掛けの机を二人で使っている人の方が多い。
私も迷わず端に座った。太刀川くんは私の隣、つまり机の真ん中の椅子に着座した。私と太刀川くんは身長が二十センチも違うから、机の下に収められた足が窮屈そうにしている。
「これ一年から選べる授業だろ? センパイ単位落としたのか?」
「違うよ。去年は別の必修が入ってて取れなかったの」
「大学って自分で授業決めなきゃいけねえからめんどくせーよな。高校は決められててめんどくせーって思ったけど、自分で決めるのもめんどくせーわ」
もしかしたら、私はネイバーから助けてくれた恩人に幻想を抱いていたのかもしれない。本に出てくる成績優秀、運動神経抜群、完全無欠のヒーローみたいに、どんなことに対しても真面目で完璧な人なのだろうと、どこかで期待していたのだ。
めんどくせーを連呼する太刀川くんはそのヒーロー像とは真逆だ。話を聞いていると、太刀川くんはあんまり勉強が好きじゃなさそう。過去問のことを聞いてくるくらいだし。出欠カードに出席番号と名前を書き終わった太刀川くんの字はあんまりうまくない。
でもそれも人間味があって悪くないなと思った。
(21.09.13)