3.春泥


 桜が散ると葉が茂る。青々とした木陰の下を歩く。ふと上を向くと、木々の隙間から覗く太陽が眩しい。
 でも、嫌いじゃない。
 まだ涼しさが残る風に揺らされる葉と葉のあいだはきらきらと輝いている。ガラスに反射して何色にも変化する光のように、きらきら、きらきらと。目を細めながら、それを眺めるのが好きだ。
 新緑の美しさが、まもなく訪れる夏の気配を知らせようとしている。


 太刀川くんの隣で授業を受けるのが、いつの間にか当然のようになっていた。彼は授業開始時刻ギリギリにくるか、チャイムが鳴った後にホール後方の扉からこそっと入ってくる。ボーダーの任務なのか、授業に来ない時もある。サボりかもしれない。
 一緒に大ホールに入るわけじゃない。連絡先の交換もしていない。約束をしたわけじゃない。だからばらばらに座ってもいいはずなのに、太刀川くんはなぜか私の隣に腰掛ける。
 だから、私はいつもどこに座ろうか迷って、なるべく太刀川くんが座りやすいように、ホールの後ろあたりを選ぶようになってしまった。太刀川くんが来ない時はレジュメは彼の分も貰っておく。
 誰かが座らないよう、空いている椅子に自分の荷物を置いて、太刀川くんが来るのを待っているのは健気な犬のようだ。しかし私は忠犬とはちがう。ご主人様の姿を見た途端、尻尾をぶんぶん振り回す犬ではない。私は太刀川くんの姿を見たら余裕を持って「おはよう」と挨拶をし、荷物を退かして一緒に授業を受ける。
 太刀川くんは授業中、必ず一回はあくびをする。口を大きく開けたり、目を擦りながら小さくしたり、あくびの仕方はまちまち。前日の夜が遅かったのか、朝が弱いのか、ただ単に教授の声で眠くなるだけなのかはわからない。つられそうになるのをなるべく我慢するけれど、たまにどうしても我慢できずに、私もあくびをしてしまう。口を押さえてバレないようにしてるつもりなのに、目敏い太刀川くんはいつもそれに気づき、にやっと共犯者の笑みを浮かべるのだ。その生意気な笑みを見ることができるのはうれしいのだけど、あくびを見られるのはちょっと恥ずかしい。
 授業が終わったあとは並んで学食に行く。最初、一緒に昼食を食べたら毎回そんな流れになってしまった。
 一緒に、毎回、私は太刀川くんとお昼まで共にするようになってしまったのだ。
 食べ終わっても次の授業まで雑談したり、語学の宿題を教えてあげたり。去年履修していた語学の授業を、たまたま太刀川くんも取っているので、覚えている範囲で宿題を見てあげている。勉強できねえ、と本人から申告された通り、私が想像していたよりも太刀川くんの授業への理解度は深刻だった。彼は試験に苦労しそうだ。
 そんなことを繰り返していたら、だいぶ仲良くなった。気がする。
 最初の頃は挨拶ひとつ交わすのに緊張していた。イメージとしては憧れの芸能人に声をかけるアレだ。太刀川くんが机の下で足を組みかえたり、授業内容がさっぱりわからなくて頭の横らへんの髪を掻きむしったりするだけでも、私は太刀川くんの一挙一動に反応してしまい呼吸を止める始末だった。
 だけどそれも今はまったく。慣れというものは恐ろしい。
 でも私と違って、太刀川くんはなにも変わっていない。もちろん良い意味で。
 最初からのらりくらりとしていて、自然体で、着飾らないところが親しみやすい。なのに解けない問題の答えをうまく私から聞き出したりと、ちゃっかりしているところもある。風間に「甘やかすな」と小言をもらうけど、でも太刀川くんに頼まれると仕方ないなぁと思ってしまう。手のかかる子ほどかわいいって言うし。
 たぶん太刀川くんには、人の懐に入るのが上手な才能があるのだ。

「あ」学食で腹の虫を満足させたあと、真向かいに座る太刀川くんが呟いた。

「嵐山、好きなのか?」

 指差されたのは椅子に置いた私のトートバッグだった。トートバッグの口から雑誌がにょきっと飛び出している。私はそれを取り出し、学食のテーブルに置いた。飲食店や街のイベント情報などが載っている、三門市のグルメ娯楽情報雑誌だ。
 表紙を飾るのは赤い服を着て、爽やかな笑みを浮かべている若い男の子。顔が隠れないように前髪を後ろに流している。黒い毛先は羽のようにふわふわとしており、晒されているその顔はイケメンの代名詞といってもいいくらいに整っている。イケメンにも種類があるけれど、彼は清涼飲料水のコマーシャルからオファーがきそうな部類のイケメンだ。
 たしかに顔は整っている。しかしこのイケメンに惹かれるのは、不思議なことに紙面越しなのに目が合うような気がするのだ。イケメンはただカメラを見て笑っているのではない。見つめられて、目の前で微笑まれているような気になる。雑誌の下の方に「ボーダー・嵐山准」と名前が書いてあった。どこかで見た名前だなと記憶を辿れば、ボーダーのホームページで見たことを思い出した。

「かっこいいとは思うけど」

 私がそう言うと、太刀川くんはわずかに眉を寄せた。おや。めずらしい。
 眠そうにしていたり、大きな口をあけて笑ったり、問題が解けなくて焦っていたり。けっこういろんな表情を見てきたと思うのに、こんな太刀川くんの顔は初めてだ。怒っているというよりもおもしろくなさそうな顔。

「バイト先が雑誌に載ったの。見る?」

 頷いた太刀川くんの眉間は元に戻っていた。折り目をつけていたページを開いて、押しやる。太刀川くんはそれを手で持ちながら「へえ」とひとこと言い、黙って読み始めた。
 先月、バイト先が取材された。雑誌で果物のパフェ特集をするらしく、新メニューの桃をふんだんに使ったパフェの写真を大きく載せてくれるらしい。人の少ない時間帯に写真を撮りにきたので、私は立ち会うことはなかったのだけど。雑誌効果でしばらく店が混むと思うとゾッとする。でも働いている場所が雑誌に載るのはやっぱり楽しみなもので。今日が雑記の発売日なので朝コンビニで買ってきたのだ。この手の雑誌ってたいていずっとコンビニに置いてあるのに、表紙のイケメンのせいかラスイチだった。
 太刀川くんってパフェとか食べるのかな。お餅が好きなのは知ってる。なら抹茶パフェとか。あれは白玉が入っている。お餅好きな人って白玉はアリなのだろうか。でも白玉粉ってもち米から作られてるはずだし、一応お餅に分類してもいいはず。
 瞳を上下に動かす太刀川くんの様子を眺めながらそんなことを考える。

「バイトってなにしてんだ?」
「なにって……メニュー作ったり注文とったりレジしたり、なんでもするよ」
「じゃあこれも作れるのか?」

 指差されているのは雑誌の中の桃パフェだ。

「うん。こないだ練習したよ」

 パフェを作る練習。聞こえはいいが実際はロスなく皮を剥いて見栄えよく切り、短時間で綺麗に盛りつけられるかの練習だ。商品として、誰が作っても一定の水準を保たなければいけない。だから何回か作ってみて、店長の合格がもらえなければならないのだ。包丁で皮を剥くのはめんどくさい。自分用だったら桃の皮なんて手で剥くのにな。熟れている桃はそっちのほうがはやく剥ける。
 太刀川くんは「これ作れんのか。すげーな」と言った。難しくないことを褒められて恥ずかしくなってしまい、「すごくないよ。練習すればだれでも作れるよ」とかわいくない返事をしてしまう。

「あ、そうだ。ちょっと貸して」

 雑誌を取り戻し、最近開店したカフェのページを開いてもう一度机に置く。

「ここ行ってみたいんだよね」

 こうして昼食を一緒に摂ることはあっても、学外に出かけたことはない。男女が二人で出かけるのってどういう意味になるんだろう。風間と私は友人と言えるけど、太刀川くんと私は友人と呼べるのかわからない。学年的なこともあり、カテゴライズするなら先輩と後輩が一番ぴったりくる。先輩と後輩って便利な言葉だ。
 だから、まあ。予防線、的な。
 行こうよって大っぴらに誘ったら相手も断りにくい。でも「私は行きたい」と言えば、それはお誘いともとれるし、私の独り言にも聞こえる。流されても、断られるよりかはダメージは少ない。私は臆病なのだ。

「へえ。うまそうだな。次の土曜は?」

 ――あ。行ってくれるってこと?
 唐突な日にちの提案に、私は固まってしまった。
「どうした?」返事をしない私に、太刀川くんは訊ねる。

「あ、うん。土曜ね、待って……」

 トートバッグから手帳を取り出して確認すると、昼過ぎからラストまでバイトが入っていた。がっくり。肩を落とす。先月提出するシフトを考えてたとき、帰省するから夏休みにあまりバイトに入れないぶん土日で稼ごうと考えたのが裏目に出てしまった。

「ごめん、バイト。その次の土曜は?」
「俺がだめだ。任務」

 任務かあ、と心の中でこぼす。がっくり二回目。
 私に予定があるように、太刀川くんにも予定があるのだ。それもボーダーなら、そっちを優先しなければならないことくらい私でもわかる。
 私の空いている日を次々に言うけれど、太刀川くんは悉くボーダーの用事があった。ボーダーって忙しいらしい。だからいつも隊員募集しているのかもしれない。

「じゃあ、日にちがあったらね」

 埒があかないのでそう言うと、太刀川くんも「そーだな」と言い、この話は終わった。お互いのあの日もだめこの日もだめに、私たちは疲れていた。シフトが出ていない日程の予定は立てられない。
 噛み合わない、というか、タイミングが悪いときってある。それはどうすることもできないし、そういうときもあると割り切るしかない。
 でも、むりやりにでも日にちを決めておけばよかった。とりあえず予定を入れておいて、もしその日にシフトが入っていたらだれかに交代してもらえばよかった、と私は後悔することになる。
 なぜなら日にちの約束ができないまま、怒涛の試験期間に入ったのだ。試験が終われば夏休みに入る。夏休みに入ると授業がなくなる。授業がないと、太刀川くんに会うこともない。
 連絡先を知らない私は、彼に連絡のとりようもなかった。



 風間に訊けば、太刀川くんの連絡先を教えてくれるかな。
 実家に帰省して、そんなことを何回も考えた。携帯の画面を開いたまま、なんて書けばいいか迷って、けっきょくやめてしまう。そんな夏休み。
 今だって実家の縁側でスイカを食べながら考えている。
 家の奥の方からにぎやかな声がする。まだお盆でもないのに、近所に住む親戚が集まっているのだ。スイカはそこから数切れもらってきた。
 縁側から見える空にはコバルトブルーが広がっている。縦にむくむく背伸びする白い入道雲を邪魔するものは何もない。三門市だったら電線がいやでも目に入ってくる。輪唱しているセミがうるさい。田舎だから数が多いのか、田舎のセミは声が大きいのか。どっちもかも。土や木のにおいに、ここが田舎なことを全身で感じる。
 ぎりぎりまで齧ったスイカの皮をお皿に置いて、私は縁側に寝転がった。足首まで隠れるロング丈のワンピースだから、膝をたてなければワンピースの中は見えないだろう。
 寝転がって木目の多い天井を見ていると、視界の端に風鈴の短冊が入ってくる。なまぬるい風が吹くたびに、風鈴がちりんちりんと鳴る。
 風鈴とは暑い夏に少しでも涼しさを求めて、ガラスの高い音を楽しむためのものなのに、聞いても聞いても涼しさなんてまったく感じない。それどころかこの音は私を一気にこどもに戻す。こどもに戻った私は、太刀川くんの連絡先を知りたいはずなのに、くよくよ悩んでもたもたしている。
 そう、連絡先。
 風間もボーダーだし、太刀川くんと話している雰囲気からして、知っていてもおかしくない。でも風間に訊くのをできれば回避したい私もいる。気まずいというか、むず痒いというか。
 きっと風間はなんとも思わないと予想できる。けれど私と太刀川くんのなんともいえない関係を知られるのが嫌なのだ。
 それに連絡先を訊いて、私はどうしたいんだろう。「夏休み前に話してたカフェ行かない?」とメッセージを送るのはちょっと必死すぎないか。太刀川くんは細かいことを気にしなさそうだが、本気にしてたのかとか思われたら、ちょっと、いや、だいぶ悲しいかもしれない。
 夏休みが終わればまた授業で会えるのだからと自分を宥める。でもまた一日も経たずに悩み始めるのだ。堂々巡りがいやになる。
 額にかいた汗が、ゆっくりと肌に沿って落ちていった。縁側にいるのではなく、クーラーのついた部屋に戻ればいいのだけど、中に入って親戚たちと喋るのも面倒だった。
 実家の、誰かの声や物音や生活音が聞こえてくる空間は落ち着く。でも、三門だと家にひとりだ。ひとりだと静かだ。私だけしかいない部屋は静かで、自分の呼吸音のほうがうるさく思うこともある。一人暮らし二年目ともなれば、そっちのほうに慣れてしまった。
 軒下の影ができているところまでごろごろと転がり、縁側の外に背中を向ける。そのまま丸まって寝ていたら「そんなとこで寝ない!」と蹴られて起こされた。



 さて、八月の半分ほどを帰省に費やした私は、お盆が過ぎてから三門市に戻った。なにしろ田舎のお盆――それも初盆はすることが多いので、私はその手伝い要員として親から帰省を命じられていたのだ。初盆はうちではなく親戚のものだったのだが、田舎は人手が多いほどいろいろといい。
 来年は手伝いもないので、もう少し帰省期間を短くしたい。テレビのチャンネルは少ないし、どこへいくにも車が必要なのは不便だ。電車も一時間に二本しかない。来年の夏休みは免許合宿を入れてもいいかもしれない。そのためにはお金を貯めなければ、と私は残りの夏休み期間をまたしてもバイトに身を費やすのだった。
 八月の終わりにシフトに入ると、キッチンの中でバイトのメンバーが静かに騒いでいた。あまり大きな声を出すとフロアに聞こえてしまうので、こそこそと、でもきゃあきゃあと盛りあがっている。

「ねえ、予約のお客さん。かわいい子がイケメン三人も連れてるの。全部系統の違うイケメン!」
「全部系統が違うって?」
「見たらわかる」

 勤怠記録をつけ終わると、待っていたとばかりに「見てきなよ」と水の入ったピッチャーを渡された。今日の私の担当はホールなので、各テーブルをまわって空いたグラスに水を注ぎ、ついでに噂のイケメンたちを見てきたらというおせっかいだ。お冷を注ぐのも業務の内なので、私はピッチャーを持ってキッチンを出て、近いテーブルから回っていく。
 店内のほとんどが埋まっていた。うちのバイト先は女性客が多い。メニューがガッツリ定食系ではなくパスタやサンドイッチ、パンケーキやパフェなどのカフェメニューだからだろう。
 女性二人組とか三人組が多いなかで、女性一人に男性三人の、そのテーブルはたしかに目立っていた。お客さんの中でもちらちらと視線を向ける人もいる。さっきのキッチンの中での会話みたいに、小声で彼らについて話している人たちもいる。でもそのテーブルの人たちは、周囲を気にすることなく楽しそうに食事をしていた。騒がれることに慣れているのかもしれない。
 店内の視線を集めるテーブルに行くのやだな。
 心の中で呟いた。一瞬のあいだでも、店内中の熱い視線を浴びると思うと、気が重くなる。
 そうはいえども仕事は仕事だ。なるべく心を無にしてテーブルについた。テーブルに並んでいる皿はまだからになっていないから下げるものはなさそう。「お冷を注ぎますね」と言うと、通路側に座っていた黒髪の男の子が、さっと全員の飲み干されているグラスを寄せてくれた。気が利く子だなあと思いながら水を注いでいると。

「あ、センパイじゃん」

 この一ヶ月ずっと気になっていた太刀川くんの声がした。グラスを寄せてくれた男の子の、奥の席に座っている。太刀川くんの前にはタレ目の女の子、その女の子の隣には金髪の男の子が座っている。夏休みで私服だけど、太刀川くん以外みんな幼いのでおそらく中高生だろう。太刀川くんとどういう接点があるのだろう。ボーダーかもしれない。

「忘れてた。センパイここでバイトしてたんだった」

 その言葉に金髪の男の子とタレ目の女の子が、興味津々といった眼差しを私に向けた。私が水を注いだグラスを回していく黒髪の男の子は淡々としている。想像以上に顔面偏差値が高いテーブルだった。全員もれなく顔が良い。
 太刀川くんに話したいことはたくさんある。夏休みなにしてたのとか、うちなメニューなに食べたのとか、おいしかったかとか、あのカフェいついこうか、とか。
 でも今はバイト中なので。

「太刀川くん、久しぶり。ゆっくりしてってね」

 私は接客用の笑顔を浮かべてそう言い、キッチンに戻った。
 客席から見えないゾーンに入った瞬間、私と太刀川くんのやりとりを見ていたらしいバイトメンバーが「知り合いなの⁈」と訊いてくるので「一番年上の子が大学の後輩」と答えると「いいなあ」と言われた。
 たぶん「知り合いでいいなあ」の「いいなあ」なんだろう。
 いいなあ、じゃない。全然よくない。
 さっきから、太刀川くんの姿を確認してから、私はずっとそわそわしてる。バイト先に太刀川くんがいるってだけなのに、自分でも浮き足立っているのがわかる。
 髪の毛変じゃないかなとか化粧手抜きしてなくてよかったとか、キッチン壁にかかっている身支度チェック用の鏡に目を向けてしまう。他のお客さんの接客をしていても、後ろ姿変じゃないかなって気になってしまう。うちのバイト先は支給されている白のシャツに黒のズボンを履いて、膝まである黒い腰エプロンを巻くのだけど、どれも昨日洗濯したてでほっとした。よごれがついてるのを見られたくないし、太刀川くんの前ではちゃんとした私でいたかった。
 フロアへ出るたび、太刀川くんに見られているような気がする。注文したい人や会計したい人からの視線とは別のものを感じる気がする。私の勘違いや自意識過剰なのかもしれないけれど、なにもないところでつまずいてしまい、つんのめるのを耐える一連を何回かしてしまった。テーブルにぶつかったり、お皿やドリンクを落としたりすることはなかったけれど、太刀川くんに見られていたら恥ずかしい。
 でもそれは勘違いでも、自意識過剰でもなかったらしい。
 なるべく平静を装ってそちらに視線だけむけると、にやにやと笑みを浮かべている太刀川くんとばっちり目があってしまった。そして彼はそのまま声を出さずに、唇だけをゆっくりと動かす。
『がんばれ』
 だろうか。たぶん、そう。応援の四文字。
 見られていた恥ずかしさと不意打ちのエールに、私は赤べこのようにコクコクと首を動かすしかなかった。

「さっき、目と目で通じ合ってたよね。後輩とかいって、本当は彼氏なんじゃないの?」

 食器を下げにキッチンへ入ると、おもしろいものを見たといった口調で、そう言われた。違うと否定すると驚かれる。

「でもホールに出るたびに、あの人あんたのことずっと見てるよ」
「……新鮮なんでしょ。バイトしてるとこが」
「そうかなあ」
「そうだよ。ほら仕事しよ」

 一組帰ってもすぐに席は埋まる。雑誌の効果はまだ続いているらしい。

「これ、あのテーブルにお願い」

 そうキッチンから渡されたのはバースデープレートだった。バースデープレートは予約のみの、スイーツや果物をのせ、英語でハッピーバースデーと名前を、チョコペンで書くサービス。わりとよく頼まれる見慣れたものなのだけど。
 プレートを見て、私は固まってしまった。
 書かれている名前が『太刀川さん』だった。持っていくのは太刀川くんのいるテーブルで。ここに書かれている『太刀川さん』は太刀川くんであっているはずだ。あの三人のだれかが頼んだのだろう。
 誕生日。生まれた日。一年に一度だけの日。
 もうすぐなのかな。今日なのかな。それとももう終わっちゃったりして。
 ガトーショコラにチーズケーキ。フランボワーズ、ブルーベリー、カットされたバナナやイチゴが華やかなプレート。並ぶ太刀川くんの名前。祝うためのものなのにこの皿を見ていると、もやもやとした黒いもので心が滲んでいく。

「お待たせいたしました」

 太刀川くんの前にプレートを置くと、おお、と太刀川くんが驚いていた。タレ目の女の子が「私が頼んだんだよ〜」と言うのが聞こえる。
 この子たちは太刀川くんの誕生日を知っている。
 私は、知らなかったのに。

「太刀川くん、誕生日なんだね、おめでとう」

 うまく笑えてるか心配になる。太刀川くんの誕生日を知らないだけなのに、どうしてだがすごく落ち込んでいる私がいる。
 たかが誕生日かもしれない。でも目の前で親密な様子を見せられると、それはやっぱり胸にくるものがある。

「ま、来週なんだけどな」
「だって遠征のお疲れ様会したかったんだもん〜」
「それが狙いだったでしょ柚宇さん」

 金髪の男の子に言われて、女の子はへらりと笑った。
 遠征、知らないな。そんな単語、太刀川くんから聞いたことがない。私が田舎に帰省していたように、太刀川くんもどこかへ行っていたのかな。私が知らない時間を、この子たちと過ごしていたのかな。
 あ、やだな。
 どろどろとした醜いものが滲み出てくる。
 これは嫉妬なのだろう。年下の子に嫉妬をするなんて恥ずかしい。なのに一度、やだなと思ってしまうと、その感情は濁流のように、私を嫉妬の海に落としていく。心がぬかるみに溺れていくのがわかる。
 突然、「お姉さん」と呼ばれた。

「太刀川さんの彼女さんですか?」

 女の子の声に、太刀川くん以外の子たちが私を見た。複数の整った顔に見上げられると、反射的に仰け反りたくなる。顔面力の高さに私だけ存在している次元が別のような気がするし、この純粋な瞳たちに私の心の泥を気づかれたくなかった。じいっと見られると見透かされてしまいそうで怖かった。

「ちがうな」

 私が答える前に、太刀川くんが小さく、でもはっきりと否定した。
 太刀川くんの低い声が頭の中でこだまする。
 自分で言うのと、太刀川くんに言われるのは、別だ。
 私はただの先輩だし、太刀川くんは後輩。それはわかっているし、その通りなんだけど。でも否定されると、その言葉は重石のように私にのしかかる。
 私と太刀川くんは、春から同じ授業を受けて、お昼時間を過ごしただけ。たったそれだけ。
 自惚れていた。それだけで彼の特別になれるわけがないのに。太刀川くんのテリトリーに少しでも入れていると勘違いしていた。遠征とやらも、誕生日も知らないくせに。大学の外へ遊びに行くことすらできないくせに。太刀川くんの隣にいることを許されたと、許されているかもしれないと、心のどこかで期待していた。
 今すぐキッチンに戻って鏡を見たい。
 私は、笑えてるだろうか。




(21.09.28)



- back | top -