犬と和解せよ


 犬が苦手だ。
 理由は簡単、小さい頃に腕を噛まれたから。何針も縫ったらしく、その時の傷跡は制服の袖の下にまだ残っている。
 犬は普段かわいらしく舌を出しているだけの口を大きく開いて、鋭く尖った牙で私の肉に噛みついた。味わったことのない肉が裂ける痛みと恐怖からパニックを起こし泣き叫ぶと、犬はさらに興奮して、深く刺した牙を離さなかった。結局、大人数人がかりで助けてもらったらしい。犬は人に従順とかいうけれど、あれはペットなんかじゃない。獣だった。
 昔の記憶というものは成長するにつれて次第に薄れていくと言うけれど、犬に噛まれた幼い記憶だけは、私の中で大きなトラウマとなって残っている。
 体のサイズが小さくて愛らしいと人気のトイプードルとかチワワですら、私には恐怖の対象なので、道ですれ違いそうになった時は迂回したり、反対側の歩道に逃げる。高校生にもなって情け無いとは思うが、人間ひとつやふたつくらい誰だって相容れないものはあるはずだ。
 犬も、犬を連想させるものも、苦手になってしまった私の極めつけは。

「い、い、いっ……ぃ、ぬ、かい、くん」

 クラスメイトの犬飼くんの名前を呼ぶのですら、吃ってしまう始末だった。
 犬飼くんとは、高校に入学してからなぜか三年間連続して同じクラスだ。しかし話したことは数えるほどしかない。彼には悪いけれど、私はなるべく「犬」というワードを回避したいのだ。
 名前を呼ばなくて済むようなるべく関わらないようにしてきたのに、たまたま日直だった私は担任に頼まれごとをされてしまい、教室にいる犬飼くんにどうしても話しかけなければならなかった。

「なあにー」
「この間の授業のプリント出してないの、い、いぬかいくんだけで、今、ある? 私、先生から回収頼まれて」
「あ、あれね」

 犬飼くんは机の中をゴソゴソと漁ると、プリントを取り出して「これであってる?」と私に手渡した。

「うん、預かるね」
「ごめんね。わざわざ取りに来てもらって」
「ううん。大丈夫」

 犬飼くんはニコッと人の良さそうな笑みを浮かべていた。けれど細められたブルーの瞳は不思議と笑っていないような気がして、全身の力が抜けそうになってしまった私は「じゃあ」とそそくさとその場を離れた。
 犬飼くんの目に、足がすくんでしまったのだ。
 私に向けられた底の見えないブルーの瞳。
 ――あの目は、まるで人の皮を被った獣のようだった。

 ◆

「ねえ、おれのこと嫌い?」

 犬飼くんにそう聞かれた時、しまった、とつい思ってしまった。
 誰もいない教室で帰り支度をしていると、犬飼くんが教室へ入ってきた。彼は私を一瞥すると、まっすぐ自分の席へむかう。どうやら忘れ物をしたらしい。机の中から目当てのものを見つけたようで、口笛が聞こえた。
 そのまま教室から出て行ってほしかったのに、彼は私の机の前までやってきて、前の椅子に後ろを向いて座った。そして私に自分のことが嫌いか問いてきたのだ。
 空は夕焼けで、燃えるように染まっている。窓から差し込む西日が、向き合って座る私たちの頬を赤く照らす。

「あたり?」

 咄嗟のことに、動揺が顔に出ていたらしい。私の無言を肯定と受け取った犬飼くんは、おもしろそうに頬杖をついて私を見ている。
 別に犬飼くんは私に酷いことをしたり、私の嫌がることをしたわけじゃない。なのに私は「犬」が苦手だからと「犬」の名を持つ彼を、勝手に恐怖の対象に認定してしまっていた。

「おれが近づくと逃げるよね。クラスずっと一緒だったのに全然話してくれないし。明らかに避けてるよね。嫌われてるのかなって思ったけど、おれなんかした?」

 バレている。全部勘づかれていた。
 ここ最近観察するような視線を感じていたのは、気のせいじゃなかったんだ。

「い、いぬ、飼くんは、なにもしてない。私の問題だから」
「どういうこと?」

 ぐいっと身を乗り出してきた犬飼くんに、私は思わず身を逸らしてしまった。
「あからさますぎる」と犬飼くんはにやついている。
 なんと言っていいのかわからず黙り込んでしまった私と、私の言葉を待つ犬飼くんの間に静寂が広がった。無言の尋問のようで居心地が悪い。このままだんまりを決め込んでも、犬飼くんは躾のなった犬のように、ずっと待っているのだろう。
 西日を受け止めてきらきらと輝く金色のもっさりとした髪の毛は、嫌でもあの犬を思い出してしまう。

「――犬飼くんって、ゴールデンレトリーバーに似てるよね」

 私は下手に誤魔化すことをを諦めた。

「あー、たまに言われるかも」
「私、昔、噛まれて。それで、い、犬が苦手で」
「おれの名前吃っちゃうくらい?」
「ごめん……関係ないのはわかってるんだけど」
「ちなみに種類は?」
「ゴールデンレトリーバー」
「あちゃあ」

 犬飼くんは私が何を言いたいのか、理解したらしい。

「どこ噛まれたか聞いてもいい?」
「……腕」
「まだ傷はある?」
「……うん」
「見てもいい?」
「……え」

 年々薄くなってはいるものの、完全に消える気配のない傷は見ても気分の良いものではない。幸いなのは、傷があるのは腕の内側だから、もうすぐ衣替えで夏服になってもそこまで目立たないことだ。

「避けられるのって結構傷つくんだよね。だから理由を見るくらいよくない?」

 よくない。けれど負い目のある私は、しぶしぶブレザーを脱いだ。そして右腕のシャツを捲る。一巻き、二巻き。「おれがやってあげる」聞き手と逆の手で綺麗に捲るのは難しく、三巻きめに苦戦していたら犬飼くんが申し出た。犬飼くんは私の袖を丁寧に捲った。ちょうど腕の関節のところまで露出する。

「これ?」
「うん」

 晒された腕の内側に何点か赤黒い部分がある。牙の刺さった痕は軽いケロイド状になっていて、所々隆起している。
 うわあ、とか、ひどい、とかいっそのことそう言ってくれたら、私だって自虐っぽく開き直れるのに、犬飼くんは何も言わずに凝視するだけで、息が詰まりそうになった。
 顔は笑っているのに、何を考えているのかわからない。犬飼くんのそういうところが、私は苦手なのかもしれない。

「ゴールデンレトリーバーってさ。賢いとか、温和とか、知的っていうじゃん」
「そうなんだ」
「忍耐力があるとか、人懐こいとか、信頼できる犬とか言われてるんだけどね。でもさ、元はといえば猟犬。どんなに人に従順にさせても、本能は獲物を狙うただの動物なわけ」

 犬飼くんが私の傷痕を指で触れた。

「っ、やめて」
「これって一生消えないのかな」
「やめてよ」
「いいなあ。おれも一生消えない傷をつけてみたい……なーんて」

 うそだよ、と続いたけれど、私の傷痕にうっそりとした視線を向ける犬飼くんの言葉は私には重たく、真剣みを帯びていて本気のように聞こえた。ゾッと顔を引き攣らせている私に「鳥肌すごい」と犬飼くんは笑った。

「苦手ってことは嫌いじゃないってことでしょ。嫌いじゃないなら、好きになる可能性はあるよね」
「……何、言ってるの。その解釈ポジティブすぎる」
「猟犬は獲物をきちんと仕留めて一人前ってこと」

 犬飼くんは触れる指を止めない。
 私が手を引っ込めようとしても、いつの間にか犬飼くんのもう片方の手がしっかりと私の腕を握っていて動かせない。

「そうやってビクビクされると、つい追いたくなるんだよね。……ねえ」

 ブルーの瞳の奥はしっかりと笑っていた。

「苗字じゃなくて、澄晴って名前で呼んでよ」

 やっぱり、犬は苦手だ。




(21.05.28)



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