愚か者


 そもそも水上の人生において、この部屋のものはどれもすべて彼の選択肢に入らないものばかりだ。
 ベッドの隣に置かれた白を基調としたドレッサーは、水上にとって全く縁のない代物だった。窓を隠すのは、上部にレースのついたベージュのドレープカーテン。水上が寝転んでいるシングルベッドはハイバックスタイルで、白いキルティングのベッドボードに携帯を置けないので不便に感じるが、家主は大層気に入っているらしい。
 しかし水上にとって、カーテンなんてただの布だ。デザインよりも遮光性や断熱性を優先したい。ベッドはニトリや無印、もしくは通販サイトのシンプルなものでいい。色だって汚れる心配のある白よりも、黒やグレー、せめてネイビーまでが水上の許容範囲内だ。
 だからなのか。
 この部屋は、落ち着かない。
 スツールに座った女は、ドレッサーの上に並べられたボトルを逆さまにしてコットンに中身を浸し、肌を擦らないように注意を払いながら、液体でひたひたのコットンを肌に当てている。それを数回繰り返すと、今度は何種類かのクリームを順に塗り始めた。
 水上にはどれも同じに思えるが、紫外線カットやら、保湿やら、肌のトーンを整えるだとか、それぞれ違う効果を持っているらしい。それが終わると、リキッドタイプのファンデーションを塗り始める。適当にしているのかと思いきや、女の中で明確な手順があるらしい。
 いわゆる女優ライトのついた丸い鏡に向かう女を横目に、水上は「あほらし」と心の中で呟いた。

 ――化粧なんてしなくても充分綺麗やのに。
 ――俺いつまで待たされんねん。
 ――鏡なんて見んで、本でも読んで教養をつければええのに。

 そんな私情が入り混じった「あほらし」だった。
 化粧はまだ終わりそうにない。どうせ終わっても、次に髪を巻いたりアレンジしたりが始まって、まだまだ時間がかかるのだ。
 水上はベッドから身を起こし、かつて自分が持ち込んでからそのままにされている文庫本の中から一冊手に取った。そしてまたベッドに寝転んで、ページを捲ることにした。

「なにを読んでいるの?」

 水上が本に集中してしばらくした頃、女の声が水上を呼んだ。羅列された文字から視線を移すと、正座を崩したように床へ座っている女はベッドに頬杖をついて、水上のことを見つめていた。上目遣いの瞳には、水上しか映っていない。くるりと持ち上がったまつ毛が時折瞬くたびに、目元がきらきらと輝いて見える。丁寧に淡いピンク色のグラデーションで縁取られたくちびるが「さとし」と柔らかな声で呼ぶのが、水上はいっとう好きだった。
 髪の毛先はゆるく巻かれていて、それが解けないようにするためのスタイリング剤が仄かに香っているので、支度はもう済んだのだろう。
 待たせたことについての謝罪は無い。彼女にとって、それは謝るべきことではなかった。

「痴人の愛」
「ちじんって?」
「あほってこと」
「どんな話なの?」
「一人の男が少女に破滅させられる話や」
「ふうん」

 あまり興味のなさそうな返事に、これは理解しとらんなと水上は判断した。
 彼女はナオミに似ている。美しい容貌をしているけれど、頭が悪い。頭が悪いだと大雑把すぎる。学がない。けれども、女は人がなにをされたら、なんと声をかけられたら一番喜ぶのかを本能的に知っていた。気が利くというか、頭の回転が早いというか、とにかくそういうものに関しては、非常に上手い女だった。
 だからなのか、この女の隣は楽だった。
 自分が優れているという、よい気分にさせてくれる。
 すれ違うと誰もが息を呑んで振り向いてしまうほどの美しさを持った彼女が、自分を選んだことへの少しばかりの優越感もある。
 しかし谷崎潤一郎によると、小説の中の譲治は日々美しくなるナオミに虜になり、やがて抗えなくなり破滅してしまう。
 はじめて痴人の愛を読んだ時、村上は女一人に人生むちゃくちゃにされたないわと思ったものだが、実際自分がその立場になると、一歩間違えれば悪魔の如き魅力に抵抗するなんてできないと思い改めた。

 美は暴力に等しい。

 はじめて女を目に入れた時、水上は拳で勢いよく殴られたような錯覚に陥った。目の前が暗転したかと思えば、その女の頭上にスポットライトが当たり、輝くために命を燃やす星のようにみえたのである。
 それは屋外で、酷く風の強い日だった。水上が道を歩いていると、向かいから荷物を持った誰かが歩いてきた。すれ違う瞬間、急に体が倒れそうなくらいの横風が吹いた。男の水上でも足がもつれそうになるほど強い風だった。よろけた女は暴れて靡く髪を抑え、風がやむと、困ったように手櫛で乱れた髪を整えていた。美しい顔が困ったように歪み、艶のある髪を撫でている。たったそれだけの仕草なのに、水上は目が離せなかった。
 文字通り、心が奪われてしまったのである。

 それからどうしてだか、水上は女と親しくなり、暇ができれば女と逢瀬した。彼女とのことは誰にも話していない。クラスメイトにも、ボーダーの仲間たちにも、誰ひとりにも。興味を持たれて、会わせたくなかったからだ。
 大事なものは隠して、あらゆるものから隠して、自分だけのものであってほしい。
 いっそのこと人目のつかない箱にでも閉じ込めてしまいたいとまで思ったけれど、水上には、まだ踏みとどまれる理性があった。
 そう、自分は論理的に考え、感情を制御できるはずなのだ。なのに女と過ごす時間が増えれば増えるほど、ひとりの女に心が乱されていく。人であるために下ろしたはずの心の檻がどろりと溶かされていく。

「ねえ、かわいい?」
「かわええ、かわええ」
「もう。気持ちがこもってない」
「むっちゃかわええよ。誰にも見せたくないわ」
「ありがとう」

 女は蕾が花開いたかのような笑顔を浮かべた。しわひとつない美しい顔が、艶のある声で嬉しそうに笑い声をあげる。

 ――やっぱ本なんて読まんでええ。

 水上は思い直した。仕草ひとつで男を転がせる女に知恵なんてついてしまったら、それこそもう引き返せなくなってしまう。
 彼女に抗えなくなった時、自分はどうなってしまうのだろう。ナオミという魔性の女に取り憑かれ、振り回される譲治のようになってしまうのだろうか。逃げだしてしまうのだろうか。

 水上はいつその時が来るのだろうと、密かに愉しみにすることにした。




(21.06.03)



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