「はい、これ。私はもう使わないからあげる」
ファイルから差し出されたレジュメは一年前の物のはずなのに、皺や破れたところのない綺麗な状態だった。所々にマーカーが引かれていたり書き込みがある。その中には授業に関係ない落書きもあった。右下の方に小さく描かれている犬のイラストは、もしかしてコロだろうか。そんなところも彼女らしくて微笑ましく思った。
彼女は隣の家に住んでいる一つ年上の女の子だ。アルバムを見るといつも俺の隣にはいろんな表情をした幼い彼女がいた。
春は満開の桜を背に花見、夏は庭に出されたプールで笑い合い、秋は焼き芋にかぶりつき、冬は雪だるまやかまくらを作っている写真が何枚も貼ってあるアルバムだ。血の繋がりを家族と呼ぶのなら彼女は家族ではないが、俺が守りたい家族の一人でもある。
しかし距離が近すぎるというのも考えもので、彼女は俺のことを弟としか見ていない。
任務で授業に出席できなかったとメールしたら、その教授は毎年講義内容が同じだから去年のレジュメあげると返ってきた。任務の後で時間が遅くなったこともあり、受け取ったらすぐに帰るつもりだった。
ここのところ任務と広報の仕事で忙しく、帰宅するよりもボーダー内で寝泊まりすることが多く、彼女に会うのは久々だった。会えるなんてラッキーだと思いながらインターホンを鳴らした。もう一度言う。すぐに帰るはずだった。
なのに「今日は時間あるの?」と訊かれ、嘘をつくわけにもいかず頷けば、俺は彼女の部屋に座っていた。「ボーダーばかりで忙しそうだったから、たまには顔見て話したくて」と言われてしまえば断れるはずがない。
最後にここを訪れたのはいつだったか、忘れてしまった。昔はよく遊びに行っていたのに、ある時からこの部屋に入ると気分が落ち着かなくなってしまったのだ。
男として意識していてくれたら、こうも易々と部屋に上げないだろう。だって俺たちはもう写真の中のこどもじゃない。十九歳と二十歳の男と女だ。もう少し警戒心を持ってほしい。
「ありがとう。助かった」
ローテーブルに置かれた赤いマグカップに口をつけると、温かいカフェオレに苦さよりも甘みを感じた。でも甘ったるいわけじゃなく、体がリラックスするような優しい甘さだ。彼女は俺の向かいに座り、色違いのマグカップを両手で持って、中身が溢れない程度にくるくると揺らしている。
「もしかしたら准が使うかもって取っておいたから、役に立ってよかった」
俺のために、と言われると嬉しい。が、彼女にとってはただの親切心なので手放しでは喜べない。
「最近テレビでも雑誌でも、准を見るよ。私の友達にも嵐山隊のファンって子がいてね、准と知り合いっていうとすごく驚かれちゃって、私までびっくりしちゃった」
「そうか」
「それでね、その子に確かめてきてほしいって言われたんだけど……」
彼女は一旦口を止めて俺の様子を伺っていた。話の流れから何を言われるのか想像はつく。だけど気づいてないふりをする。
「ん? なんだ?」
「准、カノジョいるの?」
「いないな」
「じゃあ好きな子はいるの? 昔からモテモテでしょ」
中学に進んだ頃からか、友人に頼まれた彼女が俺に恋人の有無を訊いてくることが増えた。従姉妹の桐絵は気が強く近づきにくいからと彼女に頼む女子は多いもので、高校の頃なんて彼女からその質問をされる前に「いない」と答えていた。
けれど好きな相手の有無を、彼女から訊かれるのは初めてだ。これは俺の気持ちに気づいているのか。知っていて訊いてきたのだろうか。爛々と輝く彼女の眼差しに、気づいてなさそうだなと思う俺もいる。長年蓄積された恋心を粉々にされる可能性もある。だけど長く一緒にいるのに俺の気持ちに気づかないこの鈍さは、多少刺激してやらないとどうにもならないかもしれない。良い方に転がる期待と、転がらなかった場合の不安と焦りを顔に出さず、俺は少し悩む。
「……好きな子はいるぞ」
「え⁈」
高い声をあげた彼女は目を見開いて驚いていた。「いるの? 本当に?」と何度も俺に聞いた後、すぐににんまりとした目つきに変わる。この顔はよく知っている。女子はゴシップや噂話が好きらしいが、彼女もその一人のようだ。
「私の知ってる子? ボーダーの子? 中高の子? 大学? 准のそういう話初めて聞いたかも! いつから好きなの?」
止まらない質問に、やっぱり気づいていなかったか、と俺は小さくため息を吐いた。
まあ、そうだよな。二人の気持ちが同じ熱量で互いに向いていれば、俺たちはただの幼馴染という関係からとっくの昔に脱しているだろう。嫌われてはいない。男として見られていないだけだ。
「……昔から知っていて、何するのも一緒だった。ずっと好きだった」
いつからなんて、もう覚えていない。そう言ったら呆れられるだろうか。でも本当に覚えてないんだ。昔から俺の隣にいるのが当たり前だと思っていたから。歳が違うと学年が変わると知った時には、あと一年はやく生まれたかったと思ったことさえある。
俺なりに勝負をしたつもりだ。さすがにここまで言えば、多少なりとも自覚してくれるだろうと。
「もしかして桐絵ちゃん?」
「違う!」
しかし彼女の想像は予想外の人物を描いていた。桐絵は従兄弟だから、たしかに昔から知っているし、よく俺の家に遊びにきたり泊まりにきていたけれど。同じボーダーという組織に所属してはいるけれど。彼女は自分が桐絵よりもずっと俺と一緒にいるとは思わないのだろうか。副と佐補が生まれてくるまでのアルバムの中は、あんなに俺と彼女だらけなのに。
「他に誰かいたかなあ……」
現状、自覚無し。脈があるかは不明。
先は長そうだな、と深く息を吐く。そろそろわかりやすく攻めていかないと駄目かと悩む俺とは正反対に、彼女は楽しそうな声色で俺たちの周囲にいる名前を挙げ始めている。もう少し意識して貰えないものか。次の休みが決まったらデートに誘おう。デートだと思ってもらえるかはわからないが、二人で出掛けるなら、それはデートだ。
気直しに飲んだカフェオレはとっくに冷めきっていて、甘さがやけに舌に残った。
(21.07.01)