カレーライスの男


 華金の夜、定時で仕事が終わらなくて、給料が発生しない残業なんてして、お腹の虫が鳴く中でやっと会社を出たけど居酒屋かファーストフードか、ファミレスくらいしか飲食店は開いてなくて、疲れて、眠くて、今居酒屋なんて入ったらビールで寝ちゃうし、ファミレスにだってグラスワインくらいあるし、寄り道しないでまっすぐ家に帰ることにした。熱い湯船に浸かりたいけど、どうもめんどくさい。お湯を貯めてる間に寝ちゃうかもしれない。
 冷蔵庫になにかあったっけ。卵は切らしたはず。冷凍庫に冷凍ピザ入ってたかな。カップ麺くらいはあるか。ああ、でも、残業した後くらい、誰かの手作り料理が食べたいなあ。
 私のために作ってくれた温かい料理。一人暮らしの女の高望みだ。つきあい始めてから数年になる彼氏はいるけれど、同棲はしていないし、彼は私より激務だ。
 最後に連絡したのは数日前だけど、返信は無い。既読がついているので、たぶん生きてる。ワーカーホリックのきらいがあるので浮気の心配は全くしていない。むこうが私のことどう思ってるかは、知らないけど。でも心配ならもっとマメに電話やラインくらい送ってくるはずだ。
 お腹が空きすぎて元気の出ない足で家の近くまで歩いていると、カレーのにおいがしてきた。こんな時間に、どこの家だ。もう日付が変わろうとしている時間なのに、近所迷惑な家もあったもんだな。
 空腹すぎて、漂ってくるカレーのにおいにすら腹立ってきた私は、足元にあった小石に苛立ちをぶつけながら帰る。ヒールの先が傷つくことなんて、今はどうでもよかった。小石を蹴り続けることに専念していると、すぐに一人暮らしのアパートについた。
 しかしまだカレーのにおいは消えていない。この近所には、こんな夜中にカレーを作る馬鹿がいるらしい。こんなに香ばしいにおいが広がっているということは、レトルトなんかじゃなく、きっと手作りなのだろう。
 いいなあ。私もカレー食べたい。この際レトルトでもいい。
 お腹はすっかりカレーの胃袋になってしまっている。
 レトルトカレーあったかな、とごちゃごちゃになった仕事用の鞄の中から鍵を取り出して、鍵を回して家に入ると、室内の電気がついていた。
 あれ、消し忘れたかな。朝ちゃんと消したはずなんだけど。電気代もったいないことしちゃった。
 ヒールを脱ぎ捨てようと、踵に指を差し込んだ瞬間。

「おかえりなさーい」

 と、私のエプロンを身につけた男が、部屋の奥から出てきた。私より肌艶が良く、垂れ目で、髪もウェーブしていて、見た目のすべてがゆるりとしているせいで、年齢以上の色気のある雰囲気を纏っている、大阪訛りの若い男。彼氏ではない。
 彼氏じゃないけど、今の私が一番求めている男だった。

「家にくるなら前もって連絡してって言ってるでしょ。あいつと一緒だったらどうすんのよ」
「えーそれめっちゃ修羅場やないですか」
「そーよ。修羅場よ。連絡しないんなら合鍵返して貰うわよ」
「おれとしては修羅場大歓迎なんやけどなあ」
「孝二。鍵」
「冗談です」

 降参、とパッと両手を上げた孝二は、私の奥に手を伸ばして家の鍵を閉めた。

 孝二――隠岐孝二は、社会人の私よりいくつも歳下の男で、学生ながらにボーダーに所属しているらしい。
 そして私たちは、いわゆるセフレという関係だった。
 どこで知り合ったかなんて、もう覚えていないけれど、孝二に合鍵を渡した日のことは覚えている。外で会うと誰に見られるかわからないから、としょうもない理由で渡したのだ。なので孝二とはこの部屋でしか会わない。
 つきあうつもりはないよ、と渡したこの家の合鍵を見て、目を細めて嬉しそうにする姿は、まだまだこどもだなと思った。そんなこどもを家に引き摺り込んで、体を重ねる私は、とても悪い大人だなとも思った。彼氏を裏切って、歳下の男に手を出している仕事に疲れた女。世間体的に分が悪いのはどう見ても私だ。

「遅かったですけど、飲み会やった? でも酒臭くないなあ」
「お賃金の出ない残業です」
「じゃあご飯まだ?」
「うん。お腹すいた。帰ってくる時、ずっとカレーのにおいしてめちゃくちゃお腹すいてる」
「ほんま? おれカレー作ったんやけど、食べる?」
「食べる!」

 道を歩きながら恨んだカレーのにおいの出どころは、まさかの私の家だった。しかも孝二が作ってくれたカレー。それだけで空腹でイライラしていた私の不機嫌は、簡単に夜空に飛んでいってしまう。

「準備しとくから手洗ってな」

 孝二はキッチンへ向かい、私は洗面台に進んだ。
 鏡の中にいる私は残業で疲れきっていて、化粧がよれている。朝しっかりセットしたはずの髪も、なんだか水分が抜けているような気がする。櫛で何回か梳かして、ヘアミストを振りかけた。
 疲れてるなあ。特に若さが溢れる孝二を見た後だと、余計にそう感じる。こんな歳上よりも、同世代の子とつき合えばいいのにね。あんなイケメンが近くにいたら、絶対逃さないでしょ。
 手を洗って、うがいをして、もう化粧も落としちゃおうかなとメイク落としを手に取ったけど、少し考えて、逆に化粧を直すことにした。今でさえこんな顔なのだから、化粧を落としたらもっと酷い顔になりそうだ。
 脂が主張してきた肌を整えて、よれていたアイラインを直す。ちょっとでも顔が明るく見えるように目元のシャドウも薄く塗った。涙袋を汚す、とれかけのマスカラのゴミを綿棒で取った。
 もうカレー食べて、寝るだけなのにね。
 彼氏の前で化粧を直した回数よりも、孝二の前で直した方が多いかもしれない。

「米どれくらい食べます?」
「少なめ、でも具は多めがいい」
「はーい」

 カレー皿としゃもじを持った孝二が後ろから聞いてきて、私の返事を聞いたら、またキッチンに帰っていった。
 唇に色がないと生気が足りない。色付きリップを塗ってから私も孝二の後を追いかけた。

 カレーは野菜を切って、肉と炒めて、水を入れて煮込んでルーを溶かせばできる。簡単っちゃ簡単だけど、私は孝二の作るカレーが好きだ。
 男の子だからか、野菜は大きめに切られているし、たまに玉葱が繋がっていることもある。でも、野菜が生煮えだった頃に比べたら、ルーを二つ混ぜたりもしてるし、隠し味を入れたりしてるらしい。目覚ましい進歩は、いつかスパイスからカレーを作り出しそうな勢いだ。
 未来では、私じゃない女の子にカレーを作っているかもしれない。私のために作ってくれるカレーを、どこの誰だかわからない女の子のために作る孝二。そうであった方がいいんだけど、なんか嫌だなあ。

「おいしくないです?」
「……え?」
「黙っとるから」
「あ、違う違う。おいしいよ。……成長したなあって。野菜の厚さも均等だし」
「なんや、もう。まずいんかと思って焦ったわあ」

 孝二もまだ夜ご飯を食べていなかったらしく、二人でカレーを食べる。一人で食べるよりも、二人で食べた方が断然おいしく感じる。
 こんな遅くまで待っていてくれたのだろうか。何時に帰ってくるかわからない私を。スーパーで材料買って、一人でカレーを作って。
 何日も返信をくれない彼氏は、この部屋の鍵を持っていない。キッチンのどこに何があるかを知らない。私の愛用してる柔軟剤も、トイレットペーパーはシングル巻きがいいとか、この部屋の窓からの景色とか、なにも知らない。今日、私がこんなに疲れきって帰ってきていることすら知らないのだ。
 狭いこの部屋で一人待っていてくれた孝二を、私は手放せそうになかった。

 料理を作ってもらったから、後片付けは私の仕事だ。洗い物くらいええのに、と孝二は言ったけど、カレーを食べた私は元気が出てきたので、洗い物は苦じゃなかった。二人分の食器を、泡立てたスポンジで洗っていく。
 皿に汚れた乾燥したカレーのルーを落としていると、背後から私の腰にするりと二本の腕が巻きついてきた。お腹の前で手は重なり、背中には温かいぬくもりがぴたりと張りついた。
 犯人は一人しかいない。
 耳元で生温かい息を感じた。

「風呂も洗っといたんで。お湯張ってますわ」

 声を発したばかりの孝二の唇が私の耳たぶを齧る。そのまま何回か歯で甘噛みされた。噛んでいた口が離れたかと思えば、孝二は私の首筋に、自分の黒髪を擦りつけてきた。柔らかな黒髪がぐりぐりと動くのが視界に入る。

「なんかええにおいがする」
「ヘアミストだね」

 へえ、と相槌をうった孝二は、うなじのあたりに優しく唇を押しつけ始めた。ちゅっ、と音を立てているのは、絶対にわざとだ。

「お風呂入りたいんだけど」
「ええー。おれ一人でずっと待っててさびしかったんやけど」
「来る時は連絡って約束したよね」
「カレー作って風呂掃除して、おれええ子で待ってたやろ?」
「それは……まあ、助かった。ありがとう」
「ならええやろ? 終わったら洗ったるから、おふろ一緒はいろ」
「えー……」
「なーお願い」

 シンクには洗う物がなくなってしまった。それを見たお腹に回る孝二の腕の力は強くなる。私の肩に骨張った顎をのせて、「なあ、なあ」と呟いている。
 どうやら背中のひっつき虫は離れる気はないらしい。それどころか、孝二の手は、私の服の下へ侵入し始めていた。おへそのあたりを、乾いた指先でゆっくりと撫でられる。まだ、私の体はくすぐったさの方が勝っていた。
 単身者用のマンションなので浴室は狭い。バスタブだって私が入るだけでも、膝を軽く折らないといけないくらい小さいものだ。
 一人でゆっくり入りたかったんだけどなあ、と濡れた手をタオルで拭く。悩むふりをして心はもう決まっているのだから、結局、私も孝二に甘い。
「しょうがないなあ」と首を後ろに回すと、待っていましたとばかりに孝二は私の唇に齧りついてきたのだった。




(21.07.16)



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