朝陽の煌めきが暗がりの隙にそっと光を鏤め始めた頃、セシルは俄に快かった深い眠りから目を覚ました。彼女は、不可思議な空気の漂う色の無い空間の中心に、羊水の中で眠る胎児の如く無防備に蹲り、横たわっていた。彼女の身に着けている、薄手のシフォンを幾重にも重ねて上品に仕立てられた薄桃色のネグリジェからは、所々が桃色に上気した女性らしい、白雪にも似た華奢な肢体が露わになっている。その背に流れる艶やかに波打つプラチナブロンドは、見る者を驚嘆させる程に洵美で、髪の毛の一筋一筋が淡い清輝を受け神秘的な輝きを放ち、肘の辺りまで嫋やかに伸びていた。セシルは、一寸の曇りも無い純粋な蒼色の瞳を微かに瞬き、未だ冴えないままの重たい頭を抱えて、総ての色を消し去った空間をゆっくりと見渡した。何処からとも無く射し込む穏和な朝陽の光が、絶え間無く彼女の周囲を照らし続けている。それでも、画家の描いた抽象絵画の世界へ入り込んだかの様なこの場所が、一体何処であるのか彼女には皆目見当も付かなかった。セシルは兎に角そうした疑問を振り払うよう、朝陽が降り注ぐ方向を漠然と見つめながら、華奢な白い右腕を天に向かって真っ直ぐに伸べた。しかし、その細い指先は虚空を掴む事すら叶わず、目に見えない凍り付いた壁の様な物体に硬く押し止められた。その凍り付いた透明の壁は、彼女が触れた途端に色を失った空間一面へ、耳を刺すような寒冽な反響音を轟かせた。彼女の周囲を取り囲んだ見えない壁と壁とが互いを揺るがせ、個々に共鳴しているのだ。彼女はその凍り付いた透明な壁の中で、たった独り閉じ込められていた。セシルは異質な反響音が、彼女の鼓膜を震撼させ木霊しているのを聴きながら、一欠片の希望すら失った蒼色の瞳を静かに伏せ、天へ向けていた右腕を力無く降ろした。彼女には解っていた。何時だってそうなのだ。この壁は決して、私を此処から解き放ってくれる事は無い――どんな事が有ろうと。セシルは両手を硬質な地に着けたまま、暫く沈黙していた。このまま色の無い空間の中で、私は――
 セシルはその小さな胸の奥へ、止め処無い湧き水の様に流れ込んで来る痛ましい悲愁を、精一杯受け止める他無かった。温柔な朝陽の煌めきが、軈て大きな円光と成って彼女の下に降り注いだ時――彼女の意識は徐々に、この不可思議な無彩色の空間から遠退いていった……

* * *

 両の瞼が開くと、カーテンの隙間から零れる鮮鋭な朝陽が室内一杯に照らしていた。セシルは、紫の小花柄の掛け布団から徐に起き上がり、未だ力の入らない手の甲で何度か目許を擦った。豊かなプラチナブロンドの髪が、真正な陽光を浴びて眩い象牙色に輝いている。これまで、幾度も幾度も同じ夢を見てきた。だがその度に、同じ朝陽の下に目覚め、無機質な色の無い空間の中で同じ感情を抱くのだ。これからも恐らく、変わり得ぬ夢なのだろう……セシルはこの不可解な夢について、もう無駄な思考を巡らせる事は無くなっていた。
 セシルはそれから、半ば反射的にベッドの中で俯せになって、祈るような気持ちで小振りの枕下へとそっと右手を潜らせた。指先に触れる、重みがあって分厚く、くすみがちな黄色い羊皮紙の感触――彼女の記憶通りの封筒の感触が、確固な物として伝わってくる。次に、鮮やかなエメラルド色のインクで書かれた宛名の筆跡だ。セシルの指先は慣れた造作で楽々と、その筆致を殆ど正確に辿ってみせた。やはり、この手紙の存在は幻では無いのだ。確かに、彼女の元へ届いているのだ。セシルは、その事実を思うだけで涙を零してしまいそうだった。彼女はその封筒を枕下から引き摺り出して眺めたりは為ず、ベッドから起き上がると先ずは閉ざされたカーテンを開け放った。途端に、鮮烈な陽明かりが部屋中を充たして舞い込んで来る。窓越しに覘くお向かいは、未だカーテンをぴったりと閉め切っていた。彼女は続いて混じり気の無い白に塗られた雨戸付きの窓を開け放ち、早朝の清爽とした空気を余す事無く胸一杯に吸い込んだ。イギリスに帰郷して未だ間も無いが、この国の南東部に位置するライという美しい田舎町が醸し出すイギリス中世の名残と、町の住人達とが織り成す独特の由緒正しき穏やかな雰囲気は、セシルに奇妙な程の馴染み深さを感じさせていた。彼女は心地良い太陽の陽射しを真っ向に浴びた後、愛らしい小鳥達の囀りを聴きながら部屋の隅にある等身大鏡の前に立って、髪を丁寧に梳った。上品に波打つ見事な象牙色の髪は、梳かす程に艶っぽくなり鏡の前に立つ大人びた彼女の端麗な容貌を一層際立たせた。セシルは円らかな蒼色の瞳を瞬き、乱れていた髪の毛が充分に整ったのを確認して、淡いブルーのパジャマ姿のままリビングへと向かった。
「マリアンヌおばあちゃん、おはよう」
「おはよう、セシル」
 リビングのオーク材で出来たダイニングテーブルへ熱々のティーポットを置き、目許を綻ばせている祖母に向かいセシルは行儀良く挨拶した。祖母のマリアンヌは、色白の肌に肉付きが殆ど見られない痩せ細った躰つきをしており、その額や口許には細かな皺が幾つも刻み込まれていた。孫娘であるセシルと同じ蒼色の瞳を持ち、老いの影響から僅かに曇ってはいるがその眼差しは生き生きとしている。若かりし頃の美貌を彷彿とさせる面影は未だに健在で、セシルとマリアンヌとが並んでいれば紛う事無き血縁の濃さを感じさせた。
「パパとママにも挨拶を忘れないで」
 セシルはマリアンヌに促され、ダイニングテーブルを横切りリビングの窓辺に置かれた写真立てに向かった。そこにはセシルの両親が自然の木洩れ日を受け、幸福に溢れた微笑みを浮かべながら寄り添い合って映っていた。セシルは写真立ての中の二人の顔をそっと指で撫でて、もう何度目かの挨拶を交わした。セシルにとって、二人の笑顔は平和の象徴その物で在り、この額縁の中に永遠に切り取られた純粋な愛≠サの物だった。セシルは度々、二人が生きていた頃していたであろう会話を想像したりする。マリアンヌの話に依ると、母は自らが決心した事なら梃子でも曲げないお転婆娘で、父はそんな母を全力で愛してくれた初めての誠実な青年≠セったと言う。
 何時ものように愉しげな物思いに耽るセシルの様子を横目で眺めて、マリアンヌは可愛らしいピンク色の薔薇が描かれたティーカップ二つに、薫り高いアップルティーを注いだ。瞬く間にリビング中を染め上げたこの薫りに、セシルは驚喜を露わにしてダイニングテーブルを振り返った。
アップルティー・・・・・・・だわ!」
 セシルは思わず踊り出したい衝動に駆られるのを抑え込んで、大人しくダイニングテーブルの椅子に座った。マリアンヌは一瞬、彼女の周りに散った菫色の儚げな花弁に見惚れていた。しかし、セシルは自分の身に起こっていた変化に、まるで気付いていない様子だった。普段はアールグレイやダージリン等の紅茶らしい紅茶を好むマリアンヌは、アップルティー等滅多に買っては来ない。セシルにとってアップルティーは非常に特別で、日頃はお目にはかかれない貴重な存在だった。
「セシル、今日は転入準備を進めましょう」
「お買い物に行くの?」
「勿論、そうよ。遠出しなければね」
 セシルはマリアンヌが淹れてくれたお気に入りのアップルティーに口付けながら、その整った顔立ちにほんの僅かな不安の色を滲ませていた。
「ロンドンまで行くんでしょう?」
「ええ、確か……『漏れ鍋・・・』、だったかしら」
 マリアンヌは後ろで一つに結い込んだ白髪の三つ編みを揺らし、強かに頷いた。セシルは期待と不安とが絶妙に絡み合った複雑な感情に、自然と心が在らぬ方向へ押し流されそうになっていた。
「おばあちゃん、私、本当にホグワーツへ転入なんて出来るのかしら……? 私、本当にそんな大事な事が許されている娘だと思う……?」
「セシル……」
「私……ごめんなさい。こんな事を言って」
 セシルは、マリアンヌへの申し訳無さからか頓に口篭もり、束の間下へと俯いてしまった。だが、今度彼女が顔を上げた時にはマリアンヌに向かってにっこりと麗朗な笑みを浮かべて見せた。
「おばあちゃん、ありがとう。私もロンドンへ行きたいわ!早く必要な物を全部揃えなくっちゃ」
 セシルはそう言ってアップルティーを綺麗に飲み干すと、ご馳走様をしてティーカップとソーサーを洗いに台所へ向かった。美しいソプラノの声で小さくハミングしながら食器を洗うセシルのあどけない横顔を見つめて、マリアンヌは物言わぬままアップルティーをもう一口、口に含んだ。
「本当に、貴方に似てきたわね……フィオナ」
 マリアンヌの侘しげな眼差しは、窓辺に置かれた写真立てに直と注がれていた。窓の外から舞い込んだ風にふわりと煽られ、薄手の白カーテンが閑雅なシルエットを描いて軽やかに靡いた。
 それとほぼ同時に、ライの早朝には決して聞き慣れる筈も無いバイクの粗暴な走行音が、何処か彼方から騒々しく呻りを上げるのが解った。セシルはシンク内を丁寧にスポンジで擦っていたが、その手を静止し思わず後ろを振り返った。バイクの音は徐々に、しかも確固にこの家に向かって近付いて来ている。そのエンジン音は刻一刻と、セシルに一寸の考える隙も与えず容赦無く、あっと言う間に間隔を詰めて差し迫って来る。軈て、マリアンヌの家の玄関前の石畳に、バイクのタイヤが物凄い衝撃音と共に着地して摩耗する音、途端にぶつりとエンジンの切れる音等が聴こえた。
「アー……こりゃぁ、いかんな。修理が必要になるやも知れん……まぁ後でチョチョイッと弄ってやろう。それよりも…ウム、此処で合っとるらしい」
 セシルは蒼色の瞳をまん丸に剥いて、今や玄関前に立っているであろう声の主の姿を想像した。セシルの聴覚に狂いが無ければ、殆どこの家の天井と同じ高さから声が響いて来たように感じられる。彼女は今までの人生の中でたった一度だけ、呆気に取られてしまう程に躰の大きな人と出会った経験がある。彼女が以前通っていたボーバトン魔法アカデミーの校長である、マダム・マクシームその人だ――しかし、二度目等有り得るだろうか?セシルは凍り付いた様に動かなくなった祖母のマリアンヌを背にして、玄関先に立て掛けられていた如何にも頼り無い箒を手に持って構えた。外の大男は大袈裟な咳払いをした後、此方に向かって、元々篦太い声を更に張り上げた。
「すまねえが、このドアを開けてくれるかな? 俺のサイズだと、悪いが――お前さん家のドアを壊したって、中に入ってはいけねえと思うんでな」
 セシルは箒を力一杯両手に握り締めたままの状態で、恐る恐る片手を空けて玄関の扉を開いた。木材の軋む音と同時に、遂に声の主の全貌が露わになった。安穏な朝陽を背中に浴びながら、其処に立っていたのは――恰も、童話に登場する樵のお爺さんを巨大化させたかの様な恰好の――伸び放題の細かく捻れた長い黒髪に、刺付いたもじゃもじゃの鬚。そして、黄金虫にも似た真っ黒な、悪戯っぽくきらきらと輝く醇朴な瞳。
「おぅ、お前さんがセシル、だな。……お前さん、えらい別嬪さんだな!ダンブルドアは、容姿については触れておらなんだしな……おっと、自己紹介を忘れる所じゃった。すまん、すまん。俺は、ルビウス・ハグリッド。ホグワーツの鍵と領地を守る番人をしちょる。ダンブルドア校長の命で、お前さんを迎えに来たんだ。今日はちょいとばかし……いんや、かなり・・・忙しい一日になるぞ!」
 ハグリッドはそう言って右手を挙げると、顔中一杯に快活な笑顔を浮かべて見せた。



ライの朝



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