(企画『Melting Kiss』様提出作品)


彼は、昔からずっとわたしの憧れだった。

『なんしよーと?』

初めて彼と会った時、その時わたしの世界はきっと変わったんだ。







「名前ちゃん!」
「優ちゃん………!」

見事今年成人したばかりのわたしは、最近の中で一番というくらい一生懸命走ってきた。
息を切らしながら、長谷津のスケート場に駆けこむ。
出迎えてくれたのは、ここのスケート場を運営している、優ちゃん。
小さい時はスケートがとっても上手くて、わたしのお姉ちゃんみたいな存在だった。

「ひ、久しぶりに走った…」
「もう!情けないなぁ」
息を整えるわたしを見て、優ちゃんは昔と変わらない笑顔で笑う。
ここ数年、優ちゃんに会うのはもちろん、スケート場にも行ってなかった。

そんなわたしが今日、本当に久しぶりにここに来た理由は。

「優ちゃん」

心臓がバクバクするのは、きっと久しぶりに走ったせいだけではない。
期待を込めながら、息を吸い込んで。
わたしは、言葉を発する。

「勇利くん、いる?」


――――
――


初めて勇利くん――勝生勇利くんと出会ったのは、わたしがまだ5歳のとき。
親に勧められて、スケート教室に通うようになったときだった。

『名前ちゃんー、まずはこっちまでおいで!』

教室の先生が、まだ入校して間もないわたしを、スケートリンクの真ん中辺りから呼ぶ。

『行けないぃー!えーん!』

氷のツルツル滑る感じが、まだ慣れていなかったわたしは、フェンスに掴まったまま大声をあげて泣いていた。
その時スケートはまだ始めたばっかり、滑っては転んで、滑っては転んでを繰り返していたから、きっとその痛みを恐れていたのだと思う。
とにかくわたしは、泣いてばっかりだった。

『名前ちゃん、おいでー!わたしも待ってるよー!』

その先生の隣に優ちゃんが並び、二人でわたしを呼ぶ。
それでもわたしは、手を離す勇気が出なかった。
グズグズと泣きながら、手を離す勇気も、それでもリンクを出る勇気も出なくて、わたしはそのまましゃがみ込んで泣き出してしまう。
先生や、優ちゃんが「どうしよう…」と頭を抱えた頃。


『なんしよーと?』


その時、彼に出会った。

『………?』
泣き顔のまま聞こえた声に、わたしはゆっくりと振り返る。
そこにいた男の子は、わたしより年上で、大きな黒い瞳を覗かせていた。
優しげなその雰囲気に、わたしの涙腺はどんどんと壊れていく。
『……怖い』
そう言うわたしに目線を合わせるようにしゃがみ込むその男の子。
その自然な動作に、この男の子のスケート技術が、どれだけわたしより上手いかが一発で分かった。
『何が?』
そうわたしの目を見てゆっくりと聞いてくる男の子。
わたしはグズグズと嗚咽を上げながら、『…転んだら痛いの』と呟く。
彼の瞳から視線を逸らし、わたしはもう一度俯く。
スケートリンクの白色が、視界いっぱいに広がる。
綺麗な白色をしているのに、キラキラしていて綺麗なのに、わたしにとっては痛い思いばっかりしている怖い場所にしか見えない。

『スケート、嫌いなの?』

その言葉に、わたしは咄嗟に、思いっきり首を横に振った。

テレビで見ていた、キラキラした世界観。衣装も、髪飾りも、音楽と融合された美しい演技も、全てが釘付けになるものだった。
もちろん競技界の中で、スケートはそんなキラキラしているものではない。
それこそ血の滲むような努力をして、何度も壁にぶつかり、這いつくばって上に行くような世界。
だけど、そんなところは決して見せないスケーターたちの世界が、とてもかっこいいと思った。

スケートリンクだって、転ぶのが怖いだけ。痛いのが、怖いだけなんだ。
本当はわたしも、先生、優ちゃん、それにこの目の前の男の子のように、思いっきり滑りたかっただけ。

本当はわたしも、スケートが大好きなんだよ。

そう思っていると、目の前の男の子は優しく笑う。

『なら大丈夫だよ。それなら、怖くない』


『一緒に行こう?』

その言葉と同時に差し出された右手は、わたしにとって何よりも輝いているものに見えた。
視界が開けたように、まるで世界が全て変わったように。
わたしの世界は、その男の子で一気に染まっていった。

震えるように恐る恐る伸ばした手を、男の子は優しく、だけどそれでいて力強く取る。

そうしてゆっくりとその男の子――勝生勇利くんに連れられて、わたしは先生と優ちゃんのもとに滑っていった。


――
――――


それからというと、わたしは常に勇利くんを追いかけるようになった。
彼がいるから、わたしも彼に見てもらいたくて氷の恐怖を克服した。
優ちゃんの後ろに付いて行きながら勇利くんとお喋りをするようになったし、練習後はわたしから誘って一緒に帰ったりもした。

仲良くなって気が付いたことがあった。

意外とドジなこと。
意外と小心者なこと。
カツ丼が大好きなこと。
だけど、食べたらすぐに太ってしまうこと。
勇利くんの憧れは、ずっとヴィクトル・ニキフォロフであること。
そして、勇利くんの好きな人は、優ちゃんであること。

勇利くんが、どれだけ男としての魅力が少なかろうが、違う人を好きだろうが、わたしは構わなかった。
恋に対して全く免疫がないところも、氷以外では人畜無害そうなところも、全部引っくるめて勇利くんだと思ったから。

だけど、そんな勇利くんに対して、一つだけ、本当に一つだけ不満があった。

『勇利くん、見てみて!こんなに滑れるようになったのー!』
『うわぁ、すごいね。偉い偉い!』

『勇利くん、一緒に帰ろうよ』
『いいよ。じゃあちゃんと送らないとダメだね。名前ちゃん守らないと』

確実に。確実に、彼はわたしを“妹”として扱っていた。
優ちゃんや、他の女の子に対しては狼狽えているのに、わたしに対しては常に穏やかな………余裕そうな雰囲気で接してくる。
“女”として扱われていない。
そのことに気がついたときから、何とかアピールをしてきたつもりだったが、全くの空回り。

そのまま時は流れ、わたしはスケートをやめて、勇利くんはデトロイトへと旅立つことになった。
離れ離れになることにわたしは泣いたけど、勇利くんは、『次会ったとき名前ちゃんに彼氏できてたら驚くなー』と寂しそうに笑うだけ。

そうして、彼の気持ちを動かすこともできないまま別れて、5年が経った。



だから、優ちゃんから、勇利くんが帰ってきていると教えてもらったとき、わたしは飛び出していた。
ずっと勇利くんを応援していた。
彼がどんなに失敗しようが、魅力は全然失われていないと思った。
会いたくて、会いたくて、ずっと焦がれていた存在。
無我夢中で、彼と初めて会ったこのスケート場へと走った。

「彼なら、リンクにいるよ」
そう言う優ちゃんの笑顔に見送られて、わたしの足はリンクへと向かっていた。
柔らかな優ちゃんの笑顔。
とてもいいお母さんになっていた。

5年が経ったんだ、周りの人間関係も、この街だって、色々変わった。
それでも、わたしのこの気持ちだけは、決して変わったりなんかしなかった。



「………勇利くん!」

しん、と冷たい空気が流れるリンク内。
その広い真ん中、リンクのちょうどど真ん中に彼はいた。

「…あれ?名前ちゃん?」

少し不思議そうに顔を傾ける勇利くん。
随分と感動のない反応だとは思ったけれど、それでも構わなかった。
リンクサイドに滑ってくる勇利くんを見つめながら、目頭はどんどん熱くなっていく。

勇利くんは、あの頃のままの勇利くんだった。
少しぽっちゃりしたようには見えるけれど、人畜無害そうな顔も、その足元のスケート技術も、優しそうな声も、全てわたしが大好きな勇利くんだった。

「勇利くん………っ!」
「わっ!」

そのまま勇利くんめがけて飛び付くわたし。
驚きながらも、何とかわたしを支えてくれた勇利くんに、わたしは抱きつく。

「ど、どうしたの名前ちゃん」

相変わらず勇利くんは顔を赤らめることもなく、驚いたように目を見開くだけ。
あぁ、ここまで変わっていなくてよかったのにな。
腰あたりに回っている腕にそう思う。優ちゃんだったら、きっと、回せてなかったよね?

「………勇利くん、わたし、ずっと会いたかったよ」

それでも、久しぶりの彼の匂いを胸いっぱいに感じながら、わたしは呟く。
「うん、僕も」と優しく言ってくれる勇利くん。
勇利くんのその言葉は、きっと偽りなんてない。もちろん嬉しいけれど、でも、わたしが本当に欲しい意味とは違う。
わたしが、本当に欲しいものは。


―――――いつまでこの距離のままでいるんだ。

「勇利くん、わたしね、もう大人になったんだよ」
「え?あ、そうだね。背も大きくなったよね」

―――――何かを変えたいなら、自分で変えればいい。

「だから、わたし、もう嫌なんだ」
「え?何が………………」

―――――それならば、とっておきの魔法をプレゼントしよう。


「……………っ」


彼が、呼吸を失うのが分かった。
揺れる吐息が、わたしにも伝わってくる。
背伸びをして、がんばって彼に近づいた。
背伸びをしてもいい。
無茶は承知だ。
どうしても、彼との今の関係を壊したかったから。

触れ合う唇をゆっくりと離す。

恐る恐るその目を見ると、驚いたように揺らめいているのが分かった。

「な、何で………」

そう言った彼の言葉は、とても弱々しくて。
真っ赤な顔を見た瞬間に、わたしは心の中で小さくガッツポーズをした。



『なんしよーと?』

あの日、わたしの世界を変えてくれた勇利くん。
次は、わたしが彼の世界を変えてみたい。




そう思いながら、ずっと心の中で大事にしてきた言葉を、ゆっくりと彼に伝えていった。



全て越えていきたいから





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