お伽話から目覚めて

それはまるで、おとぎ話を聞くような、どこか安心する響きだった。


(……ここ、どこ…?)

深い波に包まれたような感覚に、わたしは意識を戻す。
だけど、目を開けてもそこには、何もなかった。
ぼやける視界の中、目に映るのは全てを消し去ってしまうかのような、白色だけだった。

―――『君には、この白い世界さえ恐ろしいものになるのかもしれないね』

辺り一面真っ白な世界。
意識がフワフワとどこかに浮いたように、まるで違う世界を行き来しているような感覚。
そんな世界の中で、わたしの鼓膜には彼の声色が響いていた。

―――『もう君には、こんな世界はいらないのかもしれない』

手も足も、何も動かせないのに、不思議と怖さはなかった。
ただ、とても冷たかっただけ。

体はこんなにも冷たいのに、手の平だけは温かいような気がした。

―――『……これを、悲劇だなんて言う人もたくさんいるんだろう』

意識がどこかを行ったり来たりしている中で、わたしはその温もりの在り処を探していた。
優しい温もり。
きっと、この声の持ち主の物なのだろうと思った。

……ねぇ、あなたはどこにいるの?
言葉にできないもどかしさも、全てを含んでわたしは沈んでいく。

―――『でも俺は、それでも君を諦めたくない』

……フワフワと浮いていた意識は、わたしも分からないところへ行ってしまうみたいだ。

まだ、あなたの顔を見ていないのに。
まだ、あなたの手を握り返していないのに。

―――『どんな形でも、どんなに苦しいだろうと』

どこか泣きそうなあなたの頬を、撫でてあげられていないのに。


―――『そうだろう…?名前、』



それを、悲劇だと言う人もいるのだろう。
それでもわたしだけは諦めたくない。
わたしたちだけは、信じていたいと思っていた。


―――『今はもう、全て忘れてしまえばいいんだ』


ねぇ、そうでしょう?


「――――、」


口にしようとした名前は、まるで深い深い水の中に入ったように、空気となって消えていってしまった。







「――さん、苗字さん!」

耳元で聞こえた声に手繰り寄せられるように、わたしは重い重い瞼を開ける。

淡い日差しが降り注ぐ部屋の中。
「起きました?」と、看護師さんがカーテンを開けた。

「何回か呼んでいるのに中々起きないから、少し心配してしまいましたよ」
と、笑って言う看護師さん。
部屋に置いてある小さな観葉植物に霧吹きで水をかけながらせっせと動くその後ろ姿を、わたしはまだどこか微睡んだ意識の中で見つめていた。

「何かいい夢でも見ていましたか?」と、そんな看護師さんに聞かれて、わたしはふるふると首を横に振る。

……夢、だったのかな。
夢というよりも、まるで長い物語を聞いていたような時間だった。
お伽話のような、幻想的な時間。

「……今日は、いい天気ですね」

やけに重たい体を起こしながら、わたしは窓の外を見た。
高い空。
雲が所々に浮かんでいる、青い空。
さっきまで見ていた夢の、白い世界とは全く違った、彩られたものだった。

「秋ですからねー」と応えた看護師さんの声を耳に、わたしはそんな空をじっと見つめていた。
青い、青い空。
その青が、何かに重なって見えた。

――『どんな形でも、どんなに苦しいだろうと』

その青に重なってなぜか頭の中に響いたその声に、わたしは心の中で少し戸惑っていた。



「体温、血圧、酸素濃度。………うん、大丈夫ね」

毎朝の検診を行ってくれた看護師さんが病室から出て行くのをわたしは見送り、そしてまたシーツの中へと体を沈めた。

鳥たちのさえずりが、こちらまで聞こえてくる。
外を映す、小さな窓。
わたしのちょうど反対側に置いてある、小さな観葉植物。

いつもと変わらない毎日。

わたしは今日も、いつものようにベッドの上にいた。


―――コンコン。


そんな静かな世界に、遠慮がちにドアのノック音が響く。

「…?はーい」

いつから病院にいるか、分からないほどには長くここにいるわたし。
そんなわたしの病室に来る人なんて、医者や看護師くらいしかいない。
さっき看護師さんは出て行ったばかりだ。何かあったのかな?
そう少し不思議に思いながらわたしはドアの向こうへと返事をした。

―――ガラガラと、開けられる扉。

途端に漂う甘い香りに、わたしは顔をあげた。

革靴。
茶色いコート。
その下から見える黒いスーツ。
真っ白な肌。
グレーの、綺麗な髪の毛。

まるでどこか高貴な場所へでも出かけて行きそうな雰囲気を持った男の人が、そこにはいた。
初めて見るその姿に、わたしは目をぱちくりとさせる。

誰、だろう。この人。

そう思って声をかけようとしたのに、伏せられたその目がわたしを捕らえた瞬間、わたしは何も言えなくなった。


「Очень приятно」


青い、青い、まるで今日の空模様と同じような色が輝いていた。
その色に、わたしは引き込まれてしまうような感覚に陥る。

何も言えないわたしを手前に、その人は、後ろ手に隠していたものをわたしに差し出した。

「………え、これ…」

それは、綺麗な、綺麗な花束。
先ほどから病室に広がった甘い香りの正体は、きっとこれなのだろうと思った。
だけど、綺麗に彩られたそれを見て、わたしの頭の中はどんどんと戸惑いで溢れていく。

「驚かせたかな。ごめんね」

そんなわたしに、花束を差し出しながらその男の人は眉を下げてそう言う。
どこか落ち着くようなその低い響き。
わたしは恐る恐る彼を見つめた。

彼の青い瞳は、混乱しているわたしを写したまま。
やけに力強く、真剣味のある瞳でこちらを見てくる男の人は、わたしを見つめたままこう言った。



「はじめまして。一目惚れしちゃったんだ」









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